第二十五話 紅茶と対話
7月4日日曜日の夜明け前、ピョートル達がキベルジア・ケミカル社の農薬工場への侵入準備をしていたのと同じ頃、ノアは州都のターミナル駅付近にあるサービスアパートメントにいた。
サービスアパートメントはホテルのようなサービスを提供する高級住居で、ホテルとアパートメントの中間といった位置付けだ。ビジネスなどでの短期滞在者の利用が中心である。セキュリティは厳しく、受付には二十四時間コンシェルジュがおり、警備員は入居者以外の侵入に目を光らせている。
ノアは計画が持ち上がった段階から準備を進め、架空の名義でこのアパートに部屋を借りていた。同じアパートの九階にキベルジア・ケミカル社CEO、ボリス・ターチンが入居していることは調査済みだ。
外部からの侵入には厳しい一方、一度部屋を借りてしまえば疑われず堂々と出入りできるところが盲点だ。
ノアは侵入のため、ターチンの部屋と同じ方角に面した部屋を借りた。同じ面なら何処でも良かったが、近いほど都合が良い。運よく十一階の、右に一つずれた部屋を借りられた。
夜明けにはまだ遠く、当然辺りは暗い。街の施設も皆閉まっているため、街明かりもまばらだ。夜明け前は人の活動が最も少なく、たとえ週末に夜更かしした人でもこの時間には大抵寝ている。だから動くには都合が良い。
ノアは黒い上下に着替え、黒い覆面を被った。足首に銃のホルスターをくくり付け、その上からズボンで隠す。そして手袋をはめた。
自らが現場に出て仕事をする時には、必ず心がけていることがある。それは、捕まらないことだ。リスクを負っていることを承知で現場へ出る以上、捕まらないことは幹部としての責任でもある。そのためには、決して現場に証拠を残さない。
借りた部屋のバルコニーの外側へ出ると、足元にぶら下がってから反動を付け、下のバルコニーへ飛び降りた。着地と同時に膝をクッションのように緩めて衝撃を吸収し、音が出ないよう注意した。同じ要領でもう一階下がる。それから左隣のバルコニーへジャンプして飛び移った。
ターチンの部屋のバルコニーの外から、専用の用具でガラスを切って鍵を開けた。足首から拳銃を取り出して下に向けて構えながら、ほとんど音を立てずに最小限の動作で、溶け込むように真っ暗な室内へ入る。
部屋は広いが単身向けなので、リビングとベッドが繋がった間取りになっている。ベッドからは、ターチンの寝息が聞こえた。
間取りは把握しているので、手探りで移動して、誰も侵入しないようドアにチェーンロックを掛けた。
そして堂々と電気を点ける。目に優しい暖色の光が、控えめに広い室内を浮かび上がらせた。
「む……?」
異変に気付いたターチンが目を覚ます気配がする。ノアはベッド脇へ近付き、囁いた。
「大声を出すな。不用意に動くな、手は開いてこちらに向けろ」
ターチンは取り乱してベッドから飛び起きた。
「誰だ、何のつもりだ……!」
ノアは拳銃を突き付けて彼が指示に従うのを待つ。始めは狼狽えていたターチンだったが、それなりに修羅場を経験しているのか、一呼吸おくと落ち着きを見せた。
「金か? 金目の物なら好きに持っていけ」
「金じゃない。お前の会社が作っているノビチョクについて話がある」
この時点でノアにはキベルジア・ケミカルについて何の証拠も、この男自身が関わっている確証もなく、ノビチョクという単語を出すのは賭けだった。
しかしその言葉に、彼は納得したようにああ、と息を吐いた。
「ルーベンノファミリーか。わざわざこんな所まで、ご足労かけましたな」
侵入者がルーベンノファミリーだと分かった途端に態度を和らげ、取引相手と話すような口調に変わる。懐柔しようという魂胆だろう。その切り替えの速さは、さすがは商売人だ。
「君達は誰がノビチョクを作っているのか知りたがっていた。そして私に辿り着いたんだろう?」
ノアは頷いた。ようやく、黒幕がこの男と彼の会社だという確信が得られた。
—そして、この男は俺達がノビチョクを追っていることに気付いていた。恐らく俺達がボシュツカ鉱山でソコロフスカヤと鉢合わせた後から。
「なぜソコロフスカヤと手を組んだ?」
言葉を選びながら問いかける。できるだけこの男から全てを聞き出す必要があった。
「そうだな、それについては申し訳ない。まず君達に話を通すのが筋というものだったな」
キベルジア・ケミカルはルーベンノファミリーに少なくない金額のみかじめを支払っている。マフィアと手を組む必要があるなら、まずみかじめを納めている組織に依頼するのが普通だ。
