第二十七話 煙と灰に包まれて

 ピョートルと別行動を取ったヤコフは、ヘリが墜落した地点へ向かった。場所は第三プラントと第二プラントの中間あたりだった。


 Mi-24のボディからは真っ赤な炎が激しく噴出し、黒煙が立ち上がっていた。熱気で近付くことができず、中の様子も見えない。

 工場施設には必ず消火設備が備わっている。ヤコフは自動小銃を背中に仕舞って両手を空け、一番近い建物から消火器を持ち出した。周囲に敵が近付いていないか警戒しつつ、ヘリに向かって消火器を噴射する。しかし炎の勢いが強く、消火器では全く勢いが柔らぐ気配がない。


 —これじゃ、あいつらは……。


 ヤコフは歯を噛み締めた。乗員は四人。乗っていた諜報部隊のディーマは、ノアが特に頼りにしていた若手だ。ヤコフの実力ある部下もいた。工場に武装集団の存在を想定していなかったばかりに、一瞬にしてこれだけの有力な部下の損害を出した。

 その上、顧問のピョートルとアンダーボスのヤコフまで失えば、組織は壊滅的だ。ただの一民間企業の工場だとたかを括っていた数時間前の自分を殴りたい。


 消火器では歯が立たないため、消火ホースを持ってこようと考えた。消火器を投げ捨て、付近の建物でホースを探す。

 頭では分かっていた。ヘリに乗っていたディーマ達四人がもう手遅れだと。それでも、目の前で燃えている機体と彼らを放置できない。ここで見捨てるのは、彼らを敵陣のど真ん中に永遠に置き去りにしていくことを意味する。


 —兄さんは、俺が死にかけてても助けてくれた。こいつらは俺が助けないといけない気がする。


 ヤコフは走り回ってようやく見つけたホースを取り出した。ピンと張ってギリギリ水が届きそうだ。ホースを伸ばした後、消火栓のバルブを開く。水が管を伝って、先端から吹き出した。

 火の勢いは先ほどより増していた。こぼれた燃料に引火して、範囲も広がっている。

 燃えるヘリに、勢いよく吹き出す水を掛けた。さっきより多少効いている気はするが、鎮火までは時間がかかりそうだ。


 視界に人の気配が見えて、反射的に身を隠す。次の瞬間に銃弾が飛んできて、カンという音を立てた。銃弾が、頭上を走るパイプを支える鉄柱に当たったのだ。 ヘリの向こう側に一人。右方向にも、少し離れて狙撃しようとしている二人の人影がある。やはりルーベンノのアンダーボスを仕留める好機を見逃さなかったらしい。

 ヤコフはホースを投げ出し、死角になる建物の影に逃げ込んだ。背中からAK-47を下ろし、ボルトを引く。銃弾を避けるため遮蔽物から必要最小限だけ身を乗り出して、ヘリの向こう側を狙って三発撃った。しかし全て外した。

 弾倉が空になったので、防護服の上に付けたベルトから最後のマガジンを取り出して装填した。この三十発で終わりだ。

 壁から顔を出すと銃弾が飛んで来る。慎重にタイミングを見計らって、通路にいた二人組の方に狙いを定めた。


 しかし突然、目の前が真っ暗になった。コンマ数秒遅れて、鼓膜が破れるような轟音と共に、全身を包む強い衝撃が襲う。気付いた時には、数メートル後ろに吹っ飛んでいた。

 爆発に巻き込まれたことに気付く。爆音のせいで鼓膜がやられたのか、音がグワングワンと反響してよく聞こえない。衝撃が過ぎた後も目の前が暗いままだが、すぐにマスクに煤がついているせいだと気付き、手で拭った。

 体を起こそうとするが、衝撃で痺れて上手く動かない。顔だけ起こして体を確認すると、所々防護服が焼けて無くなっていた。火傷を負ったようだが、手足はついているし重傷ではなさそうだ。防護服のおかげで体が守られたと言っていいだろう。

 体に力を入れると、やや遅れて火傷の痛みが襲ってきた。


「ピョートル、聞こえる? 大丈夫?」


 立ち上がりながら無線に話しかける。しかし返事はなく、無線からは何の音もしない。そこで耳に付いていたイヤホンが溶けて壊れていることに気付き、外して捨てた。

 正面を見上げたヤコフは愕然とした。巨大な煙突が目の前に倒れ、先ほどのヘリとは比較にならない勢いで炎上している。黒煙と共に灰色の塵が舞い上がり、瞬く間に空を覆っていく。

 やや左を向けば、燃え上がる熱交換器がある。正面には倒れて炎上している煙突が行手を阻む。右からも小さな爆発音が聞こえた。火が次々と引火しているようだ。後ろへ下がるが、そこには建物の壁がある。


