第九話 第一の被害者
その後、周囲に不審人物がいないか注意をしつつ真っ直ぐ空港へ向かった。観光などする間もなく、カルメンとは別の便を使って日帰りでアジャルクシャンへ戻る。アムステルダムのスキポール空港からアジャルクシャン首都のノリフ国際空港へ、そして国内線を乗り継いでアジトのあるキベルジア共和国へ。
アジトへ戻って即ピョートルに会い、今日の出来事を伝えカルメンが撮った写真を転送した。
彼は老眼鏡をかけてスマホを顔から離し、興味深そうに眺めた。
「ほう……そうですか。さすがは若頭ですね。顔の特徴がアメリカ人風なのでCIAあたりでしょうか」
「写真を撮られただけ、だと思う」
「国境を超えた組織の取引は監視されていますからねぇ。ですが彼らは情報を追っているだけ。彼らに利害関係はありませんから、何もしてきませんよ」
「そうだな」
情報を探るのがスパイの仕事だ。今回は輸送用ヘリの取引のみ。彼らの国に不利益が起きない限り行動を起こしてくることはないから、放っておいても問題はないはずだ。とはいえ、監視されていると思うと気味が悪い。当然この国の何処かにも、各国からの諜報員が潜んでいるはずだ。
ともかく、今それよりも圧倒的に気掛かりなのはAXのことだ。今日ピョートルに会ったのも、AX調査についての進捗を聞くためだった。ノアは回答を急かした。
ピョートルは厳しい顔で答える。
「ええ、諜報チームが進めていますよ。それから、軍と警察にいる情報提供者からも情報を得ています。最近工場のようなものを建設した組織がないかどうか。そして、その材料や前駆体になり得る物質—つまりアセトニトリルや三塩化リンを大量に購入していないか。最も三塩化リンは購入せずとも工場で合成することも可能ですが」
畳み掛けられる専門用語に、さすがに頭を抱える。知る限りの知識では、ノビチョクはバイナリ兵器であり、前駆体と呼ばれる二種類の異なる物質を混合させることで生成できる。前駆体はより毒性が少ないため、別々に持ち運び、使用直前に混合することで使用者の安全を確保できる。
もっとも、ノアが入手した香水瓶に入ったノビチョクは、すでに混合済みの物であった。
「……少し整理させてくれ。前駆体の生成材料が、アセトニトリルや三塩化リンという物なんだな?」
「その通りです。アセトニトリルは有機合成の溶媒として広く使われていますので、誰が購入してもおかしくありません。しかし三塩化リンは、合法ではありますが化学兵器禁止条約で規制されていて、その化合物は殺虫剤などに使われます。ちなみにオウム真理教は数十トンの三塩化リンを購入したことがありますよ」
「つまり、突然大量の三塩化リンを購入していれば容疑者候補になるということか」
「はい」
その情報を頭に叩き込んだ。ノビチョクの生成方法について専門的な知識は全くないため、後で文献を読んで学んでおく必要がありそうだ。
「で、それらしい動きをしている組織はあったのか?」
「いいえ。国内外の軍事組織や反政府組織、テロ組織を対象に調べていますが、まだ……」
ピョートルは首を振った。
「だろうな。そう簡単に尻尾を掴めたら逆に驚きだ。……ふん、そうすると犠牲者を調べた方が早いか……」
ノアは顎に手を当てて考えた。しかしピョートルは更に難しい顔で首を振った。
「アジャルクシャン全体で過去三ヶ月の死者は約7万人です。ノビチョクの死因は心不全や老衰、その他の持病と診断される可能性が高いので、事故や病気など死因が確実な人間を除きます。それでもまだ2万人います」
ピョートルはパソコンを操作し、データベースを見せた。
「組織の人海戦術で、この2万人をしらみ潰しに当たるしかありません」
気の遠くなるような話だが、致し方ない。調査というものは結局、人海戦術を使った草の根活動に頼ることになる。
「だが、せめてもう少し絞り込めないか。例えば一ヶ月以内とか。あの売人が持っていたノビチョクが混合済みの物だということを踏まえると、混合済みの状態でどれくらい毒性が保たれるか分からないし、そう長く保管しておきたいとは考えにくい」
もしノアがAXを手に入れて売る必要に迫られたなら、混合した後はすぐに手放したいと考える。もっとも売人がその毒物についてあまり知識がなかったことを思えば、そこまで考えが回っていない可能性もある。それに、売人が自分で混合したのか、混合された状態で手に入れたのかも分からないが。
ピョートルは言う通りにデータベースを操作する。死亡時期を一ヶ月以内に設定し、7千人ほどに絞られた。
「あとはそうだな。プロファイリングの結果を見た時、奴の行動範囲はほとんどキベルジア共和国内だった。自分の生活圏の中で犯行に及んだと考えた方が、確率的には高そうだ」
再びデータベースで、地域をキベルジア共和国内に絞る。これで絞り込まれた人数は2千人ほどになった。
「2万人よりはマシだろう。こいつらを優先して調べてくれ」
「ええ。それでも、我々の調査を勘づかれないために一人一人時期をずらして調べますので、相応の時間がかかることを覚悟してくださいね」
そうか、とノアは再び考え込んだ。手掛かりが何もない以上仕方がないのだが、本当に何もないのだろうか。頭の中を探索していると、不意に閃きが降りてきた。
—なんで今まで忘れてたんだ!
