第二十九話 愛しの恋人
窓の外は雨が降っていた。ペントハウスから眺める街灯りの夜景は、雨の滴で滲んでいた。カルメンは壁一面に張られたガラス窓の縁でぼんやりと外を眺めながら、ボリスが残したメッセージの意味を考えていた。
ボリスとカルメンの関係を知る人は誰もいないと思っていたが、ある人にだけは愛人の存在を伝えていたらしい。自分の死を予期していたかのように。このメッセージはボリスからカルメンへ託されたものだ。カルメンはそう受け取った。
ダイニングテーブルの天板の裏に書かれていた、”ホセ”という文字。床で死んでいた彼の指には僅かに同じジャムが残っていたそうで、彼が死ぬ前に書いた文字に違いなかった。
何故ジャムなのか—それはその時目の前にあって、文字を残せる物がジャムだったからだ。何故天板の裏だったのか—それは犯人にメッセージが見つからないためだ。
テーブルには、ボリスと一緒に誰かが座っていたに違いない。ボリスは紅茶を飲むとき、よく砂糖とミルクの他にジャムを混ぜる。つまりあの日、犯人はボリスと紅茶の席に着いていた。だが発見されたときテーブルの上には何もなかったから、彼を殺した後、犯人が片付けたのだ。
しかしボリスの死は、殺人として立件されることは無かった。当初は、ガラス窓が切られていたり、携帯電話が無くなっていたりと不審な形跡があったため、他殺の線で捜査されるはずだった。しかし数日後、一転して病死ということで捜査は打ち切られた。マフィアが背後にいる事件ではよくあることだ。
カルメンはこんな形で、マフィアの影響力を思い知った。
ところで、ホセと言えば、オペラ”カルメン”の登場人物の名前だ。
ジプシーの女カルメンは、ドン・ホセという兵士を誘惑する。ホセはカルメンの色香に惑わされ、婚約者を捨ててカルメンの元へ走る。そして一緒に悪事を働くようになる。
しかしカルメンの心は闘牛士エスカミーリョへ移る。ホセは愛を取り戻そうとするが、カルメンの心は戻らない。—捨てられた哀れなホセ。
彼が意味したホセが誰のことか、カルメンにはとっくに分かっていた。状況を考えれば明白だ。
ただ、彼がその人に”ホセ”というキャラクターを当て嵌めたのが意外で、可笑しかった。それなら最終的にカルメンの心を手にした”エスカミーリョ”はボリスだろう。彼がそこまで見抜いていたとしたら、何て千里眼だろう。
カルメンは目を閉じて思わず笑みをこぼした。
その時、背後から突如伸びてきた手が、カルメンの首筋を伝った。驚いて心臓が飛び上がりそうになる。しかし、鍛えあげられた硬い手を見ればすぐに誰だか分かり、平静を取り繕った。ホセ—いや、ノア。
本当は火曜日に会う約束をしていたが、結局仕事だと引き伸ばされて今日に至る。そろそろ来る頃なのは知っていたが、いつの間に背後にいたのか、気配がしなかった。
—そうだ、この人はいつも静かで、音がしない……。
物欲しそうな指が首筋から胸元を這う。カルメンはその手に自分の手を重ね、前を向いたまま呟いた。
「貴方は人を殺す時も、そんな風に音を立てずに近付くの?」
つい心の声が漏れてしまった。彼の手に戸惑いが見えた。
「急にどうした? 気を悪くしたなら謝る」
カルメンは振り返った。ノアは困った顔をしている。両手でその頬に触れ、気にしないでと笑顔を作った。
彼から醸しでる雰囲気は何処か冷たく、以前よりも殺伐としていた。触れるとピリリと感電しそうなほどだ。今まで取り掛かっていた仕事が、ニュースで報道されていた事件のことだとすれば、無理もない。生死を分ける仕事だったに違いない。
「そうだ、カルメン。これを」
そう言ってノアは箱から何かを取り出す。青い大振りのジュエリーが光るネックレスだった。それをカルメンの首に回して付けた。
「あたしのために?」
「ああ。色々と今までのこと……」
誕生日のことを未だに後ろめたく思っているのだろう。少し気まずそうな彼を可愛いと思った。
「素敵ね。何の石?」
「サファイア……だったかな」
「ふうん。貴方が選んだの?」
カルメンは意地悪に笑って尋ねた。
「いや、実は妹が選んで用意してくれたんだ」
そこは自分が選んだと嘘をついたっていいのに、不器用にも正直に答えるあたりが彼らしい。
「ありがとう」
カルメンはノアの首に腕を回して抱き付いた。いい人だ。闇の世界の、しかも一構成員などではなく、最も闇深い上層部にいることが信じられないほど。
唇を重ね、舌を絡める。どちらともなく甘い声が漏れる。唇を密着させたまま、ソファへ移動した。ガウンを脱いで誘うと、彼はやや強引に中へ入ってきた。
「欲しかったのね?」
「ああ、ずっと」
紅潮した頬で愛おしそうに自分を見つめる表情に、冷たさは消えていた。カルメンは優しく彼の髪を梳き、腕の中に包み込んだ。
腰の動きが激しさを増すと、喘ぐ声はいつしか演技ではなくなった。腕を回した彼の背中は汗が滲んでいる。自分もぐっしょり汗をかいて、溶け合うような感覚に陥った。二人の体から立ち上がる蒸気が見えるようだった。
