第十八話 ノアの推論

 それなりに重傷を負っていたヤコフは、組織の息がかかった馴染みの病院へ送られた。結局治療のため第一線から外れることとなり、ノアがAXに暴露した際に入院したのと同じVIP用の病室で電話越しに部下に指示を送るようになった。


 州都の街が殺伐とし始めた頃、ある夜ファミリーが所有するホテルの一つへ水色のキャデラックが入っていった。時を置いて、黒いベンツが同じホテルの地下駐車場へ入った。

 そのホテルの一室で、恋人達は暫しの別れを惜しんだ。


「今回の抗争は、多分俺もターゲットに入ってる。敵の目的はルーベンノファミリーの壊滅のようだから」

 ジャグジーでお湯をすくいながらノアは言った。はじける泡が優しく体を包む。

「死なないでね」

 カルメンはノアの胸に頬を付けた。

「大丈夫だ。だが、俺と一緒にいればお前も狙われる。だからしばらく会えなくなるが、十分気を付けろよ」

「ソコロフスカヤにも顧客がいるわ。うまく立ち回って見せる。あたしのことは心配しないで」

 カルメンは余裕の笑みを見せた。その頼もしさに安堵する。


「ねぇ、それにしても前から貴方が追ってる組織の件は片付いたの? 秘密のプラントで兵器を作っているとかいう」

「それもまだだ」

「その件とソコロフスカヤとの抗争は関係ある?」

「いい質問だ。……多分ソコロフスカヤは直接製造に関わっていないが、その後ろにいる奴は関わりがある気がしてる」


 ソコロフスカヤの構成員から死ぬ前に聞き出せた情報は少なかったが、分かったこともある。セミノヴィチやメルニチュクを襲ったのが、ある企業の依頼であることだ。金を貰って仕事を請負ったらしい。構成員は依頼主の名前までは知らされておらず、それ以上は分からない。

 セミノヴィチとメルニチュクの襲撃を依頼をした企業は、何らかの理由でアセスラボ社を快く思っていない。彼らの調査によって最も不利益を被ったのはルーベンノファミリーだが、もちろんルーベンノファミリーではない。彼らの仲間であるBECでもないことは確かだ。しかし、動機を持つ第三の企業が一向に浮かんでこない。

 ルーベンノファミリーに抗争を仕掛けた理由は、これを機に縄張りを奪うためだ。だが、なぜこのタイミングなのか、本当の理由は末端には伝えられていないのだろう。

 ノビチョクのことも知らなかった。


「このタイミングで急に戦争を仕掛けてきた理由は多分、俺達にソコロフスカヤをけしかけた者がいる。その誰かは、兵器の製造者と同一人物かもしれない」

「貴方がその兵器を追っているから反撃したってこと……?」

「今のところ俺の想像でしかないがな」


 バスタブの中で、静かに湯をカルメンの肩へかける。広々とした浴室に、水音と泡が弾ける音が響く。


「一連の件が終わるまで待っててくれるか? その時は必ず今までの埋め合わせをするから……」

 そう言って名残惜しく、カルメンの小麦色の肌を後ろから抱き寄せた。

「へぇそう? 今度こそ期待してるわ」


 一時の別れは、それほど感傷的なものにならなかった。ノアは近いうちに必ずカルメンの元へ戻るつもりでいたが、彼女が待っていてくれるかは分からなかった。待っていなくても構わない。いつ死ぬか分からない男を待たせるのは酷だ。仮に彼女が手を離れて行ったとしても、その時は再び自分の手に取り戻すだけのことだ。

 バスルームから臨む夜景が二人の眼に煌めいていた。



———



 組織の軍事を担っているのはノアで、抗争の指揮は彼が取る。ノアはしばらく兵隊集めと武器の買い付けに勤しんだ。

 ロケットランチャーRPG-22や、携帯式対空ミサイル9K38を購入し、アジトにも配備した。元々所有している攻撃用ヘリコプターMi-24には、機関銃やロケットを装備した。こうした重装備はもちろん街中で放つためではなく、ボスを守るためのアジトの最終防衛用だ。


 立てた作戦は、ソコロフスカヤ支部のボスの首を取ること。まずは支部の頭を取ってから残党狩りを進める。敵の頭を取る重要な仕事は、部下のディーマに一任した。

 構成員ソルジャーを何人殺しても抗争は終わらず、敵も報復のためより過激に攻撃を仕掛けてくる。そうなれば一般市民にも被害が出かねない。民間人に手を出さないこと、民間人を巻き込まないことは、ルーベンノファミリーが何よりも重要視している掟だった。最小限の被害で一刻も早く抗争を終結させることを優先した。

 AXの調査は引き続きピョートルに任せた。AXの被害が新たに出るのを防ぐため、こちらも長引かせたくなかった。

 


