第十九話 ソビエトの光と影
イゴール・セミノヴィチはスイス・チューリヒのホテルで穏やかな数週間を過ごしていた。同じヨーロッパと言えども、故郷に比べるとスイスの方が街並みはカラフルで小洒落ている。
安全のため従業員は全員自宅へ返し、命を狙われているであろう自身はこうしてスイスへ逃れた。ここへ来てからは怪しいマフィア達の手が届くこともない。
親会社の上層部が話すところによると、連日の襲撃事件を仕掛けたのはルーベンノファミリーという組織らしい。特に、ボシュツカ銅鉱山で鉢合わせしたヴォズニセンスキーと名乗る若い男—ダークブロンドで背は低め、甘い顔立ち、という特徴からして、実業家のヤコフ・ヴォズニセンスキー本人だ。上層部曰く、彼は実質ルーベンノファミリーのNo.3だそうだ。
その鉱山からの帰りに挟み撃ちで襲撃してきたのも、その翌日にガリーナを銃撃したのもルーベンノファミリーだろう。
散々な目に遭って会社は一時閉鎖したが、イゴールは仕事を止めていなかった。ここでは分析機器は使えないものの、分析済みのデータの解析はできる。マフィア達がボシュツカ盆地、ボシュツカ川の調査データを狙うことは想定できたから、データはハードディスクに移し、本社の端末から削除しておいた。
携帯電話が鳴った。息子からだ。普段は年に数回連絡を取るくらいだが、スイスに移ってからは心配して頻繁に電話を掛けてくれるようになった。おかげでビデオ電話で孫の顔も見られるし、危機的な状況のおかげで以前より家族との絆が深まった気さえする。
「やあ元気にしてるかい?」
『……イゴール・セミノヴィチか』
聞こえてきたのは息子の声とは程遠い、低い男の声だった。驚いてもう一度発信者を確認するが、表示されているのは息子の名前と電話番号だ。
「誰だね?」
『我々の要求はただ一つ。一度しか言わないからよく聞け。お前が会社から持ち出したデータを我々に提供しろ。相応の謝礼は用意する』
「僕にスパイになれと? あなた方は誰なんだ! 急にそんなことを言われても協力できるわけがない」
『これを見れば、断る理由はないと思うぞ』
アプリを通じて、ビデオ電話で映像が送られてきた。それを見て目を疑う。そこに映っているのは息子夫婦と五歳の孫—が目隠しをされ縛られている様子だった。その隣には、覆面をして銃を持つ男が立っている。
「な……そんな……」
真っ先に湧いた感情は恐怖。孫が殺されてしまうかもしれないという強烈な恐怖。続いて、あんな小さな子供にどうしてそんな卑劣な真似ができるのか、という怒りだった。
『お前が昔も今もノビチョクの研究をしていることは知っている。隠し事は無しだ。お前が持ち出したデータ、特にノビチョクの研究データを忘れずに持って来い』
—ノビチョクのことを知っている。
『受け渡し場所はロンドンだ。今から昼のフライトでヒースロー空港へ飛べ。データを確認したら家族は解放する。警察はもちろん、会社の人間にも一言も話すな。必ず一人で来い。家族の命は我々の手の中にあることを忘れるな』
「だが、僕がここを離れれば会社の人間には知られてしまう!」
『適当な理由で誤魔化せるよう、今日のうちに戻れるスケジュールにしてやったんだ。我々の要求さえ呑めば、お前も家族も解放してやる。要求を呑まないのなら家族を殺す。待っているぞ』
電話が切れた。心臓がバクバクと鳴っていた。
—データを持って、ヒースロー空港……。
電話の主は確実に、自分達を襲撃してきたルーベンノファミリーだ。息子の電話が彼らの手中にあるところを見ると、家族はすでに彼らの支配下にあるに違いない。イゴールはこの脅迫に抵抗する方法を考えようとした。
ノビチョクのデータは人々の未来に関わるものだ。自分一人の問題ではなく、易々と渡せない。マフィアなんかに渡せば、どんな恐ろしい悪用をされるか。何より黒幕がルーベンノファミリーだとすれば、きっと自分はデータを渡すだけでは済まない。口封じのために殺されるだろう。
親会社BECの
しかし、縛られた家族のあの映像が頭から離れない。特に五歳の孫には、なんと可哀想なことを。
イゴールにとってこの選択は、人類の未来か家族かの選択だった。昼の飛行機に乗るには、今家を出ないと間に合わない。こうしている間にも、家族に命の期限が迫る。一度植え付けられた強烈な恐怖は、そう簡単に消えなかった。
イゴールはデータを持って家を出た。
飛行機が離陸する。緊張で体の震えが止まらない。ストレスが年老いた体を追い詰める。
イゴールは、幼い頃から水や雲や土に興味を持つ子供だった。雲は何でできているのか、空はどうして青いのか、水はどこからやってくるのか、好奇心旺盛な普通の子供と同じく、そんな疑問を親に尋ねては困らせていた。ただ他の子供と少し違ったのは、大人になってもその好奇心が消えなかったことだ。
彼は化学の道を歩むことになった。当時ソビエトが科学・数学の振興に非常に力を注いでいたことも、進路の後押しになった。
ソビエトは米国との競争の中、科学分野で他国を圧倒し、世界初の人工衛星打ち上げ・世界初の有人宇宙飛行など、人類史に残る輝かしい実績を上げた。一方で、歴史に残らない影の研究も行われていた。ノビチョクもその一つである。最も、科学技術における光と影の存在は米国も同様であった。
最初のキャリアは、ソビエトのサラトフ州シハヌィ村にある、国立有機化学技術研究所だった。この歴史ある研究所は、エチレンオキシドやポリ塩化ビニルの大量生産のための研究で国民の生活を支えてきた。