シャワーで汗を流した後、カルメンはシャンパンを振る舞った。二人はソファに並んで腰掛け、くつろぎのひと時を過ごした。ノアはカルメンの肩を抱き、カルメンは彼の肩に頭を預ける。
「それじゃ、貴方がずっと追っていた兵器ってのは、もう解決したってわけね」
「うん。少し肩の荷が降りる」
「ニュース見て驚いちゃった。まさかキベルジア・ケミカルがノビチョクを開発していたなんて」
「……そうらしいな」
ノアは歯切れ悪く目を逸らす。彼は決して自分が犯罪に関わったとは言わない。しかしキベルジア・ケミカルの事件は大きく報道されており、一部の界隈ではルーベンノファミリーが関わったとすでに噂になっている。
そして、報じられてはいないが、ボリスが同じ日に死んだことをカルメンは知っている。
「ようやく落ち着ける」
彼は深呼吸して、甘えるように持たれかかった。本当に困難の日々だったらしい。ここへ来て心から気を許しているのが分かる。
「だから、今まであまり会えなかったし、あまりいい男じゃなかったかも知れないが、これからはもっと一緒に時間を過ごせる。……お前さえ良ければだが」
ノアが遠慮がちな言い方をするので、カルメンはまた小さく吹き出した。このまま恋人関係でいて良いのかと、わざわざ了解を得ようとしている。
彼はボリスよりずっと若いが、暖かくて包容力がある。それに、本当にいい人だ。彼がボリスを殺した犯人でなければ、あのまま好きでいられたかも知れないのに—いや、何処かでまだ好きなのだ。だからこうして改めて会ってしまうと、氷が溶けていくように暖かい気持ちになる。
ボリスを殺したのが彼でなければ—因果を恨むと同時に、今になって罪悪感も湧いてきた。
「好きよ、ノア」
カルメンは再び唇を重ね合わせた。
—そう言えば、オペラではカルメンは最後ホセに殺されるんだっけ……。
ベッドでそんなことをふと思いながら、彼の暖かい腕に包まれ眠りについた。
雨音が闇を包んだ。
ノアは暗闇の中、ふと目を覚ました。締め切られたカーテンの広い部屋が見える。カルメンの寝室だ。寝る直前の記憶がないほどあっという間に眠りに落ちていたが、目覚めてしまったのは、まだ抗争での緊張感が残っているせいだろう。
ベッドの上が物寂しい気がして、隣へ手を伸ばす。シーツの上を弄るが、そこにいたはずのカルメンはいなかった。トイレにでも立ったのだろうか—そう思って再び寝ようとしたが、何となく癖で枕元に手を伸ばす。抗争が起きている間はいつも、寝る時も手の届く範囲に拳銃を置いていた。が、ここはアジトではないことを思い出す。
就寝前にどこへ置いたか、記憶を辿った。確かリビングで服を脱いで、そのまま置きっぱなしにした—いや、寝る時に確かに寝室へ持ってきた。
ベッドサイドのチェストへ手を伸ばす。無造作に置かれているのは自分の衣服だ。その中を手で弄ってみるが、あるはずの拳銃はない。隣のリビングに置いてきたか、寝室のどこかに落としたのかも知れない。
ひどく眠いせいで、記憶が曖昧だ。微かに胸騒ぎがしているが、心地良い高級クッションのベッドが眠りへ誘う。朦朧としながらノアは再び目を閉じた。
スーツを着た男が三人、寝室の前に立っていた。それぞれサプレッサー付きの拳銃を手にし、中の様子を窺っている。カルメンは薄暗い廊下で、ことの次第を見守っていた。
三人の男は目を合わせて合図すると、寝室の扉を開けて一斉になだれ込んだ。無言で中央のベッドへ向かって銃を構え、寝ている男に向かって同時に銃弾を打ち込んだ。
暗闇の中、何発の弾が飛び交ったか分からないほど一方的に発砲し、マットレスや木枠にも流れ弾が飛んだ。ベッドは穴だらけになった。
寝ている男に身動き一つさせる間も無かった。
サプレッサー付きとはいえ、無数の銃声はカルメンの耳にも届いた。驚いて男に問いかける。
「どうして撃ったの? 何をしたの?!」
「これには訳が」
一人が寝室から廊下に出て、なだめようとカルメンに近寄った。
「殺したの? なんで?!」
「落ち着いて。後で説明します」
「話が違うわ! 逮捕する約束でしょ?」
カルメンは男の胸倉に掴みかかる。
「彼はボリスを殺した男ですよ? 捕らえるのに生死は関係ないのでは。後始末の心配は要りません。我々にお任せください。部屋も弁償します」
軽く言い放つ男に、平手打ちを食らわせる。静かな廊下に、パチンと乾いた音が響いた。
「誰がそこまでしろって……!」
カルメンは口元を抑えながら背中を向け、よろめきながらソファに崩れ落ちた。ショックを受けている自分に驚く。
ノアの死など望んでいなかった。ただ、裁きを受けさせたかっただけだ。まだ好きだった。だが、後悔してももう遅い。彼のシャンパンに睡眠薬を入れたのは自分だ。この男達を招き入れたのも、それを決めたのも自分だ。
気を強く持たなくては。胸を襲う痛みのあまり、込み上がってくる涙を堪えた。
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