先日、突然倒れて昏睡状態になった若者がいる。アルコール中毒もオーバードースも心当たりがなく、別の理由があるのではないかと相談してきた若者がいたではないか。倒れた若者にはバーへ入店してからの一時間以上、誰も近付いていない。しかし、暴露してから効果が現れるまでタイムラグのあるノビチョクなら、入店前にどこかで暴露していたということもあり得る。
「ピョートル、もしかすると俺は心当たりがあるかも知れない。個別にそいつを当たってみる」
「ほう」
彼の眼鏡がキラリと光った。
「そいつが関係してる可能性は10%ってところかな。無関係かも知れない。だからお前はそのまま2千人の方を調べといてくれ」
「分かりました。でも気を付けてくださいね。誰か部下を伴うように」
「ああ、ディーマでも連れて行くよ」
ディーマは諜報部門の部下の一人で、それなりのベテランだ。序列で言えばピョートルの下にあたる。
翌日、ノアは州都の繁華街を訪れた。カルメンに初めて会ったのと同じ日に、アルメニア系の少年アザットに出会った。あれから一ヶ月は経っているが、彼ら少年に変わりはあったのだろうか。
彼らが活動していそうな深夜頃を狙って、アザットの友人ナレクが倒れたという地下のバーへ赴く。
階段を降りると、以前訪れた時と変わりなく殺風景なテーブルや椅子が並ぶ。客はまばらで、アザットの姿はない。
ノアはカウンターの向こうにいる男に話しかけた。
「アザットは今日来るか?」
カウンターの男は見慣れない客の姿を訝しげに睨んだが、ノアと連れの姿を見て逆らわない方が得策と判断したようだ。連れのディーマはオールバックの大柄な男で、ノアよりも圧倒的に強面だ。
「アザットならそのうち来ると思うぜ。金曜日には大抵いる」
「なら待たせてもらう。スミノフをロックで二杯くれ」
「はいよ」
部下の男ディーマとテーブルでウォッカを飲みながら、周囲の様子を窺った。若い客が多い。ギャングのメンバーも出入りするようだが、一見した限り普通の酒好きな若者も多そうだ。
「マスター、ここらでアゼリー人とアルメニア人の対立は激しいか?」
ノアは以前ここを訪れた時に遭遇した、グループ同士の喧嘩のことを思い出して尋ねた。この地区の面倒を見ているメンバーは他にいるが、来たついでに自分の目でも把握しておきたかった。
「ああ。最近ますます険悪になっちまってな。うちでも鉢合わせる度に一悶着起こすんだよ。……もしあんたがルーベンノファミリーの人なら、何とかして欲しいぜ。店の中で暴れられちゃたまらねえ。うちもあんたの所に金は納めてるんだぜ」
男は疲れた様子でため息をついた。
「面倒かけたな。よく言っておく」
「あ、いやあいつら抑え付けるのが大変なのは分かってるぜ。文句言ったわけじゃねえさ」
ノアが潔く認めたことに対して逆に萎縮したのか、男は慌てて取り繕った。
ノアが部下とウォッカを三ラウンドした頃、ようやく青い髪の少年、アザットが現れた。
「おっやっぱりあんたじゃん! 金髪の怖そうな人が俺に会いに来てるって聞いて来てみたら」
彼は以前会ったときとは打って変わって明るい調子で声をかけてきた。
「どうかした? 俺になんか用?」
「この間話してたお前の友達のことについて聞きたい」
そう言うとアザットは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「いやーナレクのこと、後になって思えばあんたの言った通りだったよ。あいつ、あの後目覚ましたんだ。俺が考え過ぎて人のせいにしてたの、恥ずかしい。あいつには飲み過ぎないように言っといた」
ノアは真顔のまま答えた。
「それが、考え過ぎじゃないかも知れない。そのナレクに会いたいんだが」
「へっ?」
アザットの友人、ナレクは倒れてから一週間昏睡状態に陥り、その後回復していた。アザットと共に彼のアパートを訪ね、話を聞くことにする。話を聞く口実は適当に、流行りの病かも知れないと言うことにしておいた。AXの存在を正直に明かすわけにはいかない。
ナレクはアパートに家族と暮らしており、深夜に訪ねて行くのは気が引けたが、本人は構わないと言う。場所は街の郊外の、決して裕福とは言えないエリアだった。飾り気のない質素なアパートが立ち並ぶ中、その一つへ入る。