「ヤバいって……」


 ヤコフは逃げ場を見失っていた。壁は高く、登れるような突起はない。壁を登るほどの体力も残っていない。そうしている間に頭上を煙が覆い、空が見る間に狭くなる。

 空気が熱い。ストーブの中に放り込まれたような気分だ。熱でジリジリと体を焼かれていくのを感じる。

 煙を吸い込み、ゲホゲホと咳をした。今まで嗅いだことのない嫌な匂いがする。どう考えても体に良い何かではない。防毒マスクは先ほどの衝撃で壊れ、ほとんど役に立っていなかった。

 ヤコフは煙を少しでも吸い込まないようにと、その場にうずくまった。打開策を考えているのだが、焼け死ぬか有毒ガスを吸って死ぬか、その二択しか浮かばない。応援が到着するまで一時間はかかる。この状況では、とてもそれまでには生きていない。

 煙が肺に入り、呼吸が苦しい。強く咳をするうちに酸素が足りなくなり、目の前が霞む。


 —俺、死ぬのかな。……いや、俺がこんな所で死ぬわけないよな?


 そう自分に言い聞かせた。ふと、ボスであるゼフィル、そしてノアの顔が浮かぶ。この場にいない彼らは無事だ。ノアがいれば、組織は保てる。後を任せても大丈夫だ。


 —そういや俺、いつからこんなに兄貴のこと信頼するようになったんだっけ。……最初は嫌いだと思ってたのにな。


 ヤコフが十四で初めて彼に出会った時は、何を考えてるか全く分からない、まるで異世界の住人のような印象だった。孤児として育ったヤコフとは対照的に、貴族の温室育ちのノア。言動の何もかもが気取ったように見えた—ヤコフが勝手にそう思っていただけなのだが。そしてノアも、そんなヤコフへの嫌悪感を隠さなかった。

 その頃ヤコフは、自分が一番優れていると信じて疑わなかった。だからノアがいつの間にか自分を追い越した時には、序列で彼の下に付くことが許せず反抗した。そのため喧嘩ばかりしていた。

 不思議だったのは、敵対心を剥き出しにしているヤコフを彼が窮地から救ったことだ。当時のヤコフには、わざわざ嫌い合っている相手を助ける心情が理解できなかった。

 だが彼にとっては、組織全体の利益を考えた結果だった。お互いの敵対心や嫌悪の感情は、組織の前ではちっぽけでつまらない物に過ぎない。組織のためなら、憎い相手でも助ける—それが彼の組織への忠誠心をよく表していた。

 自分に足りなかった素質だと、認めざるを得なくなった。


 そうして一緒に過ごすうち、読めなかった考えも手に取るように分かるようになり、やがて二人の関係は揺るぎない家族の絆へと変化していった。今となっては、嫌い合っていた時期があったことすら忘れていた。


 —あれ、でもなんで今更そんな昔のこと思い出したんだっけ……。んん、これは走馬灯ってやつ……?


 ヤコフは再び現実に戻される。激しい炎の音が、耳の奥で反響して聞こえる。状況は変わっていないし、時間が経つほど悪くなる一方だ。閉ざされた袋小路に流れ込む煙の量も増している。

 何気なく空を仰いだ。灰が青空を覆い隠して、周りが薄暗い。


 その空に、突如白い機体が姿を現した。二枚のプロペラが付いた膨らみのあるボディが、頭上を横切って行った。


 —あれは……カモフ。そういやカモフは兄さんのお気に入りだっけ。


 テールローターを廃し、その代わりに大きな二枚重ねのプロペラを備えた設計がカモフの特徴だ。安定性能が高く、他のヘリが入れないような強風域でも飛行できる。

 見覚えがあるKa-32A1。ファミリーが所有しているのと同型だ。ボディの下からは、二本の給水ホースがぶら下がっている。


 —味方か?


 しかし救援が到着するのはまだ先のはずだ。訝しげに見ていると、再び戻ってきたヘリは、その腹から大量の水を地上へと吐き出した。燃え盛る炎の上にまるでダムのように、先ほどの消火ホースとは比較にならない量の水を一気に落とす。

 その間にヤコフは、もはや役目を果たしていない防護服と防毒マスクを脱ぎ捨てた。

 ヘリは何度か往復しながら、繰り返し放水した。炎の勢いが弱まった所で高度を下げ、梯子が降りてきた。開いたハッチから、見慣れた人物が顔を覗かせたのが見えた。

 ヤコフは躊躇いなく梯子を掴んだ。


 ヘリのキャビンに辿り着いたヤコフは、地獄からの生還を果たし脱力した。だが手を貸そうと近付く構成員を一旦制する。


「待って、暴露してるかも知れないから一旦除染するよ」


 そう言って一人離れ、RSDLで体を拭く。キャビンにいたノアは近付いて来て、焦げた服を剥がして火傷の手当てをするのを手伝った。


「気にするな。俺もAXに暴露した」

「え? 顔色悪いけど大丈夫?」

「ああ。……よく生きた」

 そう言って彼はヤコフを抱擁した。互いにきつく抱き締め合い、再会を噛み締める。

 州都でターチンの暗殺任務に当たっていたはずのノアが何故ここにいるのか、何故暴露したのか、色々事情がありそうだが、尋ねる余裕は無かった。


 ヘリは工場の敷地内にある貯水池の上へ移動した。高度を下げると、池に丸い波紋が浮かぶ。消防仕様のKa-32A1には貯水タンクが取り付けられている。給水ホースを水面に垂らして、タンクに水を補給した。


「他の奴は? ピョートルは?」

「ピョートルとは途中で別れた。あいつにデータを守るよう頼んでる。他は全員やられた」

 ノアは無線の周波数を合わせ、呼びかける。

「聞こえるか、ピョートル?」


 すると雑音に混じって返事が聞こえた。


『その声は……若頭?』

「今どこだ」

『第二プラントの資材置き場に隠れています』


 彼の無事が分かってヤコフもノアも安堵し、直ちにその場所にヘリを向かわせた。


『データと検体は全て……バッグの中に』


 ピョートルの声はか細く、途切れ途切れだった。

 資材置き場の上へ到着すると、這い出るようにしてひらけた屋外へ出るピョートルの姿が見えた。まだ火は到達していないが、すぐ側の建物まで燃え広がっている。

 ヘリは再び資材置き場周辺に向かって放水して、火の勢いを弱めようと試みる。


『ロープを下ろしてください……。そこにバッグを括り付けます』

「お前も一緒に登れ。いや、登れないならこっちから行く」


 ピョートルの足元はおぼつかなく、立っているのも辛そうだ。ノアは彼が負傷しているのを察した。


『来ないで下さい! ……私はすでに致死量以上を暴露しました。症状も強い。もう手遅れです。助けに来れば貴方も汚染されてしまいます……だから……』

「バカ、お前だけ置いていくわけないだろ! 構うかよ!」


 ヤコフがなじったが、ノアはその言葉が終わらないうちに、腰のベルトにロープの留め具を装着していた。部下達は焦っていたが、ヤコフは予想通りの行動を見送った。


「降ろせ!」


 そう言って機外へ飛び出すノア。

 熱波が襲う。火事の熱で気流が発生し、機体が揺れている。嫌な匂いもする。工場から有毒ガスが発生しているに違いなかった。地上にいた敵はすでに退却の準備に入り、散り散りに逃げていく所だった。

 地上へ到達し、ピョートルの元へ駆け寄る。今にも倒れそうな両肩を掴んだ。大量の汗、分泌物の増加、呼吸困難—間違いなくAXの症状だ。


「お前を見捨てていくと思ったなら、見くびり過ぎだ。大丈夫だ。俺も暴露したが生き延びた」


 声をかけながら、ピョートルの体にベルトを巻き、自分のベルトと結合させた。彼はうっすら目を開けた。


「ノア……大きくなりましたね」


 ピョートルはそう言って微笑み、安心したように再び目を閉じた。まるでこの瞬間を待っていたかのように意識を失ったピョートルの体を抱え、再びヘリのロープを手繰った。体は心許ないほど軽い。ここまで来て、死なせない—そう強く願った。


 揺れるロープをやっとの思いで掴み、二人は引き上げられた。ヤコフ、ノア、ピョートルの三人は煤だらけだ。体を水で洗い流し、皮膚を除染する。

 ピョートルの脈は消え入りそうなほど弱かった。アトロピンを継続して投与させるが、呼吸も脈も、儚げに遠ざかっていく。ノアは床に横たえられたピョートルの側に座り込み、祈りながら彼の運命を天に委ねた。


 —こうなるはずじゃ、なかった……。


 パイロットプラントだけを破壊するはずが、結果として第三プラント、第二プラントで大規模な爆発を引き起こした。一度に大勢の優秀な部下達を失った。抗争の功労者であり、右腕だったディーマ、サイバー部隊のアリ、アントン、そしてピョートルも。

 得た物に対して失った物の大きさを思い、ノアは目を伏せた。沈黙が機内を包んだ。

 窓からは炎上し続ける工場と、空を覆っていく黒い煙が見えた。ヘリは灰の中を突っ切りながら去っていく。大きな禍根を残して。

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