 五月の風は時にまだ冷たく、時に春の穏やかさを運んでくる。その風に血の匂いが混じった。道路脇に積み上がる死体は少しずつ増えていった。国内のニュースでも、毎日のように抗争による殺人事件が報じられた。


 ノアは姿を隠しながら、現場を回る日々を送った。この日は繁華街を訪れ、久しぶりにアザットとナレクに会った。


「こんな状況だから、コバレンコの身辺調査は終了でいい。今までご苦労だった」

 彼らが集ういつものバーで、ウォッカを振る舞う。彼らにはあれ以来、最初の被害者コバレンコがAXで殺された状況を調べるため、聞き込みをさせていた。

「でも、結局誰がやったか分かんねえんだろ? モヤモヤしたままじゃ嫌だぜ。ナレクがやられっぱなしなんて、黙ってられねぇよ」

 アザットは納得のいかない顔をする。

「分からなかったというのも一つの結果だ。お前達には感謝してる」

 コバレンコが襲われたと思われる周辺では、結局犯人と思われる人影は見つからなかった。さすがに人目につかない場所で犯行に及んだのだろう。ただ、コバレンコが死ぬ前に、事務所や家の周りに不審な車が止まっていたという情報は得られた。暗殺を企てる前にターゲットの周辺を探るのは常識だ。企てた者もそうしていたのかもしれない。


「それより、アゼリー人グループとはいい加減仲直りしたんだろうな?」

 アザットに尋ねると、彼は言葉に詰まって目を逸らした。

「今は内輪で争ってる場合じゃないことくらい分かるだろ? お前達二人は特に、しばらく潜伏することを勧める」

「何でだよ?!」

「俺達もソコロフスカヤと戦うよ! あいつらが裏通りで爆弾を仕掛けやがったから一般人が死んだんだぞ!」


 数日前のことだ。この繁華街にTNT爆弾が仕掛けられ、民間人一人が巻き添えになった。とうとう民間人にまで被害が出てしまった。ノアはアザットとナレクを戦闘に参加させたくなかったが、彼らの戦いたい気持ちも分かる。


「今回の抗争は、俺達が例の毒薬を調べていることへの報復かもしれない。調査に関わっていたお前達二人は、標的になる可能性が高いんだ。それでも覚悟の上なら好きにしろ」

「おうよ!」


 二人の若者は血気盛んに答えた。



 アジトへ帰り、執務室に籠もってかき集めた情報を整理した。静かな夜の灯りの中では推理が捗る。これまでAXについていくつもの仮説を立ててきたが、もう一度机に向かって、頭の中にあるシナリオを紙に書き殴った。場合によってはその解決が、抗争の早期終結に繋がるかも知れなかった。


 —始めのAXでの攻撃では、弁護士のコバレンコ、キオスク販売員のシドレンコ、少年ギャングのナレクの順に暴露した。状況からして、直接狙われたのはコバレンコで間違いないはず。


 —コバレンコを暗殺する動機があるのは、これまでに訴訟を受けた企業や政府—特に訴訟が現在進行中だったり、過去に彼に敗訴した者達。BEC、キベルジア・ケミカル、ドゥニルペトロフスキー・パイプ・プラントといった企業。そして、キベルジア共和国最高議会議長、アジャルクシャン政府といった行政関係者。


 —最も疑わしいBECからは、AXの製造プラントを発見できなかった。まだどこかに巧妙に隠されているかもしれない。


 AXについて追えたのは、結局ここまでだ。その先に起きたことは無関係の別の事件だが、ノアはどうにかAXとの関連を探していた。


 —そんな中、BECの子会社アセスラボが、ソコロフスカヤに襲われる事件が起きた。同時期に、アセスラボと一緒にボシュツカ鉱山を調査していた環境監視局長も撃たれて重傷を負った。


 —初めは鉱山調査を妨害するためだと思った。だが、彼らの鉱山調査で不利益を被るのは自分達ルーベンノファミリーくらいで、第三者が調査を妨害する理由はない。


 —ソコロフスカヤから聞き出した話によれば、アセスラボと環境監視局への襲撃はある企業に依頼されたものだ。その企業の名前は分かっていない。


 —その後、ソコロフスカヤはルーベンノファミリーへ矛先を向けた。表向きの目的は縄張りを奪うためだが、なぜ”今”なんだ? 抗争を仕掛ければ双方に大きな被害が出ることは分かりきっていて、向こうにとっても望ましくないはずだ。


 ノアはクリーム色の髪を掻きむしった。ソコロフスカヤの動きには一見、整合性が見えない。


 —抗争を仕掛けてきたタイミングは、ファミリーがアセスラボを追っていることを知られた直後だ。


 —ソコロフスカヤの構成員を何人か尋問してもAXの情報は出てこなかったから、彼らはAXに直接関わっていないと考える。


 —仮に、ソコロフスカヤに俺達を襲わせた何者かαがいて、それがAXの首謀者だとする。そして、ソコロフスカヤにアセスラボを襲わせた企業をβとする。


 —αは何らかのきっかけで、俺達がAXを追っていることに気付いた。もしαがBECなら、俺達がアセスラボを調べていることは、鉱山で鉢合わせしたあの日に気付いたはずだ。それに限らず、俺達は積極的に街中で聞き込みもしていたのだから、何処で勘付かれてもおかしくない。


 —しかし引っ掛かるのはアセスラボを襲撃したβの存在だ。αとβは共にソコロフスカヤのバックにいて、同じタイミングで襲撃をかけてきたことから同一人物と考えたいところだ。


 —当初俺達が考えていたようにAXの首謀者αをBECだと仮定すると、BECがアセスラボを襲わせたことになってしまう。だが自分の子会社を襲うことはあり得ない。


 —もしα=βとするなら、αはBECではないということになる。仮にαとβが独立した異なる存在だとしても、BECが子会社アセスラボを襲撃したソコロフスカヤに仕事を依頼するはずがないから、やはりαもβもBECではない。しかしそうするとアセスラボは、AXと無関係ということになる。


 ペンを握りしめ、ごちゃごちゃと関係者の間に線を引いていく。どちらにせよ、このシナリオだとセミノヴィチとAXが繋がらない。


 —だが、ノビチョクの開発期間中に、ノビチョクを開発していた正にその場所で勤務していた科学者が、本当に無関係なのか? そんな偶然あり得るか?


 どうしてもこの両者の間に線が引けず、頭を抱える。


 —もう一つのシナリオは、やはりAXの黒幕がBECということ。この場合は、襲撃を仕掛けたαもβもAXとは関係なくなる。……それはそれで引っ掛かるんだよな。


 ノアはパソコンでこれまでに調べた資料を何度も見返し、集めた情報を思い返し、夜通し推論を練った。しかしどれもしっくり来ない。

 そしていつしか、机に突っ伏したまま眠り込んでいた。眠りに落ちながら理解したのは、自分達にはまだ決定的に情報が不足しているということだった。



 朝の光と、コーヒーの香りで目が覚める。顔を起こすと、執務室のソファに腰掛けて紙に目を落とすピョートルの姿があった。

 机の上には煎れたてのコーヒーが置かれ、ノアの背中にはブランケットが掛けられていた。

「おや、おはようございます、若頭」

 彼は眼鏡を持ち上げてノアに顔を向けた。彼が手にしているのは、ノアが昨晩紙に書き殴ったメモだった。

「ピョートルか。ありがとう」

 そう声をかけると、彼は目を細めて微笑んだ。その姿はやはりどこにでもいる優しい親戚の爺さんにしか見えない。


「今日は報告があって参りました」

 ピョートルは改まって机の前に歩み寄った。

「一昨日アセスラボの社屋へ侵入しましたが、ボシュツカ鉱山調査に関するデータは持ち去られている様子でした」

「うん、聞いた」


 襲撃事件以来、アセスラボの本社は無期限で閉鎖していて無人になっている。人がいないオフィスをそれほど厳重に警備する必要もなく、侵入するには返って好都合の状態になっていた。

 そんなアセスラボにピョートルを潜入させたのが一昨日。期待したデータはAXの情報と、ボシュツカ鉱山についての調査記録だったが、それが見つからなかったことは電話ですでに聞いていた。


「そのデータはセミノヴィチが持ち出している可能性が高いです」

「だがセミノヴィチは潜伏してるんだろ?」


 あの襲撃の後、彼が国外に潜伏するという噂が出ていたが、あれから自宅で姿を発見できなかったことからどうやら噂は確からしかった。


「セミノヴィチの潜伏先が分かりました。BECの本社があるスイスです。……彼には離婚した妻との間に、息子と孫がいるのはご存知ですね」

「ああ」

「息子家族はここキベルジアに住んでいます。その通信記録を入手したところ、スイスへの通信履歴が確認できました」

「やはり、本社に匿われていたか」


 ノアは手を組み、じっと俯いて考え込んだ。ピョートルのおかげでセミノヴィチの家族の居場所が分かり、セミノヴィチへの連絡手段を入手した。大きな一歩だ。


「やりますか?」

 顔を上げると、ピョートルの青い瞳が鋭い光を讃えながら、射抜くようにこちらを見つめている。

「……やろう」


 —卑怯な手段だ。だが俺達はマフィアだ。俺達には俺達の法がある。

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