エレベーターのない六階へ上がると、側頭を刈り上げたヘアスタイルの、口にピアスを開けた少年が出迎えた。
ランプの明かりだけが灯った薄暗いリビングへ招き入れられる。すると、小さな足音が後ろから小走りで付いて来た。
「ナレクー!」
三歳くらいの小さな子供が遊んで欲しいかのように無邪気な顔で、少年の足に抱き付いた。
「バカ、なんで起きてんだよ。あっちで寝てろ」
少年はしゃがみ込んでシーッと声を抑えるジェスチャーをした。家族は寝室で寝ているらしかった。少女を抱き上げ、静かに寝室へ入れて扉を閉める。
少女が大人しくなったことを確認し、少年は改めてリビングへやって来た。
「俺がナレクだけど」
「ノアだ。こっちはディーマ」
ノアが名乗ると、二人の少年は共に顔を強張らせた。
「そういやあんたの名前初めて聞いたけど、あんた、ファミリーのアンダーボス?」
「ああ」
彼らに自分のことを隠す必要もないだろう。正直に答えた。
「Руの指輪見て、上の人だとは思ったけどさ……」
アザットは、ノアの中指に光るルーベンノファミリーの正規構成員を示す指輪に目をやった。
「なんで元締めのアンダーボスが俺のところに?」
少し怯えた表情のナレク。
「組織は今、原因不明の流行病のことを調べている。ナレクがそうかも知れない。その日どんな症状があった?」
「どうだったかな。何せ気づいたら病院のベッドの上だったから……」
「お前、頭痛いとかぼうっとするとか言ってなかった?」
アザットが口を挟む。
「ああそうだ。頭が痛くなって、疲れた感じもしてて、いつもより酒の廻りが早いなーって思ってたら、そこから記憶がない」
「お前が倒れた日のことを詳しく話してくれ。その日変わったことはなかったか」
「変わったこと? 何もないぜ。昼間いつも通り仕事して、夜店に行っただけだ」
ノビチョクは本人が気付かない程度の接触でも被害を受ける。心当たりがない可能性の方が高いだろう。
「それじゃあ、店に行く前の足取りを詳しく教えてくれ。店に入る二、三時間前からでいい」
「んーあの日のことあんまり覚えてないんだよなあ」
ナレクは上を見上げて思い出そうとする。一週間も昏睡していたのだから無理もない。ノアは彼の記憶を引き出そうとした。
「誰かにぶつかったとか、何かをかけられたとか」
「ああ、思い出した。店に行こうとした時に、道端で吐いてるおばちゃんがいて、話しかけたんだっけ。病気って言われればそのおばちゃんも具合悪そうだったな」
「どんな風だった?」
「すげー顔色が悪かったよ。吐き気が止まらないみたいで」
ナレクはその後、女性に水を渡して介抱したと言う。
ノアもAXに暴露したとき風邪のような症状を感じ、吐き気もあった。それは神経剤の症状の一つだ。可能性が50%まで上がった、と感じた。
「で、その人はどうなった?」
「タクシーに乗って帰っていったから分かんない」
隣で聞いているディーマが話の内容をメモする。
「その女の居場所は分かるか?」
「いや、全然知らない人だよ」
ナレクの症状の原因がAXだと仮定すると、彼は一次被害者ではない。最初に暴露したのはその女性で、ナレクはその女性を介抱したことで二次被害に遭ったのだろう。だから暴露量が少なく、死に至らなかった。話を聞く限りその女性を介抱したのは偶然で、ナレクが狙われたわけではない。事件の鍵に辿り着くには、その中年女性を探し当てなくてはならない。
「お前達に頼みがある。その女がどこの誰なのかを突き止めてくれ。ファミリーからアルム・ボリィへの依頼だ。この辺で聞き込みすれば、そのうち見つかるだろう。ただし、流行病のことは誰にも話すな。パニックを起こしかねないからな」
その人がすでに死んでいる可能性は高い。だが素性が分かるだけでも十分だ。素性が分かれば狙われた理由が推測でき、動機を持つ者を絞り込める。
ファミリーからの依頼と聞き、少年達は意欲的な眼差しで頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます