第十五話 恋人の誕生日
カルメンは相変わらず明るく笑っているが—これは怒っていないのではなく、怒りを通り越して、呆れと諦めに達しているのだろう。
—完全に忘れてた……。
時計を見ると、午前一時。その日はもう過ぎている。誕生日にディナーの約束をして、ダニエルのレストランまで予約していたのだ。彼女はそこで待っていたに違いない。いくらノアが普通のデートに疎くても、これが最もやってはいけないことだということくらいは分かる。
唇を噛む。顔が青ざめ、血の気が引いていった。
「ごめん、カルメン。今日は仕事で本当に忙しかったんだ。今から行く」
『あら、何しに来るのかしら? もう誕生パーティーは終わったわよ。でもちゃんと素敵な人達とお祝いしたから、ご心配なく』
よく聞くと、カルメンの笑い声の後ろに数人の別の話し声も聞こえる。
「家か? 他に誰かいるのか?」
ノアは頭を掻きむしる。このままではカルメンを失うことになる。せっかく彼女を手に入れたのに、絶対に手放すことはしたくない。
「とにかく、今から行くから待ってろよ。一日過ぎたくらいなんだ。大して違わない」
考えている暇はない。ノアは車に飛び乗った。
アジトのある郊外から、州都の中心部まで猛スピードで向かう。彼女の家は高級住宅街の一角のペントハウスで、二、三度行ったことがある。
花屋を叩き起こして調達したブーケを手に、マンションのエレベーターを上がる。部屋の玄関扉はすでに開いていた。中からは数人の人の気配がする。
静かに足を踏み入れると、リビングに入った瞬間、
モダンな内装のリビングは壁一面がガラス張りになっており、見事な夜景が広がっていた。白い天井の四角い窪みから、間接照明とダウンライトが光を落としている。その下にはベージュの高級ソファセットが置かれているが、すでにパーティーの跡と思しき物が散乱している。
ソファには四人の男女がいたが、真っ先に目に入ったのは一番奥に腰掛ける、真紅のドレスに身を纏ったカルメンだった。ソファの背もたれに頬杖をついて、目は虚だった。ほとんど眠っているようだ。
それから手前に目を移すと、若い男が一人と女が二人、黙ってこちらに視線を向けている。一人の女は腕組みをして悪意のある目つきでジロジロとノアを見る。ノアはすでに彼らに不快感を感じていた。
ノアは大麻の包みが転がるテーブルの上に、乱暴にブーケを放り投げた。
「へぇ、あんたがクイーンのバースデーをすっぽかした最低彼氏かぁ」
女が冷たく笑う。
「彼女、泣いてたわよ」
女達は嘲るような笑みを浮かべて口々に嫌味を言い、まるで楽しんでいるかのようだ。着いたら真っ先に謝罪しようと思っていた気持ちは何処かへ消えた。
「出て行け」
よくもこんな物を持ち込んでくれたな、という思いも相まって、ノアは部屋の者達を睨みながら、大麻の入れ物を投げるように渡した。友人らしき人々は、不快感を顔に露わにした。
「はあ? 今頃来た分際で何言ってんの」
「あんたが彼女を傷付けたから、あたし達が慰めてたのよ?」
「そもそもオメーの家じゃねーだろ」
真ん中に座っている男が、咥えた葉巻からこれみよがしに白い煙を吐き出す。目の前が真っ白な雲に覆われた。
「いいから出て行け」
頭に血が昇り、思わずテーブルを足で蹴飛ばす。テーブルは横倒しになり、上に乗っていた皿や大麻の容器が音を立てて飛び交った。女達は悲鳴を上げて立ち上がった。
「オメーは彼女のために何かしてあげたのかよ? どのツラ下げて来たんだよ? オメーが消えろよ」
立ち上がった男はおもむろに顔を近づけ、ガンを飛ばす。
ノアは男の胸ぐらを掴んで、床に投げ飛ばした。ドスンと尻餅をついた男の形相が怒りに変わり、頭から湯気が吹き出した。
