第二十四話 迫り来る毒
ピョートルは、ソコロフスカヤと思しき襲撃者達がこの施設のことをどこまで知っているのか疑問に思った。彼らはAXが保管されているラボに入るのに、防護服も身に付けていない様子だったからだ。
「
ヤコフは片膝を付き、銃口を実験室の扉の外に向けている。自動小銃を持ち込んだ彼の判断は大正解だった。
パイロットプラントを挟んで膠着状態が続いた。
「お前らソコロフスカヤだろ! 停戦の約束を忘れたのか?!」
ヤコフがプラントに向かって叫ぶ。
「あれは市内の麻薬取引の話だ! 俺達は工場の警備を請け負ってる! 侵入者がいたから排除するまでだ!」
「なんで工場の警備にマフィアが必要なんだよ! おかしいだろうがっ」
吐き捨てるように呟く。その返答は無かった。代わりにヤコフは、掌サイズの黒っぽい球体が飛んでくるのを見た。とっさに扉を閉め、飛んでくるそれを防ぐ。
「伏せろ!」
扉から離れ、台の裏へ飛び込む。ピョートルも隠れた。爆発音と共に、衝撃で床が震える。手榴弾だ。
二人に怪我はない。しかし、パイロットプラントへの損傷が心配だ。
「はは、俺達が破壊する前に自分で破壊しやがって」
「彼らは何も知らないのでしょう」
どう言い包めて連中を味方に付けたのかは分からないが、彼らはここがAXのプラントだということも、あるいはキベルジア・ケミカルがAXを生産していることも、知らないのだろう。
立ち上がったピョートルはふと、覚えのない青い紙が流台に落ちていることに気付いた。先ほど使ったノビチョク検知紙が衝撃で落ちたようだ。
背筋がサッと凍る。流台に落ちて湿った検知紙が、みるみる青色に変色していくのだ。それが意味することは—。
「ヤコフ、ここにいてはいけない! 見てください」
青く変色した検知紙を見たヤコフもまた、青ざめる。検知紙の青色は、ノビチョク本体を示す。
「おいおいおいおい!」
「水で湿っただけで青色になったということは、AXが部屋の空気中に散開しています」
AXが漏れ出たに違いない。先ほどの銃撃戦で、すでにプラントが損傷していたのだ。ピョートルはすぐさま別の逃げ道を模索する。
実験室には、入ってきた扉と反対側にもう一つ出入口があった。その扉を開けて隙間から顔だけ覗き、まだ敵の姿がないことを確認する。扉の向こうは入り口のトンネルと同じく、戦時中にタイムスリップしたような石造りの回廊が続き、横に扉がいくつか並んでいた。きっと他にも出口がある。
二人が後ろの扉から出ると同時に、武装集団が二人が先ほどまでいた実験室に入って来た。ヤコフが実験室内に向かって乱射し、それ以上の接近を防ぐ。
一方ピョートルは、走りながら拳銃MP-443のスライドを引いて準備した。
廊下の突き当たりにはまた重々しい金属扉がある。内側から鍵が開くようになっていたので、扉の向こうの気配に注意しながらドアを開けた。
上へ続く階段があった。人がすれ違うのがやっとの狭い階段だ。何処かの出口に繋がっている可能性は高い。しかし、襲撃者は当然もう一つの出入口を張っていてもおかしくない。一か八か外へ逃げるか、第二陣の応援が来るまでここで立てこもるか、判断の分かれ目だ。
背後からひっきりなしに反響する銃声のせいで、階段の上の気配が分からない。
上がって様子を見ようとした時、上方から複数の足音が鳴り響き、立ち止まる。やはり階段からも襲撃者が来ている。
足音の主が踊り場から姿を現す前に、ピョートルは手榴弾を投げ込んで牽制し、足止めを図った。
「おいピョートル! 逃げ場は?」
背後の敵を足止めしているヤコフが叫ぶ。ピョートルは通路の中間にある重い鉄の扉を探った。
手前の扉は錠前がしてあったが、拳銃で壊して開けた。やけに頑丈で厚みのある扉の造りから見込んだ通り、ここは武器庫のようだ。
「こちらへ」
ピョートルは武器庫へヤコフを誘導した。二人共中へ入ると間髪入れずに扉を閉め、大きなレバーを回して内側から鍵をかけた。
扉は多少の銃弾や爆発には動じないよう作られているであろうから、多少の時間稼ぎができる。
「俺達、防護服着てるから大丈夫だよね……?」
腰を下ろしたヤコフが不安げに尋ねる。
「服と防毒マスクに隙間がなければ、大丈夫であることを祈るだけです」
「ああ。おかげで暑いし苦しいし。もう汗でベトベトだよ」
「絶対に脱がないでくださいね」
襲撃者達はもろにAXを浴びているはずだから、ここにいるほとんどの者が数時間以内に死ぬだろう。本当ならここへ立て篭もって、助けが来るのを待っても良かったが、きっとこの部屋もすでに汚染されている。長時間留まれば、防護服を通り抜けて暴露してしまう。
ピョートルはふと、ヒリリとした痛みを感じて自分の腕を見下ろした。右腕の裾が裂け、軽い擦り傷を負っていた。気付かないうちに銃弾が掠ったようだ。それをヤコフに気付かれないよう、さり気なく隠す。
