第二十話 真実への道
同じことを何度も厳しく追及する紫目の男に、イゴールはひたすら知らないと答え続けた。事実それしか答えようがないからだ。喉はカラカラになった。
やがて今度は背の低い方の覆面男が質問を変えた。
「どうして貴方は命がけでそれを追い、告発しようとしたのですか?」
やや嗄れた、年老いた声だ。延々と続いた見ず知らずの男についての追及から質問が変わって、少し安堵する。
「……同じ施設で働いていたヴィルという男がいた」
「ヴィル・ミルザヤノフのことですね?」
「ああ。彼がモスクワ・ニュースでノビチョクの存在を告白した時には驚いたよ。ヴィルがなぜそんなことをしたか分かるか? 研究所と試験場周辺の環境が深刻なほど悪化していたからだ。彼は人々の健康と環境への影響を憂いた。……僕は、自分を恥ずかしく思った。僕は研究に打ち込むのが楽しくて、それがどんな未来をもたらすか、そこまで考えていなかったから」
言葉が溢れ出た。イゴールは溜まっていた思いを吐露した。
「だけど僕は、彼の後に続いて自分が関わっていたと名乗り出ることができなかった。彼が逮捕されてしまったのを見て、怖くなったんだ。僕も捕まって殺されるかもって……。ヴィルが一人で戦っているのを知りながら口をつぐんでしまった。卑怯者の自分に、何年も後悔していた。……それで、誰かが新しいノビチョクを作ろうとしていることに気が付いた時、今度こそ僕も、ヴィルのように良心に従って行動しようと思った。……だって科学は人を幸せにするものでなきゃ、意味がないから……」
「釈罪を求めているわけですね。お互い様ですね。お察ししますよ」
お互い様と言う意味が分からなかった。そのうちに、年老いた声の男が紫目の男を向いて言った。
「さて、大体こんな所でしょうか」
紫目の男は頷くとナイフを引っ込め、震えながら大粒の汗を流すイゴールに向かって言った。
「無実の老人を拷問する趣味はないから安心しろ。このままじゃ俺達が殺さなくても心臓発作で死にそうだ」
男は先ほどの脅すような口調から、坦々とした静かな話口調へと戻っていた。急に態度を翻されたことに驚き、思わず男の顔を見上げる。彼は続けた。
「多分、政府関係者の中にも開発の協力者がいる。メルニチュクから何か聞いていないか?」
その言い方に混乱する。彼らは黒幕ではなかったということなのか。
「そう言えば……ガリーナはガリーナで政府内部を調べると言っていた」
「お前達、そのまま告発しても揉み消されて殺されていたぞ。現に何度も襲われて死にかけてるだろ」
「え……だが……」
—襲ってきたのは君たちじゃないのか? ボシュツカ鉱山の帰りに、確かに君たちの仲間を見たのに。
「ここは俺達プロに任せておけ。ひとまずお前は安全な場所で傍観してろ」
男達はパソコンやハードディスクを全て鞄にしまうと、再びイゴールに目隠しをして外へ出るよう促した。
「ノビチョクを裏で製造しているのは、君たちじゃないのか……?」
車の中で、やっとの思いでイゴールは尋ねた。
「その誤解だけは解いておこう。誰かが開発した新型のノビチョク—俺達はAXと呼んでるが、少なくとも首謀者はルーベンノファミリーじゃない。それから、お前とメルニチュクを襲ったのはソコロフスカヤ・ブラトヴァというロシアンマフィアだ。憎むならそいつらを憎め」
車を降りるまで、紫目の男はノビチョクについてイゴールにあらゆることを質問し、メモを取っている様子だった。その一時は恐ろしいマフィアと一緒にいるはずなのに、まるで講義後に熱心な学生の質問に答えているかのような、不思議な気分だった。恐怖が麻痺してしまったのかもしれない。
マフィア達はイゴールを空港へ送り届けると煙のように姿を消した。
空港から真っ先に息子に電話をかけると、電話は普通に繋がった。心配して様子を尋ねると、キョトンとしていた。家には誰も来ていないし、もちろん縛られたりもしていないと言うのだ。心配のあまり悪い夢を見たんだろうと笑い飛ばされた。ビデオ電話で姿を見せてくれたが、息子夫婦も孫も、何事も変わりなかった。
狐に包まれた気分だった。
背の低い青い目の男のことを思い出して、ふと、研究所に勤務していた頃の記憶が頭をよぎった。ノビチョクはKGBのために開発した物だったから、当時はよくKGBと密に仕事をしていた。
先ほどの追及は、イゴールが嘘を付いているかどうかを言動、挙動から観察していたのではないか。そう考えるとあの視線、あの同じ質問の繰り返しが肯ける。
—もしかすると、彼も……?