「テメェ!」
彼は立ち上がって拳を振り上げた。
その拳が届く前に、右ストレートが男の頬を直撃する。男は吹っ飛んで床に転がった。
「きゃあ!」
二人の女は悲鳴を上げて顔を手で覆った。
ノアは床に転がる男を見て冷静さを取り戻し、気まずく思った。彼は頬を抑えて呻き声をあげている。
壁際に立っている女に視線を移す。女達は目が合うと怯えたようにビクリと硬直し、すぐに男の元へ駆け寄った。男を助け起こし、全員が逃げるように慌ただしく立ち去った。
静けさを取り戻したリビングで、ノアはしばらく立ち尽くしていた。怒りで一瞬のうちに息が上がっていたが、呼吸を整え、改めてカルメンの方を見る。
彼女はソファに寄りかかり、目を閉じていた。「ん〜?」と何か言っているように聞こえたが、ほとんど寝言のようだ。近づいてみるが、ノアがいることに気付いているのかすら分からない。彼女の前髪をよけ、顔を撫でた。酒と大麻をずいぶん楽しんだと見え、化粧はすっかり崩れているが、それでもやはり美しかった。
カルメンを抱き上げて隣の寝室へ運び、クイーンサイズのベッドの上に降ろす。
真っ暗な寝室で眠る彼女を見下ろしながら、今日の日を悔やんだ。大切な日の約束を最悪の形で裏切ったあげく、彼女の友達まで殴ってしまった。自分が悪いことは分かっているのに。
リビングで後始末をしようと立ち上がろうとした時、腕が首に絡み付いてきた。カルメンは寝ぼけた様子でノアの首に抱きつく。
「ノア……好きよ」
寝言のように囁く。
「俺もだ」
そう言って、カルメンの体を抱き締めた。
スマホのバイブ音が聞こえ、目蓋を半分開けて手を伸ばした。寝室の壁一面ガラス張りの窓からは、明るい太陽の光が差し込んでいる。太陽はすでに高い位置に昇っていた。
まだ頭も半分寝ている中、取りあえず電話に出た。
『おはようございます、ボス』
部下の声がした。
「ディーマか」
『はい。実は耳に入れたいことが』
彼の声色には焦燥が見えた。
「なんだ」
『メルニチュクが撃たれました』
そのニュースで途端に目が覚め、ベッドから体を起こした。真っ白な壁が目に入る。ノアはまだカルメンの家にいた。
「で、どうなった?」
『今朝自宅から出勤する途中を狙われたようで、二発撃たれて病院に運ばれました。一命は取り止めたようです』
「襲った奴は言うまでもないな」
『はい。報道では触れられていませんが』
セミノヴィチとメルニチュクが乗った車がソコロフスカヤ・ブラトヴァに襲われたのが昨日。大方昨日失敗したから、今日急いで勝負に出たのだろう。しかし、セミノヴィチだけでなく環境監視局長のメルニチュクもターゲットに入っていたとは。
『アセスラボ関係者が連続で襲撃を受けていることもあって、しばらくオフィスは閉鎖されそうです。セミノヴィチも身を隠す気配があります』
そうなると、アセスラボ社への侵入計画が変わってくる。計画を立てた時点では、自分達以外の勢力がここまで渦中に加わってくるとは想定していなかった。
「計画は練り直さなくてはならないが……大丈夫だ。俺は今から戻る。アジトで会おう」
電話を切った時にはすっかり頭は冴え、アセスラボ社と環境監視局の件へと切り替わっていた。
「もう行くのね?」
声がして脇を見ると、すでに目覚めていたらしいカルメンがこちらを見上げている。
「ああ。……昨日は本当に、すまなかった」
弱々しくそう呟くと、カルメンは諦めが入り混じった微笑を浮かべる。
「ダニエルが言ってたわ。貴方は仕事が第一の人だから、許してあげてって」
彼女が自分を責めずにいてくれることに感謝し、心から良い女だと思った。
「今の仕事が片付いたら、必ずもっと時間を作る。少しだけ待っててくれ」