リスクの想定が甘かった自分への悔しさに拳を握る。ソコロフスカヤの存在を事前に予知すべきだった、と。予測できていれば、全く違った人選で、異なる準備をしただろう。
絶体絶命の状況だったが、問題解決に頭を切り替える。諜報員に何よりも重要な素質—それは想定外の事態にも対応し、どんな状況でも諦めない不屈の精神だった。
—脱出経路を確保しなければ。アンダーボスだけは絶対に生かして返さないと。
部屋は閉鎖空間になっていて、人が通れそうな通気孔や抜け穴も、見たところ存在しない。
入ってきた扉からは、打ち破ろうとする衝撃が伝わってくる。
物陰に隠れていつでも迎撃できるように構えながら暗い室内を見渡した。奥の棚に細長い筒状の弾頭が保管されていた。ヤコフが棚に歩み寄り、保管用の入れ物から一つを取り出し手にする。
「へえ、これがAX本体か。これをボシュツカ盆地で発射して実験してたんだろうね? 記念に持って帰る?」
この状況で余裕を見せるヤコフ。
その時ようやく無線から、ヘリの応援の到着の知らせが来た。
『ただいま農薬工場が見えました。そのまま第三プラントに向かっています』
「ディーマ、私達は予定通り第三プラント東側の地下工場にいます。降下はしないでください。現場にAXが飛散しているようです」
『はい……でもどうやって助けに行けば?』
AXが飛散したせいで、地下工場にディーマ達を入れるわけにはいかなくなった。そこへヤコフが口を挟む。
「上から空爆しろ! 連中が怯んだ隙に逃げる!」
『空爆? 危険です! 上手く二人を避けられるかどうか分からないし、爆発物に引火するかも……』
「いえ、ヤコフの言う通りです。ここにいてもいずれ暴露して死ぬ」
ディーマが乗っているのは攻撃用ヘリ、Mi-24。ノアが抗争のために整備したので、攻撃準備は万全に整っている。
「上から芝生が見えますね?」
『はい』
「その中央を狙ってください。そこにちょうど今敵がいます」
『はい。今ロケットを打ち込みます。三…二…』
ピョートルとヤコフは奥で身を伏せた。次の瞬間、轟音がしてロケットが着弾する衝撃が床に伝わった。
「今です!」
ピョートルが真っ先に武器庫を出て、ヤコフが続いた。視界に入った襲撃者は三名。天井の壁が一部崩れ落ちており、それに気を取られていた背中をヤコフが銃撃する。
そのままピョートルを先頭に階段を駆け上がる。すでにAXが効き始めているのか、敵の動きは鈍かったように思う。
「梯子を降ろしておいてください、すぐに脱出します」
『はい』
証拠を収集し、プラントを破壊した。もうこの場に用はない。あとは速やかに脱出するのみだ。
地上を目指してひたすら走る。
『しまった……!』
無線からディーマの慌てる声が聞こえ、ノイズが混じった。
「どうしましたか?」
『対空ミサイルを持ってる奴がいる。奴ら、あんな物まで……!』
その口調からして、ヘリが攻撃を受けているらしい。対空ミサイルまで用意しているとは、ファミリーの侵入を予測していたとでも言うのだろうか。そこまでの武装をしてくるということは、本気でファミリーを潰す気だ。
「地上から敵の人数は確認できますか?」
『目視できる範囲で十五、いや二十でしょうか』
それほどまでしてこの工場を守りたいのか。いや、この機を利用してルーベンノファミリーを叩き潰すことの方が目的かもしれない。
ピョートルとヤコフは細い地下通路を走り抜け、排気口のような垂直の管を登って、ようやく地上らしき場所へ出た。しかしそこは想定していたような屋外ではなく、プラントの内部だった。第三プラントと地下工場は、この秘密の出入り口で繋がっていたのだ。
恐らく、AXの製法を確立したら第三プラントをAX工場に造り替えるつもりだったのだろう。ピョートルはそう推測した。
「まだ防護服脱いじゃダメ? もう服の中が蒸し
息を切らしながらヤコフが言う。苦しいのはピョートルも同じだった。
「駄目です。確実に安全な場所へ行くまでは」
プラント内の無数のタンクの周りには、階段と足場が張り巡らされている。上を目指してタンクの周りの階段を駆け上った。
プラントの稼働音に混じって、外からヘリの音が聞こえる。ディーマは近くにいる。
『うわっ! あああ−−!』
突如無線から、ディーマを含めた第二陣の乗組員の悲鳴と、爆音が聞こえた。
『直撃を受けた! 墜落します!』
『オートローテーションで緊急着陸を試みる!』
ヘリを撃墜されては作戦が致命的だ。焦燥が走る。最上階まで上り切り、屋外へと続く足場を駆け抜けた。
すでに外は明るく、青空が広がっていた。その青空には暗い迷彩色のMi-24が浮かんでいるが、すでに体制を崩したまま降下していた。いや、降下ではない。機体はコントロールを失って回転しながら墜落している。
