第二十二話 失って気付く愛

 7月4日の日曜日、日も高く昇りきった頃、マリア=カルメンは遅い身支度をした。仕事相手は圧倒的に夜型の人々が多いので、自然と一日の始まりも遅くなる。鏡台の前に座って丁寧にアイラインを引き、真っ赤な口紅を塗った。

 ノアと最後に会ってから二ヶ月近く経つが、連絡は取れているので無事に生きているようだ。会うと約束した日は明後日。とはいえまだ何か大きな仕事を片付けるつもりのようだし、仕事が第一な彼のことだから、あまり期待はせず気楽に待っている。


 外へ出ると、ビルの間から差し込む日差しが眩しい。カルメンはいつものように水色のキャデラックに乗り込むと、ターミナル駅方面へ向かった。

 再びボリスがこの街へ来ていると聞いた。今日は日曜で仕事がないから、会えるという。どうしてか、彼が来ていると聞くと会いに足を運んでしまう。会う必要はないのに、止められないのはどうしてだろう。

 出会った時からボリスには妻子があって、決して公に会うことはできない。仕事のための割り切った関係から始まった。だからカルメンはボリスと愛人関係を続けながらも、当然のように他に恋人も作ってきた。それでも他の恋人や愛人達の中で、ボリスはいつも特別な存在だった。


 ボリスが借りている駅近くのサービスアパートメントの前へ到着した時、カルメンはビルの前にパトカーと救急車が数台止まっていることに気付いた。急病人でも出たのだろうか。いや、パトカーがいるということは事件かも知れない。

 不思議に思いながら車を地下駐車場に入れた。

 サングラスをして帽子を深く被り、エントランスへ歩く。するとどういうわけか、建物の入り口前で複数の警官達が立ちはだかり、住民を制止していた。その周りには不安そうに様子を窺う住人達が集まっている。


「ここは入れませんよ」


 エントランスに近付いたカルメンに一人の警官が声をかけた。


「何があったの?」

「事件がありましてね。住人の方ですか?」

「いいえ、違うわ……」


 カルメンは慌てて取り繕う。ここで目立ちたくない。すると周囲を取り囲んでいた住人の中から、年配の女性が口を開いた。

「なんでも殺人事件らしいわよ」

「まあ怖い。またマフィアの抗争かしらね?」

 住人達は口々にヒソヒソ囁き合う。


「いえ、そうと決まったわけではありませんから、どうか落ち着いて」

 警官はまだ何も分からない状況で詳細を答えるわけにはいかず、住人をなだめに入る。

 間もなくして、担架を担いだ救急隊員がエレベーターで降りて来た。担架の上はブルーシートで覆われていた。救急隊員がエントランスから救急車に移動しようとするところへ、カルメンは駆け寄った。まさか、そんなはずはない。彼のはずがない—そう思いながら。


「待って、知り合いかも知れないの!」

 真剣な表情でそう言うと、警官は彼女が近付くことを許し、ブルーシートをめくって顔を見せてくれた。

 シワの刻まれた端正な顔立ち、眠っているようなその顔は、紛れもなくボリスだった。


 —ボリス……嘘……。


 カルメンはどうにか感情を表に出さないように努めた。それは間違いなくボリスだったが、自分が知っている彼とは違う、まるで魂のない抜け殻だった。体はマネキンのように硬く、もう彼が生きていないことを残酷に示していた。

 どうして、誰が—そう口に出したいのを堪えた。


「殺されたの?」

「いえ、外傷がないのでなんとも……ただ室内に誰かが侵入した形跡はありまして。お知り合いですか?」

「いえ、違います……」


 カルメンは首を振り、他人の風を装ってその場を離れた。ここで知り合いだと名乗るわけにはいかない。そうすれば彼の家族に知られ、二重にその人達を傷付けることになる。思ったよりも冷静に行動している自分に驚いた。

 持病もなかった彼が突然死ぬはずがない。きっと殺されたのだ。漠然とそんな確信があった。

 自分のキャデラックに乗り込み、どこへいく当てもなく車を発進させた。なぜ死んだのかはともかく、確かなのは、彼がもうこの世にいないということ。そして自分と彼との間には、繋がりが何もなかったことに気付く。

 時々、会いたい時に会う関係に満足していたつもりだった。培ってきた十年の絆は、何があっても切れないという自信があった。だがこうして彼が消えれば、二人の間に残るものはない。悲しみを表立って表現することさえ叶わない。

