第十話 第二の被害者
調査の進展を待つ間、ノアは通常の業務に戻っていた。ここ数日、プライベートには変化が現れた。カルメンに会うようになったことだ。
食事の場所はカジノオーナー、ダニエルが所有するホテルに併設されたレストランを選んだ。人目に触れる場所を避けて生きて来たノアだが、見知ったダニエルのリゾートなら比較的安心できた。
カルメンは全く人目を臆する様子はなく、堂々とノアとの食事を楽しみ、カジノで遊び、手を繋いで歩いた。社交的で目立つカルメンとこうして一緒にいれば、二人の関係を知る人が増えるのは時間の問題だった。
本来ノアはそうした状況を好ましいと思わない。顔が広い彼女を通じて、自分の存在も明るみになってしまうからだ。今まで関係を持った相手とも、基本的には人目を避けて会っていた。誰かと外でデートをするなんて、これまでの人生の中では異例中の異例だ。しかし不思議とカルメンとなら、人前で一緒に過ごすことも気にならない。彼女が同類だと分かっているからだろうか。
「そうだ、あたし来月誕生日よ」
フレンチのコースを頂きながらカルメンが言う。
「幾つになるんだ?」
「30歳」
やはり自分より二、三歳年上なのだな、と思った。ノアは書類上の年齢はともかく、自分の実年齢を普段意識しないのではっきりと思い出せない。
「そうか。節目の歳だな。ならお祝いしないと」
「本当? 4月23日なんだけど、一緒に祝ってくれる?」
「ああ」
カルメンは嬉しそうに頬を紅潮させた。
「パーティーを開くつもりなの。貴方がお祝いしてくれたら何よりも嬉しいわ。期待してる!」
偽造ではない自分の本当の誕生日はもはや思い出せないし、組織の者達もお互いの誕生日を意識したり祝ったりしない。マフィアが律儀にお誕生会を開いていたらそれはそれで面白いが。
だが世間一般では誕生日を祝うものだということは理解していた。一緒に過ごすと言った時のカルメンの笑顔は、いつになく自然で心から嬉しそうだったので、やはりこの回答が正解だったと安心する。加えて、恋人が喜んでいる顔を見ると自分も嬉しいのだな、というのは新たな発見だった。ノアにとっては新鮮な感覚だった。
その後、話題は仕事のことへ移った。
「ノア、危険な目には遭ってない?」
「いいや、平気だ」
淡白に答える。
「貴方の仕事は抗争が多いんでしょう?」
「今は国内の動きが落ち着いてる。特に俺達の縄張りのキベルジアはな。問題は海外勢力だ。奴らが国内に拠点を広げつつある」
そう答えながら、縄張り争いのことに意識が移る。組織同士の対立の原因は、大抵縄張り争いにある。アジャルクシャン国内の組織は長年の抗争を経て住み分けが確立され、それなりに安定した。しかし海外勢力との緊張は常に続いている。今も抗争中の黄龍会や、これまで抗争と停戦を繰り返してきたソコロフスカヤ・ブラトヴァなどの組織だ。敵の頭を取りたくて素性を探らせているところだが、中々尻尾を掴めない。
ノアは食事の手を止め、眉間を寄せた。その様子を見たカルメンは苦笑した。
「ごめんなさい、あたしが仕事の話なんて振ったからね。今は忘れて食事を楽しんで」
その言葉で我に返り、また手を動かす。
敵対勢力の掃討に専念するためにも、早くAXの一件を解決しなくてはならなかった。そう言えば、顔が広くて裏事情に通じているカルメンなら、おかしな動きをしている組織を知っているかも知れない。AXの情報を得られるのではないかと考えた。
「お前は国内外のマフィアとも親交があるんだったな」
「ええ」
「ここ最近、三塩化リンを大量に仕入れた組織を知っていたら教えてくれないか?」
「それがどうしたの?」
「偽装した工場で違法な物を生産している組織がいる。それがマフィアかテロ組織か、何処かの国の諜報機関かはまだ分からない—が、それが俺達の今の標的だ」