程なくしてMi-24は、横腹を向けたまま地面に堕ちて炎上した。
「嘘……」
振り向かなくても、ヤコフが唖然と口を開けているのが分かる。第二陣の乗員は全滅だ。つまりヤコフとピョートルが、たった二人きりでこの工場に取り残されたことを意味する。
ヤコフは見晴らしのいい足場の上から、あたりをキョロキョロと見渡した。百メートルほど離れた別のタンクの足場に、携帯式の対空ミサイルを持った男の姿を発見し、眉間を歪ませる。
「あいつだな! クソったれ」
AK-47を構え、冷静に照準を合わせると男に銃弾を叩き込んだ。弾は命中し、男は構えたミサイルを落として、ガックリと前へ倒れ込んだ。
「ヤコフ、救援を呼びます。隠れましょう。ディーマの話では、まだ二十人近い敵が地上にいます」
「俺はディーマ達を助けに行ってくる。まだ生存者がいるかもしれないし」
「何を言ってるんですか! 格好の的になります」
ピョートルはヤコフの無謀な申し出に、思わず声を荒げた。
ヤコフは振り向いて、いつも女性を口説く時の緩い笑顔でピョートルを見つめた。防護服のマスクから覗く青い瞳が朝日に照らされ、眩しかった。
「ここで別れよう」
「それには賛成です」
二人が同時に全滅するのを防ぎ、どちらか一方でも生還させるためだ。
「どうせ奴らの狙いは俺の首だろ。あんたは応援呼んで適当に隠れてて」
「いえ、囮になるなら私が」
「いいって。だってあんたは証拠のデータ持ち帰らないといけないし、大体あんたが死んだら俺が兄さんに殴られるんだからな?!」
ヤコフは冗談のように笑っている。
「それに俺、死なない自信あるし。それじゃ!」
そう言って背中を向ける彼の横顔は清々しく、どこかノアと重なった。ノアがここにいたら、きっと同じ行動を取っただろう。どこから湧いて来るのか分からないヤコフの根拠のない自信が、今は心地よかった。
こちらに気付いたであろう敵が地上を走る足音がする。ヤコフの背中を見送り、自分も足場から移動した。
—いい子だ。ヤコフも。
頭痛がし始めていた。感じる息苦しさも、防護服を着て走ったからだけではないはずだ。
頭の中に叩き込んである配置図を頼りに第二プラントの資材置き場へ向かう。途中で汚染された防護服は脱ぎ捨てた。資材置き場に辿り着いたピョートルは、積荷の背後に潜んだ。最後の使命は、応援が来るまでデータを守り抜くことだ。
座り込んで深呼吸する。今更気休めにしかならないかも知れないが、自主的な応急手当てを試みた。
皮膚用除染剤RSDLの袋を開け、小さなスポンジを取り出す。RSDLは神経剤を含む化学兵器を皮膚から除去するための専用キットで、スポンジの中で化学剤を中和する。ピョートルはスポンジで、暴露したであろう腕や顔、首を拭き取った。
*RSDL®…Reactive Skin Decontamination Lotion
ヤコフがあれほど立派に成長していたことを、今日初めて知った気がした。才能はあるが、自分の欲求に正直で自由奔放なところが玉に瑕の少年だったはず—いや、もう少年と言うのも失礼な大人の男だ。
—初めて二人を見たときはまだ、ノアが十五、ヤコフが十四だったか。歳を取ると、昨日のことのように感じてしまいますね……。
マフィアの世界では頻繁に、裏切りや跡目争いなどの内部闘争が崩壊を招く。ゼフィルはそれをよく理解していたので、組織に絶対の忠誠を誓い、組織の目的を忠実に遂行する右腕の育成に力を入れた。決して謀反しない忠誠心を植え付けるには、年齢が若いほどよかった。子供がいなかったゼフィルは彼らと擬似家族になり、血よりも濃い絆を作り上げた。
この世界で成り上がるために必要な能力は、強さと賢さだけではない。世の時流を読む商売センス、数千人を纏め上げる人心掌握術も要求される。二人とも飛び抜けて賢かったが、ノアの大局を見る目と器の大きさが、ピョートルには原石のように光って見えた。
何処からともなく、銃声と爆発音が聞こえている。炎上したヘリが何処かに引火したのだろうか。ヤコフは無事だろうか。
ピョートルは荒い息をした。頭痛が増すのを感じ、息苦しかった。
アジトからヘリを送ったとしても、応援が来るまでは最速で一時間かかる。それまで意識だけは保っておきたい。
しかし—。
—ノア、きっともう貴方の顔は見られませんねぇ……。
今頃、別の場所で仕事を片付けているであろう彼の顔を思い浮かべる。彼を残して去ることに未練はない。彼なら心配はいらない。
未来への可能性に溢れた華々しい姿が脳裏に浮かび、目の奥が熱くなった。
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