不凍液や殺虫剤など、生活を豊かにするための化合物全般を研究してた施設であったが、軍用としての化合物を研究する側面も持っていた。
唯一無二の発明や発見をしたいと言う気持ちは、科学者なら誰でも持っている。イゴールはただ純粋に、好奇心をくすぐる新しい発見を求めていただけだった。しかしある時、自身が勤務していた研究所の歩みを振り返って、恐ろしい研究に携わってしまったことを後悔した。
ヒースロー空港ではサングラスをかけた複数の男が出迎え、イゴールに車に乗るよう促した。車の中で目隠しをされる。
やはりデータを渡すだけでは終わらなかった。連れて行かれた先で自分は殺されるのだ。それでも家族が助かるのなら、と自分に言い聞かせた。体が震え、額には汗が滲む。
車に同乗していた男は、イゴールに煙草を咥えさせた。
車は郊外の古いモーテルに入り、イゴールはその一室に連れて行かれた。そこで目隠しを解かれる。殺風景な室内にパソコンが置かれ、一人の男がハードディスクの中身を確認する。男は電話をかけ、アジャル語で誰かを呼び出した。
永遠のような無言の数分間が過ぎた。十五分ほどして、覆面をした別の男二人が現れた。他の男達の態度からして、彼らの親玉だと察する。
「これがノビチョクの製法か?」
覆面の一人が言った。思いの外声は若い。
「そうだ。間違いなく持ってきた」
「お前に聞きたいことがいくつかある。これを使ってBECと共同でノビチョクを開発した、その製造プラントは何処にある?」
質問の意図に混乱し、すぐに回答ができなかった。男が凍てつく目で回答を促す。緊張で頭が真っ白になりそうだ。
「プ、プラントとは何のことだ。それは僕が知りたい。……君達はこのデータでノビチョクを完成させたいのだろう?」
すると男は答えず、すぐに次の質問へ移った。
「ノビチョクの製法をBECに渡したのか?」
「渡していない。僕が提供したのは、ノビチョクの検出方法だけだ」
「ではそれ以外の第三者には?」
「渡していない」
男は淡々と質問を続ける。イゴールは、覆面から覗くその男の瞳が紫色をしていることに気がついた。
「なぜボシュツカ鉱山を調べていた?」
「それは……き、君達がボシュツカ盆地をノビチョクの試験場にしていたからだ!」
「なぜ分かった?」
やはり彼らはルーベンノファミリーの一味で、今回の黒幕だ。イゴールがそれに辿り着いたことを知り、口封じに来たのだ。もう逃げられない。イゴールは観念して全てを話した。
「ボシュツカ盆地の調査をしたのは、初めは偶然だった。あの鉱山周辺の住民に不調を訴える者が複数いて、それがここ半年ほどの間で増えているのが気になるとガリーナから聞いていた。鉱山労働者が鉱毒被害に遭うことは多いから、気になって調べることにしたんだ。そして試料を何度も調べているうちに、ノビチョクの分解物質らしき物に気付いてしまった」
労働者の症状が普通の鉱山中毒と異なっていることに、疑問を抱いたのがきっかけだ。普通の科学者がそれに気付くことは不可能だろう。ノビチョクの性質をよく知っているイゴールだから疑うことができて、気付けた。
「何度か試料を採取したが、分解の進み具合からして数週間以内のものだった。それで、誰かがあそこでノビチョクの実験をしていると確信した」
「それが俺達だとする根拠は?」
「試験場らしき場所の一番近くにあるのが、ボシュツカ鉱山—君たちルーベンノファミリーが経営している鉱山だ。何より僕達を襲撃したり、ガリーナを撃ったり、こうしてデータを奪おうとしてるのが証拠じゃないか!」
イゴールは怒りに満ちた目で男を睨んだ。男は頷くだけだった。感情が読めない。
「お前はノビチョクの試験が行われていることを知った。そしてどうするつもりだった?」
彼らはイゴールの行為を責め立てたいのか、分かり切ったことを聞いてくる。その答えによって何が変わると言うのだろう。イゴールの感情は次第に、恐怖よりも怒りが勝ってきた。
「証拠をまとめてガリーナと一緒に中央当局へ報告するつもりだったさ。でも君たちの望み通り、それはもう叶わない! こうして僕を口封じするんだから。子供を人質に使うなんて、卑劣な外道しか考え付かないよ!」
イゴールは感情的に非難したが、それでも男は無反応で質問を続けた。
「報告すると言っても、どうせ製造プラントも発見してないんだろ?」
「ああ、だが時間の問題だった。大量の前駆体を何度も、しかも怪しまれないようテストサイトに運ぶわけだから、そう離れた場所のはずがない。そうなんだろ?」
紫目の男は少しの間、何かを考える姿勢を見せた。黒幕にしては奇妙な反応だった。
「マクシム・コバレンコを知ってるな? お前達にとって目障りだった弁護士だ」
「マクシム・コバレンコ……? そのような名前は知らない」
男は黒く光るハンティングナイフを取り出し、イゴールの喉元へ押し付けた。冷たいキッサキが当たり、針のような痛みを感じた。
「お前の親会社への訴訟を担当した男だ。なぜ殺した? 言え」
再び背筋が凍る。男はこちらの言い分など問答無用の様子で、強い口調で迫る。だがイゴールにはそれが誰なのかも、なぜ自分が彼を殺したことになっているのかも、見当が付かない。
「本当に知らないし……殺したってどういう意味だ」
声が震える。
「奴について知っていることを話せ。奴をどう思っている?」
詰め寄る紫目の男と、答えるイゴールの様子をじっと見つめるもう一人の覆面。これから起きることを想像すると、恐怖で頭が真っ白になる。
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