第二十六話 殺人鬼

 兵器の開発や使用を命じる者は、自分がその兵器で攻撃を受ける可能性など微塵も考えてはいないし、それによって受ける苦痛を想像もしていない。ノアが最も嫌悪する類の人間であり、こうして兵器の毒を身をもって首謀者本人に返せたことに、ある種の快感を覚えていた。


 ターチンは徐々に力を失い、テーブルの上に突っ伏した体制になった。テーブルの上に唾液が溢れた。が、まだ意識はあった。

 ノアは淡々と告げた。


「キベルジア・ケミカルとの提携の話は白紙にさせてもらう。実は俺達の掟では、民間人に危害を加えるための兵器に協力できないんだ。セミノヴィチとメルニチュクの暗殺についても請負は断る」


 それから、誰かの暗殺時には可能な限り普段からそうしているように、彼がここで死ぬ理由を伝える。


「お前は大量破壊兵器の開発を企てた殺人鬼だ。しかも、俺達が所有するボシュツカ鉱山の近くで実験を行って、労働者の健康を脅かした。だから組織の報復の対象となった」


 ルーベンノファミリーで暗殺を請け負っても、幹部が直接手を下すことは本来望ましくない。組織の上層部が逮捕されれば、組織に大きな打撃だからだ。それでもノアは、要人暗殺には自ら進んで関与した。

 決して殺人は好きではない。誰もやりたくない汚れ仕事だ。だからこそ、それを他人任せにし、安全な場所から命じることを卑怯に感じた。引鉄を引くのが他人でも、命じるのが自分なら責任は自分にあることに変わりはない。上辺を取り繕って汚れ仕事から逃げることが許せなかった。


 ターチンは苦悶に呻きながらもノアを睨み、余裕を見せて笑った。


「正義の味方のつもりか? 何を言おうが、殺人鬼は貴様だ。貴様は司法によって裁かれる」

「俺は逮捕されない。俺達には俺達の法がある、それに従ったまでだ。正義のためじゃない」

「貴様に人を裁く権利があると思うのか。……貴様はただの犯罪者だ」


 他人に何と言われようと構わない。自分が立派な人間でないのは分かっているが、少なくともこのボリス・ターチンは違う種類の悪人だ。ファミリーは殺す相手を選ぶが、この男は企業の営利のために、相手を選ばず無差別殺人を容認する。

 BECやアセスラボのように営利よりも倫理観や使命感で動く会社もあれば、キベルジア・ケミカルのように金のためなら手段を選ばない会社もある。


「貴様、名前は?」

「……ノア」


 死に行く人間に最期の敬意を払い、名を名乗った。どうせ死人に証言はできない。

 ノアは椅子から立ち上がった。その瞬間、目眩がした。気付けば自分もひどく汗をかいていた。ターチンは、おかしそうに嘲った。


「ノアよ、”人を呪わば穴二つ”という言葉を知っているか?」


 ノアはハッとして自分の顔に意識を向けた。ターチンと同じように鼻水が出ている自分に気付く。紫色の瞳からは涙が溢れていた。感情から来る涙ではない。ひとりでに水分が溢れていくのだ。この感覚は以前にも経験している—AXに暴露した時だ。

 ノアは眉間を歪めてターチンを睨んだ。


「この毒薬は痕跡が残らないから誰かを消すのにぴったりだ。私は貴様らに察知された時から……何が起きてもいいように、普段から準備をしていてね……紅茶の飲み口に塗ってあった」


 ターチンは息も絶え絶えになりながら、話すことを止めない。

 ノアが紅茶に毒を盛ったのは、ミルクを入れた時だった。AXが入った三センチほどの小さな容器を手の中に隠し持ち、ミルクを入れると同時に中身を流し込んだ。その後ターチンは自分の紅茶を一口飲んでから、ノアの紅茶と交換した。AXを入れた紅茶はターチンの方へ渡った。

 彼が紅茶を交換することを、必ずしも見越していたわけではない。上手く行かなければ他の方法で暴露させるつもりで、いくつかのパターンを想定していた。


 一方ターチンは、飲み口にAXを塗っていたと言った。彼は信用させるために自分で一口飲んだが、口を付けたのと反対側に毒を塗っていたのだろう。ノアは紅茶を飲む振りをしただけで飲んではいない。しかし飲み口に塗られていたなら、カップに口を付けた時、暴露したはずだ。

 直接体内に入れた場合は、皮膚から吸収するより影響が深刻で、格段に致死率が上がる。もし唇を通じて口内に入っていたなら、今度こそ死ぬ。


 ターチンは遂に椅子に座る力も失ったのか、そのまま横向きに床へ倒れ込んだ。体を痙攣させながらも、執念深く彫りの深い眼差しでノアを見上げる。


「冥土の土産に……教えてやる。プロジェクトを主導したのはクズメンコ……私がいなくても、奴は開発を続ける」

「生憎だが、AX工場はファミリーの者が破壊する」

「侵入したが最後……工場を護ってるソコロフスカヤが貴様らを潰す」


 ノアも足の力を奪われ、椅子の背に手を掛けながら膝をついた。ハアハアと荒く息をして、目や鼻から溢れ出る汁を袖口で拭う。その苦しむ姿を、ターチンは満足そうに視界に入れた。

 地獄への道連れができたことを喜ぶかのように、ターチンは笑みを浮かべていた。その声は徐々にか細くなる。


「それから私の……カ……」


 ターチンが何かを言いかけて、それきり何も聞こえなくなった。

 ノアは、脳からの指令を受け付けようとしなくなった自分の神経に全力で働きかけ、一歩一歩キッチンへ向かった。制御を失いつつある体に鞭打ちながらようやく辿り着くと、口の中とその周辺を水で洗い流した。腰の道具袋から注射器とアトロピンの瓶を取り出した辺りで、意識が朦朧とし始めた。

 しかし、意識を維持しながら震える手で静脈にアトロピンを注射する。そして遂にはキッチンの床に転がって天井を仰いだまま、動けなくなった。

 それでも呼吸を続ける。吐瀉物で窒息しないよう、顔だけは横を向けた。


 —飲んではいない。飲んでない。絶対に入ってない。俺は助かる。大丈夫……。


 度々意識が飛ぶが、自分で自分を鼓舞しながら気力で持ち堪えた。

 ノビチョクはその性質に謎が多く研究が進んでいないため、効果が実証された予防法というものが存在しない。ただ、セミノヴィチが恐らく効果があるかも知れないと話していた対策方法は、いくつかあった。

 一つは、事前にピリドスチグミンという物質を摂取することで、神経剤に対して予防効果を得るというものだ。ピリドスチグミンはソマンに対して有効性が認められたが、他の神経剤への効果は認められなかった。ノビチョクに対して検証されたことはない。

 しかし、AXを持ち運ぶことで自分の身をリスクに晒すノアと、工場へ侵入するメンバーは事前に摂取しておいた。

 もう一つはアトロピンだ。抗コリン作用—過剰なアセチルコリンをブロックする—のある薬剤なら、ノビチョクに対しても解毒効果があるはずとのことだった。


 祈りが通じて、症状はそれ以上悪化しなかった。どれほど経ったか分からないが、いつしか呼吸が楽になり、体の感覚から自分が助かったことを悟った。

 体が少し動くようになると、床を這いながらターチンの元へ向かった。すでに彼の脈は無かった。

 彼が冥土の土産にと言い残した言葉は、クズメンコという名前だった。その名前を持つ政府関係者と言えば、間違いなく自由連合党首、ヴォロディミル・クズメンコのことだ。五月の戦勝記念式典の際に、ファミリーと会っている。


 —まさか、あの場で俺が突っ込んだことを聞いたせいで奴にバレたのか?


 しかし、ファミリーが最初にソコロフスカヤからの襲撃を受けたのは、その式典の帰りだ。その式典がきっかけで気付かれたとしたら、当日に襲撃というのは準備が早過ぎる。もっとも、いつどうして気付かれたかは今は重要ではない。

 ターチンは最後にもう一つ何かを言おうとしていたが、結局聞けずじまいだった。


 窓のカーテンの隙間から見える空は、漆黒から明るい水色に変わり始めていた。計画通りなら今頃、工場へ突入したチームが証拠を集めた頃だろう。

 ノアはターチンの部屋から、自分のいた痕跡を消し去った。汚染されたティーカップはキッチンの流台で中身を捨て、漂白剤を付けて洗った。

 神経剤を無毒化する最も有効な方法は、酸化または加水分解させることだ。水酸化ナトリウムで加水分解するのが一般的だが、漂白剤を有効とする説もある。除染剤が無い状況なら、とにかく水で洗い流す。


 紅茶を片付けた後は、座っていたテーブルから歩いた箇所を丁寧に拭き取った。分泌物はもちろん、髪の毛一本も残さない。

 彼がAXを塗った紅茶をあらかじめ準備していたということは、他にもこの部屋にAXが残されているかも知れない。余計な物に触れない方が賢明だ。


 化学兵器、特にノビチョクを検出する技術は、普通の病院や警察には無い。それが可能なのは世界でも限られた専門機関が、それを疑った場合のみだ。その場合でも数日が経過すると体内から分解されて痕跡は消え、検出不可能になる。

 だから彼の死亡もこちらから手の内を明かさない限り、死因不明で処理されるだろう。


 ノアは覆面を被って、最後にもう一度、魂のない抜け殻となったターチンを見た。仕事は終わった。

 ふと視線を感じて振り向く。気配を感じた先にあったのは、丁度ノアが座っていた椅子の背後に飾られた、オペラ”カルメン”のポスターだった。モノクロのデザインに赤いドレスが差し色で際立つ。赤いドレスを着たジプシーの女がポスターの中からこちらを見つめている気がして、妙に居心地の悪さを感じた。が、首を振って頭から追いやった。

 ノアは静かに部屋を後にした。



 再び変装して堂々と外に出たノアは、迎えの車に乗り込んだ。迎えに来た部下はノアの顔色を見て中毒症状が出ていることを察知し、病院の手配を申し出た。ノアは了承した。


「もう一人の黒幕が分かった。……自由連合党首のクズメンコだ。ターチンとクズメンコが繋がっていた証拠が欲しい。奴の携帯端末を持ち帰ったから、調べてくれ」

「はい。……こちらも報告が。農薬工場に突入した第一陣が、ソコロフスカヤの襲撃に遭っているそうです」


 ターチンは息絶える前、ソコロフスカヤが工場の警備をしていることを口走っていた。拳に力が入る。


「人数は? チームは無事か?」

「相手の人数は少なくとも五人以上。アリとアントンがやられました。ピョートルとヤコフは無事のようです。第二陣のディーマが救出に向かっています」


 予想外に悪い状況になっている。ターチンはルーベンノファミリーがいずれ工場へ侵入して来ると予想してソコロフスカヤに警護を依頼したのだろうが、何も知らない末端の構成員が引き受ける理由は一つだ。のこのことやって来るルーベンノファミリーをこの機に叩き潰し、抗争で負けた恨みを晴らす。工場を護る気などない。待ち構えて全員を殺す気だ。


 —あの場所で銃撃戦は非常にまずい……。


「すぐ離陸できるように消防用カモフ—Ka-32A1を用意しろ。俺と一緒に来れる奴を三人出せ」

「救援なら既にディーマがMi-24で向かってます」

「念のためだ」

「いえ、そうではなくて貴方はまず治療を……」

「そんなのはどうでもいい!」


 窓枠に肘をついて頭を支えながら、強めの口調で言った。今頃、工場は戦場になっている。化学兵器の他にも可燃性物質や有毒物質が貯蔵され、戦うには最も適さない場所だ。あそこで戦闘になれば、”全滅”という最悪の状況が思い浮かぶ。

 ゼフィルはきっと、幹部が立て続けに戦闘のど真ん中に参加することを反対する。だが、ピョートルやヤコフが死んでいくのを遠くから黙って見ているなんて、できるはずがない。

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