「こっちにも事情があるんだ。だが、君達にも美味い汁を用意する準備がある。どうだ、ゆっくり紅茶でも飲みながら話さないか」
「話し合いをする気があるのなら応じる。助けを呼ぼうと思うな」
「もちろんだ」
ターチンの額にうっすら汗が浮かんでいる。恐怖に怯えながらも、この状況を打開しようと考えているのが見える。ノアは本音を聞き出そうと、応じる振りをした。
ターチンがキッチンで紅茶を入れる様子を、後ろからじっと窺う。彼は二人分のティーカップを取り出し、ポットに湯を入れた。それを微かに震える手でダイニングテーブルに運ぶ。
交渉相手に敬意を払い、ノアは覆面を脱いだ。クリーム色の金髪が露わになり、ターチンは意外そうにその顔を見つめたが、特に何も言わなかった。
二人は向かい合ってテーブルに着いた。ターチンは蒸した紅茶を、目の前でポットから均等に二つのティーカップに紅茶を注ぎ、一方を差し出した。
「砂糖とミルクとジャムはご自由に」
テーブルの上には砂糖とミルク、ラズベリージャムが用意されている。ターチンは自分の紅茶に砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜた。そして自らを落ち着かせるかのように、熱い紅茶を啜った。ノアはカップにミルクを入れたものの、口を付けず黙って見ていた。
「おや、何か入れたとでも思ったのか? それじゃ、こうしよう」
そう言ってターチンは二つのカップを交換した。彼がノアの元にあった方の紅茶を飲んだのを見て、ノアもカップに口を付けた。
「事情というのは?」
ノアが尋ねると、ターチンは紅茶を置き息を吐いてから答えた。
「……実はソコロフスカヤと契約したのは私ではなく相棒でね。守りの方はそっちに任せてたんだ」
「共犯は誰だ」
「名前を明かすのは勘弁してくれないか。政府関係者とだけ言っておこう。実用化した際の商談はそいつに任せていてね。それにこの特殊な兵器を販売するには諸々の情報操作が必要で、そいつの協力は不可欠だ」
政府関係者に黒幕の仲間がいる—これも推測通りだった。
「お前達はソコロフスカヤと組んだだけでなく、奴らを俺達にけしかけてきたわけだが」
ノアの眼光が鋭くターチンを睨む。ターチンにはやや焦りの色が見えた。
「けしかけたわけではない……。奴らには新兵器の販路開拓を担ってもらうことになっていたのだが、ルーベンノがノビチョクに気付いたことを知った途端、勝手に攻撃し始めたのだ。奴らは販路を独占したがった。マフィアとマフィアの話だ、私にはどうにもできない」
ノアは、間違いなくその政府関係者なる人物がソコロフスカヤをそそのかしたと睨んでいたが、ここは追求せずにおいた。
「ソコロフスカヤも馬鹿じゃない。毒薬のことを奴らに話せば、特徴から神経剤だと推測できたはずだ。知っていたのは上層部、それも本部の一握りだけだな?」
ファミリーと直接刃を交えた構成員は皆、毒薬のことは知らなかった。
「その通りだ。君達がどのようにしてこのプロジェクトを知るようになったかは知る由もないが……。とにかく、製造は我々が、流通はマフィアが行う約束になっていた。そこでどうだ、君達がここより西側の流通を担うというのは。ソコロフスカヤには東側を任せる」
「悪くない。西ヨーロッパにアフリカ、南米もか?」
「ああ」
話に乗ったことで、ターチンの汗ばんだ顔に安堵が浮かぶ。
「ソコロフスカヤはセミノヴィチとメルニチュクの暗殺に失敗した。最初から俺達に任せていれば、しくじらなかった」
ノアは不適に笑みを浮かべた。
「ああ。奴らにも勘付かれた以上、早いうちに始末をつけなくては……。君達に任せていいか?」
「メルニチュクは500万ルーブル。セミノヴィチは200万ルーブルで請け負う」
「いいだろう」
闇の仕事を請け負うルーベンノファミリーの中でも更に影の仕事、それが暗殺だ。表立って口にすることはなく、信頼できると踏んだ相手からの要望があった時のみ請け負う。報酬額が違うのは、メルニチュクが政府の要人だからだ。
「農薬工場を隠し場所にしたのは上手くやってる。全く気付かなかった。……だが、お前達はブツの扱いもずさんだ。コバレンコの暗殺を素人に任せたな?」
そう言うと彼は紅茶を運びながら、驚きの目でノアを見つめた。そして諦めたように乾いた笑いをした。
「君達は全てお見通しだな。ファミリーの有能ぶりには感心するよ。やはり最初から君達に頼むべきだった」
「素人に任せた結果、扱いの難しい毒薬—俺達はAXと呼んでいるが、それが転売される結果になった」
するとターチンは納得した顔をして、間を置いて後悔するように俯いた。その反応を見て、ようやくノアは、あのAXが自分達の手元に回ってきた理由が府に落ちた。
ターチンは足がつくことを避けようと、繋がりの無い素人にAXを渡して暗殺を依頼した。恐らく、使用した残りは自宅の排水口から捨てるようにと指示してあったのだろう。しかし売人は欲に目が眩み、闇組織に転売しようとした。そしてその価値も扱い方も分からず、自分の身を滅ぼした。
「ノビチョクはソビエトがKGBのために開発した。KGBなら決して素人に扱わせない。奴らの誇りにかけて、最初から最後までプロが扱う。今もノビチョクを使用しているであろうGRUも……」
そう言いかけてチラリと思い出す。
2018年、イギリスではロシアの元スパイ親子がノビチョクによる暗殺未遂に遭った。しかしGRUの職員とされる容疑者は、その時に使用した瓶を現場に放置したため、ターゲット以外の一般人一名が死亡、一名が重体となっていた。
その事件を知ったピョートルは、”KGBなら人目に付く現場に残すような愚かな失敗は犯さないのに”と嘆いていた。
ともかく、最初から最後までプロが任務を遂行するという方針はGRUも変わらない。
*GRU…ロシア連邦軍参謀本部情報総局。KGBの業務を引き継ぐ組織。
「安心しろ。転売されたAXのことを知ってるのも、購入したのも俺達だけだ」
「そうか……」
薄明るい暖色の照明が灯る室内は、相変わらず静かだった。壁に貼られたオペラ”カルメン”のポスターが、背後から二人を見守っている。緊張感の漂っていた両者の雰囲気は、先ほどより和らいでいた。
「"毒薬”は独裁者相手に高く売れそうだな」
「そうだろう。これは兵器として非常に有用だ。どんな化学兵器よりも強力で、弾頭に積んで投下すれば街を丸ごと壊滅できる。しかも、建物は傷付けずに人だけを排除できる。そして核よりも圧倒的に扱いが容易で、隠しやすい」
ノアの前向きな発言にターチンは安堵したらしく、饒舌になった。兵器としての実用性は彼の言う通りだろう。特定の地域に気体を散布することで、接触した人間から連鎖的に被害を広めることができる。
売り先は独裁者、テロ組織辺りが想像つく。ファミリーの人脈の中だけでも、興味を示しそうな人物が何人か思いあたった。カルメンに仲介を依頼すれば、更に良質な顧客を紹介してくれるだろう。
「従来品と比べて効果はどれほどのものだ」
「従来品の弱点は、揮発性の高さと水への弱さだ。君達の言う開発中のAXは、野外で散布しても二週間程度効果が持続する—雨が降れば別だが。致死量は気体で5mg*min/m-3。殺傷力も従来より高い。他の生半可な化学剤と違って確実に殺傷できる」
性質についてはおおよそ既出の情報と一致しているが、具体的な致死量は開発者しか知り得ない情報で初耳だ。
化学剤には敵の無力化、鎮圧を目的としたものや、皮膚に外傷を負わせるもの、地域を汚染して立ち入りを制限する目的のものなど、様々な種類が存在する。このノビチョクの目的は、明確に殺人である。
ノアは微かに眉を吊り上げた。
「この物質はアセチルコリンエステラーゼに作用し、神経伝達物質の分解を阻害する。結果として神経伝達が機能不全に陥り、筋肉の収縮が不能になり、酸素が体に行き渡らなくなる—だよな?」
「ほう、よく調べられている」
ターチンは頷いた。ノアは続けた。
「初期症状は分泌物の増加、発汗や倦怠感だ」
そう言って鋭くターチンを凝視する。その視線に何かの意図を察したターチンは、思わず自分の顔を手で拭った。鼻水が出ていた。その表情から笑顔が消える。
「そして嘔吐や頭痛」
ターチンは震える両手で、自分の顔に触れた。額から汗が流れ落ちた。そして頭を抱え、睨むように目の前の男を見上げた。
「貴様……まさか……」
「症状が進むと筋肉の痙攣が起きる。知識として知っているのと、体験するのは全く違うだろ?」
その言葉を聞いた彼の顔は、自らが暴露したことへの恐怖と焦りからか、血流で赤くなり、呼吸も荒くなった。
「私に、盛ったのか……?」
「紅茶を飲んでから四十分。経口摂取すると毒の影響が出るタイミングは早いらしいな。重症なら呼吸困難、意識不明に陥る。相当な苦痛のはずだ」
ノアは実験を観察するかのように彼の症状を注視した。一度暴露しているノアは、症状の出方も苦痛もある程度理解している。症状を三段階に分けるなら、あの時の症状は中程度だった。
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