第十六話 彼女の情事
石造りの建物が立ち並ぶ、ヨーロッパらしい住宅街。ショーウィンドウが並ぶ広い舗道は、週末らしくよそ行きの格好をした人々が歩いている。昼間の陽光が注ぐ中、ツバ付きの帽子とサングラスで顔を覆ったマリア=カルメンは、一人水色のキャデラックに乗り込んだ。
先日の誕生パーティーの終盤のことは、彼が来て友人達と何か話していたこと以外あまり覚えていない。ただ、あの日居合わせた仲の良い友人達から彼はすこぶる不評だった。
『あんな暴力男といても絶対貴方に良いことない。すぐに離れたほうがいいよ』
『どーせ顔だけの男でしょ。適当に遊んで捨てちゃえば?』
ノアがマフィアのアンダーボスだと知らない友人達はそう言った。ダニエルだけは、彼を庇っていた。
『彼は決して君を大切に思っていないわけじゃないんだ。ただ、仕事に夢中になると他のことがすっかり頭から抜けてしまうんだよ』
彼はルーベンノファミリーの実力者で、次のボスの座は保証されたようなもの。一緒にいれば自身のビジネスにも有利だし、彼の後ろ盾があることは、他のビジネス関係者への牽制にもなる。ついでにルックスも良く、並んでいても釣り合う。パートナーとして申し分ない相手だ。
そんな打算もあって付き合い始めたが、カルメンはノアが好きだった。ビジネスを有利に運ぶために一緒になったのは、向こうも同じだろう。それでも、彼を深く知るほど愛情は増していった。からかえばはにかむ所も、クールに見えて本当は情感豊かなところも、好きだった。
ターミナル駅の付近にある、高級サービスアパートメントの地下駐車場に車を置き、降りた。カツカツとハイヒールの音が鳴り響く。ここへ来たのは、ある人がこの町へ来ていると聞いたからだ。
暗証番号を入力してエントランスを潜り、コンシェルジュが常駐する受付を通り過ぎてエレベーターへ入る。
まるでホテルのような仕様の廊下は絨毯が敷かれ、花瓶が飾られている。
インターホンを鳴らすと何も言わずともロックが解除され、よく見知ったその部屋へ入った。リビングの書斎机に向かって腰掛けているのは、灰色のスリーピーススーツを着た男だった。彫りの深い顔には年季の入ったシワが刻まれているが、元は整っているであろう粋な渋味がある。
彼はボリス。カルメンとの付き合いは十年になる。愛人としてカルメンに収入をもたらしただけでなく、彼女の才能を見抜いて様々な人脈を紹介し、彼女がこの仲介業を始めるきっかけを作った男でもある。
彼女が完全に自立し、自らの足でこの世界を渡り歩けるようになった今、もうボリスに会う必要はない。それでも何故か、人恋しくなったときにここを訪れてしまう。カルメンにとっては恩人であり、情愛の念も抱いていた。
彼は普段首都の自宅で家族と暮らしているが、時折仕事の用で町へ来る時など、セカンドハウスとして借りているこのサービスアパートメントに滞在している。
「最近中々私のところを訪れないと思ったが、久しいな」
「元気そうで何よりよ、ボリス。たまには貴方の顔を見ておかないとね。あたし無しでやって行けてるのか心配だから」
「ハハハ、言うようになったな。私がいなければ何も出来なかった癖に」
カルメンは微笑むと、上着をソファの背に掛け、帽子とサングラスを取った。
「最近いい男がいるんだってな」
ボリスが煙草を蒸しながら言う。
「どうせ黒い世界の人間なんだろ?」
「耳が早いわね。ええそうよ。まさか今更ヤキモチなんて口じゃないでしょ?」
カルメンは人差し指で悪戯にボリスを小突いた。
「お前が楽しんでいるなら何よりだ。だがな、その男は私ほどお前を満足させているのか?」
「もちろんよ。あたしの男だもの」
カルメンは胸元の開いたワンピースの肩紐を外し、下へすとんと落とした。下着を付けていない豊満な胸が顕になる。
「嘘を言うな。そいつがお前を満足させていないからここへ来たんだろ? 顔に書いてあるぞ」
ボリスはそう言って笑った。カルメンは答える代わりに口角を持ち上げ、ガーターベルトからストッキングを外して脱いだ。
そうして一糸纏わぬ姿になって、ベッドへ潜り込んだ。ボリスもその後を追う。カルメンの両脚の間に顔を埋め、特別に敏感な部分を舌で味わう。優しく丁寧に。あっという間に快感は最高潮に達した。
「たとえばお前の男はこんな風にしてくれるのか?」
「……ふふっ、これから教育すればいいだけ」
カルメンは荒く息をしながら言った。その後も彼は、すでに知り尽くした彼女が喜ぶあらゆる場所を、普段より念入りに尽くした。カルメンは遠慮のない甘い叫び声を上げた。ボリスは彼女の体を、繊細な宝石を扱うかのように丁寧に愛でる。彼が与えてくれる快感は、誰にも代えがたい。
情事を終えたあと、ベッドの上でぼんやりと煙草を吸う。ノアは煙草も