———
六月、人々は短い夏を今か今かと待っていたが、キベルジア共和国の人々はただ抗争の終結を願っていた。連日報道される殺人事件に、外出も控える日々にうんざりしていた。
抗争は、情報戦の得意なファミリー側が優位に立っていた。ある日とうとう、ディーマが敵対勢力支部のボスを殺害したとの報告が入った。その死体を確認したノアは彼をよく労い、成果を称えた。彼とそのチームには十分な報償金を取らせた。
数日後、幹部達がボスの部屋に集められた。書斎の一角にある机に着く。銃撃戦での怪我が治り切っていないヤコフもいた。
「もう聞いていると思うが、ソコロフスカヤ本部のボスから停戦の申し出があった」
ボスのゼフィルが切り出した。
「停戦の条件として、ソコロフスカヤはキベルジア内の麻薬売買のシマを全て我々に譲ることを提案している。……どうだ、悪くない話だろうヤコフ?」
ゼフィルは組織の麻薬部門を担うヤコフに振る。
「それはそうですけど……奴ら本気ですかね? こっちには良い話だけど、連中に取っては莫大な収益源を失うことになる」
ヤコフが訝しむ。
「今までソコロフスカヤに与えた被害は?」
「支部のボス、グループリーダーを含めて三十三人が死亡。麻薬取引の拠点も二箇所、破壊しました。こちらは死者十五人です。グループリーダーが殺されたが、幹部クラスに死者はいません」
ノアが答えた。有力者に狙いを定めて統率力を削いだこと、拠点を襲撃して数百キロ分の商品を破壊し、莫大な損害を与えたことが成果だった。キベルジア共和国においてはファミリーの情報網が確立されており、地の利があった。
「連中からすれば、進出先は何もキベルジア共和国でなくても良い。他へ拠点を移すことにしたか、他の収益源を見つけたか—どんな思惑があるにせよ、何よりソコロフスカヤを縄張りから追い出すというのが当初の目標で、それが果たせるということ。そして市民をこれ以上巻き込まないためにも、停戦に応じるのが一番だろう。無論、連中はいつそれを翻してきてもおかしくないから、停戦しても警戒は解くな」
「はい」
二人は同時に返事をして、この日の会議は終了した。ノアは停戦を歓迎していた。これでAXの決着を付けることに資源を回せる。
ヤコフが浮かない表情をしている理由も分かっていて、廊下で声を掛けた。
「お前入院してたから暴れ足りないんだろ?」
「ああそうだよ。やられたのにこの手で何もできてねぇ!」
ヤコフは複雑な表情を浮かべる。彼も頭では停戦が妥当だと理解しているはずだが、感情が収まっていないのだ。
「だからAXとの戦いでは思い切り暴れてやるよ!」
「参加するつもりだったのか? 無理するな。どうせ傷も治ってないんだろ?」
ノアは鼻で笑いながら、拳でヤコフの右肩を小突いた。
「っ……てぇ!」
ヤコフは顔をしかめ後退りすると、反射的に殴り返した。左拳がノアの脇腹に入った。
「ぐっ……冗談だって」
「つーかあんた、弟への敬意ってものがなくない? 俺が撃たれた時も心配のかけらも見せないし、一度も見舞いに来ないし」
「心配して欲しいのか? ガキか。仕事に関係ないだろ」
ノアがなおも小馬鹿にしていると、ヤコフの表情は攻撃的な視線に変わった。
「そういう話じゃねえだろ? ファミリーってさ、利害関係だけじゃない絆で結ばれてるからファミリーなんじゃないの?」
「俺に何の文句があるんだよ」
戯れ合っていたはずの空気がいつの間にか真剣になっていた。ヤコフの胸をどつくと、彼はノアの胸ぐらを掴み、一触即発の睨み合いになった。
突然二人の髪が鷲掴みにされ、両者の額がぶつかり合う。硬い打撃音と共に雷に打たれたような衝撃が走り、視界がチラついた。頭から手が離されると、思わず廊下に膝を付く。
背後にはゼフィルが立っていた。腕組みをして見下ろす姿を見て、二人はとたんに萎縮して改まった。
「パパ……」
ゼフィルはノアの方を睨む。
「ノア、お前はその口で傘下の構成員に仲間割れをするなと言えるのか?」
「はい……申し訳ありません」
ノアは頭を垂れる。ゼフィルはノアにその一言だけ言うと、自分の部屋へ戻って行った。
構成員同士の喧嘩は禁止されている。頭を押さえながら、長年の兄弟という関係に甘えていたことを少し反省した。
「ほら」
そう言ってノアは自分の右頬を差し出す。一発殴れという合図だ。刃物でやりあっていた十代の頃とは違い、喧嘩の仕方も喧嘩の終わらせ方も平和的になった。
「だからそうじゃないんだって」
ヤコフは殴ろうとはせず呆れ顔だ。ノアはしばらく経って意図を理解して、頬を差し出す代わりに軽くハグした。
「……こうか?」
「そういうこと」
ヤコフはハグを返してポンポンと背中を叩いた。
—いつの間にかお前の方が大人じゃないか。
年下で子供っぽいと思っていた弟に、いつしか精神年齢で先を越されていたことを知って愕然とする。
セミノヴィチから入手した情報で、AXの真相へ大きく近づくことができた。ノアは執務室でピョートルと会議に入った。ヤコフも同席した。
「まさかAXのテストがボシュツカ鉱山の近くで行われていたとはな。気付けなかったのは完全に失態だ」
ボシュツカ盆地は平坦で広大な大地で、周辺に人がほとんどいないことから、兵器の実験に適している。セミノヴィチによれば、黒幕はそこでAXの兵器としての有効性—ガスとして噴霧したり、爆弾に搭載したりして、拡散の度合い、持続性などをテストしていたであろう。
「ノビチョクだと気付くのは不可能ですよ。よほど精通した専門家でなければ」
「だがノビチョクに気付けなくても、変化に気付くことはできたはずだ。労働者の健康状態、それに誰かが盆地に侵入して不審な動きを見せていたはずなのに、それにも気付けなかった」
「兄さんの言う通りだ。異変に気付けなかったのは悔しいよ。しかも俺達の土地、労働者を実験台にしたってことだろ?」
ヤコフの表情が怒りに燃える。
「意図してのことか分かりませんが、結果的にそうなりますね」
「多分、意図してのことだ。セミノヴィチは俺達が黒幕だと思っていたし、俺達はセミノヴィチを疑っていた。本当の黒幕は、万が一事件が露呈しても疑いの目を逸らせることまで考えていたに違いない」
「クソ野郎どもが!」
ヤコフは噴気して顔を赤くする。ノアも内心は、悔しさと怒りで煮えたぎっていた。
アセスラボの襲撃を依頼した企業αはAXの黒幕とみなしていいだろう。ルーベンノファミリーにソコロフスカヤをけしかけたβがいるとすれば、同一人物の可能性が高まった。
「さて、まだ黒幕が誰なのか、プラントがどこにあるのかという問題が残ってるわけだ」
セミノヴィチの話からすると、試験体を持って怪しまれずにテストサイトを往復する都合上、ボシュツカ盆地から車で移動できる範囲にプラントがある。そこまで絞り込めたことは大きい。
「容疑者候補となっていた組織については、国内に疑わしいプラントがあるかどうか、すでに隈なく探しました。その上で見つかっていないという事は、一見疑わしくない場所に存在する、ということでしょう」
「巧妙に偽装されている……ということか」
ピョートルは机の上にボシュツカ盆地周辺の衛星写真を広げた。
「このように、周辺には工場や建物がいくつかあります」
「コバレンコが訴訟を行った企業の中で、この中に事業所を持っている者は……」
「ここに一つ。ボシュツカ銅鉱山から30Km離れたボシュツカ川の下流に、キベルジア・ケミカル社の工場が」
ピョートルが指差した。
「ここは以前にも調べましたがもう何十年もここに農薬工場を構えている老舗で、疑わしい点は見えませんでした。近年工場を増改築したとか、仕入れの材料に変化があったとかいうこともありません。仮にその中にプラントを隠しているとすれば、そう簡単には発見できないでしょう」
「農薬工場、か……」
ノアは眉を潜めてその一点を睨む。ノビチョクの製造工程は、途中までは農薬の製造工程と同じだ。
「お考えは分かりますよ。偽装するなら農薬工場はうってつけです。限りなく疑わしい。ですが証拠がありません」
「証拠を得るには?」
「確実な証拠を得るには、
現実的ではあるが、半年や一年のスパンで考えなくてはならない話だ。時間がかかり過ぎるのが懸念だった。その間に新たなAXの被害者が出ないかも気掛かりだし、黒幕と通じているであろうソコロフスカヤが、宣戦布告から停戦という慌ただしい動きをしていることも嫌な予感がした。
—セミノヴィチなら、見破れるかな。
「キベルジア・ケミカルの社長はどんな奴だ」
「現CEOはボリス・ターチン。元々国営企業でしたが、民営化後は旧共産党幹部のターチン家が代々経営しています。代々の経営者の中で決して際立っているわけでもないですが、着々と成長を続けている優等生ですよ」
ヤコフに目を移す。
「俺は会ったことないな。家柄からしてブルジョアのボンボンだろ」
CEO個人の人となりは見えてこなかった。外資系企業のBECと違って、元国営企業ゆえに政府との癒着は強そうだ。
その夜ノアは、一人で執務室へ残ってコバレンコが生前最後に担当した事件を見返した。すでに何度も見た裁判資料だ。キベルジア・ケミカルの農薬工場で、クロロピクリン中毒を原因とする従業員の死亡事故が起きた。クロロピクリンは農薬の一種で時折中毒事故が発生するが、ノビチョクの材料物質とも酷似している。
その事故は労災が認められたものの遺族は発生状況の説明に納得しておらず、説明を求めていた。具体的には、会社側は事故が起きた場所を工場の第一プラントだとしていたが、遺族は従業員が勤務していたのは第三プラントのはずだと主張している。事故の説明に虚偽があるのではないかという話だ。
コバレンコが暗殺された日、彼が訪れていたのはその従業員の遺族の家だった。死後、別の弁護士に変わって和解が成立している。
キベルジア・ケミカルは国内に複数の工場を所有しているが、事故が起きた工場は、先ほど地図にも載っていたボシュツカ川流域の工場だった。
労災事故が起きれば、事故現場に監査が入る。見方によっては、第三プラントに見られたくないものがあるから現場を第一プラントと偽った、とも考えられる。
しばらく悩んだ後、ノアはある場所へ電話をかけた。
『もしもし? どちらだね?』
「先月の終わりにロンドンで会った者、と言えば分かるな」
『君は……』
セミノヴィチの怯えた声がする。
「聞きたいことがある」
しばらく沈黙が流れた。また脅迫されると思ったのかもしれない。電話の向こうから、自分に対しての恐怖と嫌悪が伝わってきた。
『信じていいんだね? 本当に君達が人々のためにノビチョクを見つけると……真実を暴くと……』
「ああ」
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