 街中を走るうち、両目から涙が流れていた。信号の光が涙で霞む。


 無意識に神に救いを求めたのか、いつしか車は街外れの丘の上にある聖ソフィア教会の前へたどり着いた。街を見下ろす緑の丘が広がる。その閑散とした駐車場に車を停めると、カルメンはハンドルに顔を埋めて声を上げて泣いた。

 アイラインは溶け、ブラウンの大きな瞳から黒い涙が滴った。外見を気にするどころではなかった。今になって初めて、彼を愛していたのだと気付く。

 通り過ぎて行った幾人もの男達の中、彼だけは心を過ぎ去らなかった。つまり、そういうことだったのだ。激しい恋と言うよりも体の結び付きで結ばれていたと思っていたが、本当に愛していたのは彼だけだった。しかし、気付くのが遅かった。


 コツコツと車の窓がノックされ、顔を上げた。スーツにネクタイを締めた、見知らぬ男達が立っていた。怪しげだが、マフィアのような威圧感はない。何者か訝しんでいると、男が声をかけた。


「ボリスを殺害した犯人を捕まえたくありませんか? 見つけるには貴方の協力が必要です」


 カルメンは彼らに覚えがなかったが、その話が出て来ると言うことは、彼らは自分のこともボリスとの関係も知っている。その見知らぬ男達ははっきりと、ボリスは誰かに殺されたのだと言った。自分が知らないことを知っているに違いなかった。

 深い悲しみの後に、怒りが込み上げる。彼の命を奪った誰かに、憎悪の炎を燃やした。カルメンは頷き、彼らを招き入れた。


「どうしてあたしに?」

「貴方を示していると思われるものが、ボリスから見つかりましてね」


 カルメンは、彼との関係が明るみになるのではと顔を強張らせた。それを察した男は言った。


「大丈夫です。彼と貴方の関係は我々以外知りませんし、公にもしません」


 カルメンは安堵したが、今度はボリスの部屋に出入りしていた自分が疑われているのではと不安になった。


「何も知らないわよ。心当たりも手掛かりも、何も思い当たらない……」

「発見された時、彼は床に横たわっていました。その直前までダイニングの椅子に座っていて、椅子から落ちたと思われます。彼が向いている先には、オペラ”カルメン”のポスターが」


 ボリスがこの街で借りている部屋には、何枚かのポスターが飾られている。その中でも、”カルメン"のポスターはよく覚えている。出会って間もない頃、彼が国立オペラ座の公演へ連れて行ってくれて、一緒にオペラを観賞した。彼はその時のポスターを今も大切に飾っていた。


 —懐かしい。あの人は一番良い席を取ってくれたけど、上流階級の人達のマナーなんて知らなくてドキドキしたっけ。あたしのことをまるでオペラのヒロインだと言った……。でもあたしはあたしの魅力があるって、唯一無二の存在だって言ってくれた。


「ボリスは落ちた場所からわざわざ向きを変えて、ポスターに向かうようにして息絶えていた。ですから、それに何か意味があるのでは、と思いまして。苦悶のあまり動き回っただけかも知れませんが」


 それでも、カルメンは意味があったと思いたかった。彼との間に繋がりは何もないと思っていたが、ボリスが最期の瞬間に自分を想ってくれたのだとしたら、それだけで充分救われた気がした。一筋の涙が頬を伝う。


「もう一つ、ダイニングテーブルの天板の裏には、ジャムで文字が書かれた跡がありました。逆字で”ホセ”と。心当たりはありませんか?」

「ホセ……? それが犯人の名前なの?」


 今やカルメンの頭の中は、ボリスを殺した犯人のことで一杯だった。突然話しかけてきた男達が何者かも、なぜ先ほど起きたばかりの事件の現場の状況に詳しいのかも、なぜ誰も知らないはずのボリスとカルメンの関係を知っているのかも、考えを巡らせる余裕はなかった。


「我々はボリスを殺したのが敵対するマフィアだと疑っています」


 この国でマフィアが絡む殺人事件は何らかの圧力が働くのか、容疑者が捕まらないか、捕まってもすぐに釈放されることが多い。自分が普段仕事で関わる相手が”そういう人達”だと分かっていたが、目の前で起きないうちはまだ、どこか他人事だと思っていた。

 だが今、現実が詳細に象られ目の前に突きつけられる。毎日のようにニュースで流れる、マフィアが背後にいると噂される殺人、抗争。もはや日常の一部となって聞き流していたが、その犠牲者達にも、彼らを愛する人がいただろう。


 愛する人の命を奪った人間が罰も受けずに平然と野放しになるとしたら、なんて理不尽な社会なのだろう。自分の身に降りかかった以上、必ずそのホセなる人物を光の元へ引き摺り出してやろう—そう誓った。

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