ふと、ノアが追っていると言う、違法な兵器を製造する組織の話を思い出した。彼は、今の仕事が片付けばもっと自分との時間を作るとも言っていた。彼の仕事の助けになりたい気持ちはあったし、仕事が早く片付けば今より一緒にいられるという期待も相まって、カルメンは隣にいるボリスに尋ねた。
「ねえ、三塩化リンて物質を知ってる?」
唐突な質問にボリスは目を丸くしたが、すぐに返答した。
「ああ……医薬品や農薬に使われる材料だな。そんな言葉がお前の口から出るなんて意外だな」
「あたしはそういうの、よく分からなくってね。貴方なら詳しいと思ったの。その物質を不当に入手している組織を知らないかしら?」
ボリスは大企業のCEOだ。彼なら物質についても、業界についても詳しいはず
だった。
「使っている会社は我が社も含めてたくさんあるぞ」
「購入用途を偽ってるとか、用途不明とか、そういう組織や会社がないかしら。業界の中で噂を聞いたとか」
「ふむ……さてはお前の男がそれを調べているのか?」
ボリスは顎に手を当てて上を見上げた。カルメンは言い当てられてドキリとした。
「その情報だけでは当てはまる会社はたくさんある。他には何か言っていたか?」
「ええと、アセトニトリルとも言っていたわ」
「……お前の男は、確かルーベンノファミリーの者だったな」
そこまで知られているらしいが無理もない。ノアの権力の傘を得るためには、隠していては意味がない。だからあえて関係をオープンにしていた。
「大丈夫だ。私が何とかする」
それは、何に対しての”大丈夫”なのだろう。カルメンですらそれ以上の情報は聞いておらず、目的も探している組織のことも知らない。だが、きっとボリスもその情報を探してくれるということだと理解した。
「小遣いだ」
ボリスはルーブル札の束をカルメンに差し出した。
「いらないわ。もうあたし、十分一人でやっていけるの」
「私に意地を張るんじゃない。私にとってお前は何も変わらない、美しい女王だ。だからこれは、私の我が儘なんだ」
彼は札を手渡す代わりに、カルメンの財布に札をねじ込んだ。
「困ったことがあったら、いつでも言いなさい。私はいつでもここにいる。いつでも戻って来ればいい」
ボリスの彫りの深い目で真っ直ぐ見つめられると、とても安心した。自然と笑みが溢れる。男を意のままに手玉にとってきたカルメンだったが、思えばボリスだけは違った。
この世界で生きるために、舐められまいと必死で強い自分を演じてきた。スペイン生まれのジプシーである自分に対するステレオタイプが嫌で、大人のエレガントな振る舞いを身に付けた。肩肘張った生活に疲れても、ボリスに会うとただの小娘に戻れる気がした。
カルメンはその言葉に甘えるように、頭を傾けて彼の肩に乗せた。
———
メルニチュク環境監視局長が銃撃を受けたことは、政府関係者だけあって大きなニュースになった。ノアとヤコフは、リビングのテレビで次々と伝えられる朝のニュースを見ていた。
『一命を取り留めたメルニチュク氏は、今も集中治療室で治療が続けられています。現場では走り去る車を見たとの目撃証言がありますが、犯人は捕まっていません。ギャンググループの犯行との情報も上がっています』
ノアはニュースを聞きながら新聞に目を落とした。週明け早速、この事件に関して、BEC社のバッチャンCOOが声明を発表したことが小さく書かれていた。大きな事件だけあって、関係者として沈黙を貫くわけにはいかなかったのだろう。
『メルニチュク氏とBECは、共にアジャルクシャンの環境と人々の未来のために協力し合ってきました。彼女は素晴らしい人格者です。私たちはこの凶行を決して許しません。私たちはこれからも変わらず、無法者の脅しには屈せず、良心に基づき人々の健康のために尽くしていくことを約束します。—BECを代表して—ラクシュミー・バッチャン』
以前のCEOなら、このような声明を対外的に発信することもなかったように思う。少し調べた限り、バッチャンは過去に数々の企業でCEOとして雇われ、経営再建してきた実績を持つプロ経営者だ。彼の方がよほど社長然としており、世間では彼が社長だと思っている人も少なくない。
—やはり、バッチャンが来てBECは変わってしまったのか……?
「これさあ、下手すると俺らが疑われてるぜ?」
ヤコフが両手を頭の後ろで組みながら言う。
「”脅しには屈せず”って、俺らのことじゃないの? 動機がありそうなのも、鉱山調査の一件がある俺たちくらいだし」
「かもな」
「面倒な奴ら」
ヤコフは血が騒ぐのか、どこか嬉しそうだ。
「心配するな。BECがAXの黒幕なら、この機会にBECごと潰す」
「おっ頼もしい!」
そう言いつつも、もどかしかった。彼らに近付けば近づくほど、AXから遠ざかっている感覚が強くなっている。黒幕がBECと決め付けるのは危険だ。結局疑わしいプラントもまだ見つかっていないのだから。
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