カルメンにも、AXのことを話すのは避けた。以前の会話で彼女が無関係と分かっていたし、組織がAXを追っていることを外部に知られないため、できるだけ秘匿する必要があった。
「今のところ心当たりはないけど、分かったわ」
———
アルム・ボリィの少年達から連絡を受けたのは、三月の終わり頃だった。ついにナレクと接触した女性を突き止めたと言う。これでようやく、有力な手掛かりへの足場が出来た。
ノアはアザットとナレクを、市内にある組織の拠点の一つへ呼び出した。街中にある古いアパートの一室が、密売する麻薬などを一時保管する倉庫となっている。そこにピョートル、ディーマを連れて向かう。
「タチアナ・シドレンコ。56歳。駅前のキオスクで働いていた女性ですね」
ピョートルが、あらかじめ少年の情報を元にプロファイリング調査をした結果を読み上げる。アザットとナレクは頷いた。ピョートルは収集した女性の写真を見せた。
「そう、この人だった」
ナレクが写真を見て言う。
「その人、俺と会ったその日に死んじまったんだって」
その声が暗く沈んだ。ノアもピョートルも、その女がすでに死亡しているであろうことは調べる前から察しがついていたが、少年達は少なからずショックを受けているようだった。
「俺があの時救急車呼んでりゃ……。一人で帰したりしなきゃ助かったかも知れないのに……」
「それはないな。この”病気”は治らない。どちらにしても助からなかった」
ノアが言うとナレクは口をぎゅっと結んだ。
ナレクと接触していたキオスクの売り子、タチアナが同日に死んでいたことは、プロファイリング調査の段階で分かっていた。そのことを知ったノアは、AXに近付く可能性が大きく高まったことにむしろ期待が高まっていた。
—彼らがAXに接触した可能性は80%てとこか。
接触した二人が、同じ日に一人は原因不明の昏睡状態に陥り、もう一人は心不全で死亡。直前にはどちらも頭痛やめまい、吐き気を覚えていた。偶然とは考えにくい。タチアナが最初にAXに暴露し、それを介抱したナレクがタチアナから二次被害を受けたと考えれば、時間的にも辻褄が合う。
そこまで分かれば、次に調べることは彼女が誰に襲われたのか、だ。ナレクとタチアナが会ったのは20時から21時の間。ということは、AXの攻撃を受けたのはその二、三時間前以内ということになる—暴露してから死に至るまでの時間をあくまで二、三時間と仮定した場合の話だが。
駅前の売店で働いていた彼女は、他人と接触する機会が多くあったはずだ。客の振りをして訪れた誰かが、本人が気付かないよう攻撃を仕掛けることも可能だろう。
ノアは少年達に向かって次の要求を出した。
「彼女が死んだ2月15日の17時から19時頃の間に、その売店の周りに不審人物がいなかったかを調べてほしい」
「不審人物……? その人は病気で死んだんだよな?」
どういうことだ、とアザットが怪訝な表情でノアを睨んだ。彼ら少年達をここまで関わらせた以上、誤魔化すのも限界がありそうだ。
「実は、新型の毒薬かも知れないんだ。その毒薬は液体状で、皮膚に接触するだけで症状が出る。その女が何者かに攻撃されて、ナレクと接触したことでナレクにも毒が移ったと俺達は考えている」
「マジかよ……」
想定外の事実を告げられ、絶句する少年達。
「このことは他言するな。それを調べていることが第三者に分かれば、お前達の身も危険だ」
「ああ、言わねえよ」
ノアは少年達に、毒薬を売ってきた売人の写真も含め、不審人物についての情報を送った。
「不審人物を調べるとき、特にこの顔の男がいたかどうかも聞いてくれ。もしその日こいつが近くにいれば、決定的な決め手になる」
「分かった」
指示を明確にし、再び少年達は意欲的になった。
ノアの予想では、売人が自らAXを使用したか否かどちらにせよ、彼は誰かがAXの攻撃を受ける一部始終を見ていたはずだ。タチアナが第一の被害者なら、攻撃の瞬間、売人は必ず側にいたに違いない。ターゲットが死ぬかどうかは、後日新聞などでも確認できる。
現場の調査はアザットとナレクに任せ、アパートの一室を後にした。
ノアは残る大きな疑問を調べる必要があった。なぜタチアナが殺されなくてはならなかったのかだ。プロファイリングの結果ではそれが見えなかった。過去の経歴を洗っても、代々キベルジア共和国で暮らす普通の家庭に生まれ、結婚し、子供を設け、その子供も独立して今は一人で暮らしていた。あの売店でも長年働いていたようだ。
わざわざノビチョクでの暗殺という手段を用いて、恐怖を誇示するかのように殺さなくてはならない人物だったのだろうか。とてもそうは思えない。
だが、表面上は一般人に見えているだけで、実は他国のスパイとか亡命者だったという可能性もある。あるいは証人保護プログラムを受けている元潜入捜査官とか、犯罪組織のメンバーかも知れない。
ノアとピョートルはその後しばらく、タチアナ・シドレンコの素性を暴くことに専念した。しかし、ノアの予想に反して調査は暗礁に乗り上げた。
一週間後のある日、アジトの邸宅にある執務室を、ピョートルが訪れた。二人目の被害者、タチアナ・シドレンコについて話をするためだ。
「……何も出なかったな」
「そうですね」
「アザット達の話では、その日キオスク周辺で売人の姿を見かけた者もいなかったそうだ。その他に、香水瓶を持った不審者の姿もな」
組織が持つあらゆる情報網を駆使して裏を洗ったが、タチアナの素性には裏が見つからなかった。それどころか彼女は犯罪歴もなく、目立つような活動もしたことがなく、人から恨みを買うとは思えない。
「彼女は本当に一般人で、無差別に狙われたということか?」
「これが国家機関なら、見せしめとして裏切り者の処刑に使うのにもってこいの毒薬でわざわざ一般人を殺害するとは考えにくいのですが……。いかんせん首謀者は分かりませんから、効果を試すために無差別に狙ったのかも知れませんねぇ」
そうなると、そこから首謀者を辿るのは相当困難だ。被害者と首謀者の間に何の繋がりもないのだから。
調査が行き詰まったことを悟り、ノアは腕組みをして歯を噛み締めた。しばらく沈黙が流れる。
「……本当に彼女が最初の被害者か? その前に別の一次被害者がいて、彼女もまた二次被害者だったってことは」
「ふむ……ノビチョクの毒性の強さを考えれば、あり得なくないかも知れませんね」
「その線で調べるぞ」
タチアナの前にもう一人、第三の被害者がいるとしたら、その人物はより大量のAXに暴露しているはずだから、確実に同日に死んでいる。
ノアは行き詰まっていた気持ちを切り替え、ピョートルに指示した。
「お前がすでに絞り込んだキベルジア共和国の死者、その中から2月15日に死亡した人間に絞れ。特に、そいつの生活動線上にあのキオスクがあって、2月15日17時から20時の間に利用した可能性がある者を絞り込めればなお良い」
「はい、若頭。そこまで絞り込めれば、洗い出すのは時間の問題ですよ」
タチアナもまた、直接狙われたのではないという予感がした。調べれば調べるほど、彼女が普通の人間だったからだ。
もし自分が何らかの形でAXの開発に成功したら—と考える。労力と資金を投じて開発した新製品だからこそ、暗殺する理由が明確にある人間に試したいと思うだろう。もっとも、見えない首謀者の考えなど、今は知る由もないのだが。
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