ノアは彼女にキスして、家を後にした。
アジトへ帰ると早速ピョートル、ディーマと共に執務室で会議に入る。主な争点は、メルニチュクがマフィアの標的となった理由と、アセスラボ社への侵入計画についてだった。
アセスラボ本社への威嚇攻撃、昨日の鉱山調査帰りの襲撃、そして今日のメルニチュク暗殺未遂。全てが一週間以内に起きていることからして、一連の事件が関連している可能性が高い。元よりターゲットは、セミノヴィチとメルニチュクの両方だったのだ。
「アセスラボだけじゃなくメルニチュクまで狙う理由はなんだ」
「今のところ調べた結果では、ソコロフスカヤとアセスラボ社との間に直接利害関係はないはずです。ですから今は、ソコロフスカヤと環境監視局の関係を調べています」
ソコロフスカヤ・ブラトヴァはロシアンマフィア。アジャルクシャンにも支部があるが、母体はロシアである。
ロシアンマフィアと環境監視局の間にどんな利害の対立があるのか、今の時点では想像が付かない。何処かの政府機関の依頼ということもあり得る。
「誰かが権益を握ろうとしている資源か何かがあって、環境監視局の存在が邪魔になっているとか?」
「分かりません。ただ、環境監視局は政府機関の中でもあまり権力が強くありません。メルニチュクも上級官僚ではありますが、政府内での発言権で言うと下の方でしょう」
途上国では兎角、開発が優先され環境保護は後回しにされがちだ。この国にもその傾向はある。つまり、多くの組織にとって環境監視局はそれほど障害になる存在ではない。
「そうなるとソコロフスカヤの目的は、あの両者が共同でやっている鉱山調査の妨害かもしれないな。最初の威嚇攻撃は、調査を中止しろというメッセージ。それでも中止しなかったから、実力行使に出た—という筋書きはどうだ?」
ノアの主張にピョートルは頷いた。
「しかし、俺達以外にもあの調査で不利益を被る連中がいるのか?」
「今のところ思いつきませんね」
この問いの答えは議論の振り出しに戻る。調査を進めなくては、結論は出ない。その調査はピョートルとディーマに委ねることにして、ノアはアセスラボ社侵入の計画へと議題を進めた。
連続する襲撃を警戒して、セミノヴィチの自宅とアセスラボ社周辺には、今日から警官が常時配備されるようになった。これで侵入計画を見直す必要が出てきた。
「セミノヴィチは今も自宅にいるか?」
ピョートルに尋ねる。
「警察の目が厳しくて長時間の張り込みができませんが、あれから姿を見かけていません。家族を連れて国外に出たという情報もあります。ですが警備は永遠に続きませんし、セミノヴィチも永遠には隠れていないはずです。チャンスは必ず訪れます」
そう、焦る必要はない。獲物が目の前にいるのなら、網にかかるのを辛抱強く待てばいい。
「こちらが捕える前にセミノヴィチを殺されては困る。仮にもう一度彼がソコロフスカヤに狙われたら、悟られないように妨害できるか?」
「お安い御用です、若頭」
彼らには彼らの思惑があるし、何処かの依頼を受けてセミノヴィチ達を狙っているのかもしれないが、ルーベンノファミリーにも彼らを殺させたくない事情がある。ファミリーが妨害行為を行えば、反撃に出るだろう。今抗争に突入するのは限りなく避けたく、悟られないことが最善だ。
ピョートルはその要望を快く引き受けた。
アセスラボ社周辺にいる利害関係者の存在が浮かび上がりつつあるが、果たして本当に彼らを追っていけばAXの真相に辿り着けるのだろうか。そんな一抹の不安が頭を過ぎる。
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