第二十一話 大きな決断

 AXの存在を知るきっかけになったノビチョクの小瓶は、今も病院のラボに保管してあった。防護服を着たノアとピョートルは、その保管室へ入った。

 白い紙に、慎重に香水瓶の中身を吹き付ける。


「……色が変わったな」

 香水を吹き付けた部分が青く変色している。

「使えそうですね」


 アセスラボの本社から持ち出した、ノビチョク専用の検知紙だ。電話でセミノヴィチから、彼が開発途中のノビチョク検知紙があることを教えられた。ただしこれは簡易的な開発段階の物で、新型を検知できるか不明だし偽陽性も起こり得るとの注釈付きだったが。

 本物のノビチョクだけでなく、クロロピクリンなどの似た物質で数回試して、おおよそ正確に検知できそうなことを確認した。



 停戦が決まってから約一週間が経った日、ノアは幹部として重要な決定を下した。証拠の収集とプラントの破壊を同時に決行するというものだ。確かに決め手となる物理証拠には欠ける。だが、複数の状況がキベルジア・ケミカル社の工場を示していた。

 強行突破にはリスクを伴う。時間をかけて潜入した方が、ピョートルの言う通り安全だ。しかし、突入のリスクと開発を続けさせることによる被害を天秤にかけた結果だった。


「被害を広げないためにも、捜索は強行する。状況証拠でも突入するには十分だ。俺達はマフィア—無法者だ。俺達の法に従う」


 その決定に至った意思を、自分の部下、そしてヤコフに伝えた。かなり密度の濃い作戦になる。綿密に計画を立て、準備を進めた。ピョートル以下のチームは農薬工場の上からドローンを飛ばし、警備システムの配置に見当を付けた。


 セミノヴィチが作った検知紙は、混合前の前駆体と混合済みのノビチョク、どちらも検知できるそうだ。

 第一陣はまず、検知紙を使って工場でAXを見つける。AXの製法を記したデータや、実験記録も工場のどこかに存在するはずで、それも収集する。ハッキングを恐れてネットに繋がっていない端末で保管されている可能性は高い。第一陣がこれらの物理的な証拠を収集した後、第二陣が突入する。


 作戦に参加するメンバーと決行日が具体的に決まったのは、7月に入ってからだった。作戦が流出することを防ぐため、ピョートルやディーマなど信頼できる少数に加え、どうしても参加しなくては気が済まないヤコフとその部下もメンバーに入れた。



『ノア、貴方なの?』

 久々に聴くカルメンの艶やかな声がする。

「ああ。変わりはないか?」

『それはこっちの台詞よ。生きてるみたいね。まったく、こっちから連絡しないと何も言わないんだから』

 電話の向こうからため息が聞こえる。

「まだ忙しくてな。終わってから連絡しようと思ってた」

『ソコロフスカヤとの抗争は停戦になったんでしょう?』


 さすがにその情報はカルメンにも入っていたようだ。

 抗争の間もたまにテキストメッセージを送り合ってはいたから、無事は確認していた。抗争が休戦して彼女の身の安全については安心していたのだが、会えないからといって、連絡もせずにいるのは女性にあまり良い印象ではない、ということを思い出した。


「他にも色々あってな。……そうだ、来週の火曜日に会おう」

『平気なの?』

「その頃には片付いてる。夜、いつものように家で」

『ええ。楽しみにしてるわ』

 そう言って電話を切った彼女の言葉尻は柔らかく、ほっと胸を撫で下ろした。



 風は暖かく、外で過ごすのが気持ちの良い季節になった。月が出た夜、邸宅の野外プールの脇に並ぶデッキチェアでは、ヤコフが女と戯れていた。ノアはその目の前を、意に介せず自分の鍛錬のために泳ぐ。


「あれあんたの兄貴でしょ? 結構イイじゃん。ねぇ、三人でしない?」

「ああダメダメ、あいつ今彼女いるからノってこないって」

「ふぅん」


 そんな会話が耳に入る。


 —いなくても断るが?


 プールから上がり、ヤコフと女が濃厚なキスをしている横で体を拭く。もう見慣れたものだ。

 その足で、邸宅に併設されたバーニャ—ロシア式サウナ—へやって来た。扉を開けた瞬間から蒸し暑い空気が漂ってくる。木目が敷き詰められた薄暗い室内には、寛ぐピョートルの姿があった。

 樽の水を石のストーブに掛けると、ジュっと焼ける音とともに熱い煙が一気に立ち上がった。ノアはピョートルの側に腰掛けた。室内に充満する蒸気が体を包む。


「……突入チームへの参加は考え直せ。お前は残るべきだ」

 二人きりの空間の中、ノアは真剣な顔で呟いた。

「何言ってるんですか。私が行かずに誰がターゲットを発見して破壊できるんでしょう。現場で的確な判断を下せるのは……私を除けば貴方くらいでしょう」

「お前はもういい歳だし、現場は退いてる。頼む、アジトで司令塔を務めてくれ。お前を失うことだけは避けたい」


 ノアが幹部になって以来、すでに組織の顧問であったピョートルが現場の第一線に出たことは無かった。だが彼は、工場へ突入する第一陣を自ら買って出た。その際にも一度は止めたが、彼の意見は変わらなかった。


「私が年寄りと見くびっているのなら考えをお改めください。貴方に諜報の技術を教えたのは誰だかお忘れですか?」

 ピョートルはからかうように笑う。

「お前が貴重だからだよ! 失えば組織にとって大きな痛手だ」


 職員や警備員がほとんどいない日を選んだとはいえ、現地への侵入はそれなりに危険を伴う。一歩間違えば自分が死ぬような強力な兵器が保管されているのだから。ノアはそれを恐れていた。


「お言葉ですが、それは賛成できませんね。仮に私が行かなければ貴方が現場で指揮を取らなければいけなくなります。でも、貴方は当日自由に動きたいのでしょう?」

 ノアは言葉に詰まった。その通りで、ノアには別行動を取りたい理由があった。

「若頭、貴方は本当に才能がある方だ。貴方さえファミリーにいれば、年寄りはいなくても大丈夫です」

「そんなお世辞が聞きたいんじゃなくてだな」

「いえつまり、成功確率を上げるためには、私の参加は必須です。それに比べれば、作戦に伴うリスクは大したものではありませんよ」


 そこまで押し切られては、ノアも頷くしかない。組織の実権は今やノアが握っている。ピョートルは年齢経歴共に二回りも上だが、序列に従い、ノアに意見することはあっても最終決定はノアに委ねてきた。その彼がここまで食い下がることは珍しかった。


 気付けば身体中からじんわりと汗が滲み出ている。すっかり体が熱い。

「はたきましょうか?」

 彼の申し出に甘えることにした。ノアは段の上で腹這いに寝る。均整のとれた、骨と筋肉ばかりの無駄のない体。古傷も目立つ。

 ピョートルは葉のついた白樺の枝を手にし、ノアの背中を強めにはたいていく。叩かれた部分はほんのり赤みを帯びた。こうして血行をよくしている。程よい刺激が気持ち良く、癖になるのだ。今度は仰向けになり、上半身から足までを満遍なくはたく。 

 ピョートルが樽に冷水を汲んできて勢いよく全身に打ち掛け、汗を流してくれた。気持ちの良さに、仰向けに寝そべったまま恍惚としてしまう。


「そう言えば、お前はなんでKGBからルーベンノファミリーに鞍替えした」

「おや、随分昔のことを聞くんですねぇ」


 ピョートルは再び腰を下ろした。静かなバーニャに彼の穏やかな語りが反響する。


「知っての通り、私はかつて国のために誇りを持って働いていました。でも、急につまらなくなってしまったんですよ—権力者達のゲームに付き合うのがね。その頃、全ての価値観の判断基準は、西か東か—それだけでした。そこに一つの信念はなかった。どちらの体制も、反対側を打ち負かすことが正義の全てでした。そんなラットレースから抜け出したくなりましてねぇ」


 ピョートルは遠い過去を懐かしむように目を細める。


「世間ではペレストロイカが推し進められていた頃、この体制はもう長くないと誰もが思い始めていました。ゼフィルだけは、それを真っ先にチャンスに変えた。彼とはKGB時代から仕事で親交がありましてね」


 当時まだ生まれていなかったノアやヤコフは、大人から聞く話でしかその時代を知らない。しかし皆一様に変革の混乱を語るところから、彼らの苦労が窺える。


「政治なんて所詮、政治家の権力争いのゲームに過ぎません。ゼフィルは、そんなゲームに支配されない世界を作ろうとした。国の権力者が決めたルールに囚われず、彼自身の信念で動く世界を。……それが、私には魅力的に写りました。少なくとも、彼の方が民に愛されていた」


「世間は今もそんなに変わってないな」


 政治は今も権力者のゲームで、権力者にとっては国家すらそのゲームの道具に過ぎない。冷戦は表面上終結したが、形を変え相手を変え、同じことが続いている。

 KGBからマフィアへ鞍替えしたのはピョートルだけではない。他にも何人か知っている。信念か野望か強欲か—他の連中がどんな思いを抱いてマフィアの道へ走ったのか知らないが、少なくともゼフィルの元へやって来る人間は、ノアと同じように彼を慕い、彼の思い描く世界を実現しようとする者なのだろう。


「貴方は以前、ノビチョクを開発した者は悪意以外の何物でもないと言いましたね」

「化学兵器、核兵器全てだな。無差別大量殺人、その上死の連鎖を引き起こし、永久に土地を破壊する—俺達マフィアには思い付かない」


 ノアは呆れるように鼻で笑った。化学兵器は、狙った獲物だけを仕留めるには適さない。爆弾に積んで爆撃すれば一帶を広範囲に壊滅できるし、屋内でエアロゾルとして噴霧すれば一度に数百人を根絶やしにできる。周囲にいる人間を無差別に、更に救助に入った人間も殺し、土地の動植物も絶やす。

 国家権力が自分達を悪党と凶弾する一方で、正義の元にこうした破壊行為を行う様は滑稽で、笑いが込み上げてくる。


「携わる人のほとんどは、そこまで考えていません。目の前に与えられた小さな達成感を糧に生きていますから、歯車となっていることに気付かないんです。セミノヴィチも私も……悪意はなかったが、その先の大きな出来事を見ようとしなかったこともまた罪なんです」


 そこまで話を聞いて、ピョートルの過去への後悔は十分に伝わってきた。セミノヴィチを拉致した時の会話で言った”釈罪”という言葉の意味も分かった。

 ノアは体を起こし、真っ直ぐ彼を見た。


「いいかピョートル、これを罪滅ぼしのための戦いにはするな。こいつらは氷山の一角で、小者に過ぎない。こんな奴ら相手に罪滅ぼしになるか。お前にはこの先もっと大きな敵と戦ってもらうんだからな」

「分かりました。未来への希望を守るための戦い、と考えましょう」


 彼は立ち上がると、気持ちの良い笑顔で振り向いた。いよいよ熱さも限界だ。バーニャ後の美味いウォッカを一杯引っ掛けようと、ノアも立ち上がった。

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