第八話 運河のほとりで

 ノビチョクの調査はピョートルとその配下の諜報部門に任せていたが、自分も合間を縫っては情報を調べていた。


「兄さん、カルメンと連絡取ってる?」

 執務室でパソコンを触っていると、突然ヤコフがディスプレイの上からひょいと顔を覗かせる。

「いや?」

「えっなんで?」

「えっなんで連絡しなきゃならないんだ?」

 両者は互いに驚く。仕事の依頼があればカルメンの方から連絡が来る。ノアから連絡を取るような用件は特になかった。

「だって最後に会ってから二週間は経ってるでしょ。向こうは待ってるかも知れないよ?」

「なんでお前にそんなこと分かる」

「あんな口紅の跡付けといてよく言えるよ! 全くこれだからいつも愛想尽かされるんだぜ……」


 呆れたようにため息をついて、ヤコフはおもむろにノアのスマホに手を伸ばした。


「おい何してる!」

「あんたがしないなら俺が代わりに電話してやるよ」

「止めろ勝手に! なんでお前俺の暗証番号知ってるんだよ!」


 スマホを奪い返そうとして揉み合いになる。壁や机に体がぶつかって音を立てながら、しばらく暴れ回った。

 そのうちにプルルルル……と呼び出し音が鳴り始めた。

『もしもし』

 電話機の向こうからカルメンの声がする。ヤコフは勝ち誇った顔でスマホを持った手を目の前に突き出した。後で暗証番号を変更しなくてはなるまい。


『もしもし……ノア?』

「ああ。特に用はないんだが、どうしているかと思って」

 冷静を装って電話に出る。

『あら嬉しい! ちょうどあたしも連絡しようと思ってたところ』

 明るい声が返ってくる。ふと見ると、ヤコフは全てを見透かしたような笑みを浮かべている。


 —だから言ったでしょ? いい女は自分から捕まえに行くんだよ。


 そう口を動かし、ウインクした。


『実はヘリを欲しがってる人がいるの。オランダの麻薬王でね』

「どんなヘリがいいんだ?」

『輸送用のヘリが欲しいって言ってるわ。沢山運べるやつを』

 輸送用ということは、大方彼らの”ビジネス”で使うのだろう。

「それならカモフがいいだろう。Ka-32A、コンテナを丸ごと運べる。頑丈だ。支払いはドルかユーロか?」

『ユーロで支払うと言ってるわ』


 国内の取引ならAZRアジャルクシャン・ルーブルを使うが、国外との取引では米ドルやユーロがよく使われる。アジャルクシャンはEUに非加盟だが、ユーロも比較的国内で出回っており、持っていると便利だ。


「こちらの希望は800万ユーロだ。交渉には応じる」

『分かったわ。伝えてみる』


 電話を置いたノアは再び仕事に戻る。ヤコフの顔を見てふと、以前彼に聞きそびれていたことを思い出した。


「ヤコフ、最近BECとは上手くやってるか?」

「はっ、あいつらと上手くやれたことは一度もないよ。……うちの鉱山職員に無料で健康診断する申し出が来たって報告が上がってるんだ。個人のことだから放ってるけど、職員達からも不評らしいね。ほとんどの職員が断ってるよ」

「なぜボシュツカ鉱山にこだわる? 奴らの拠点があるわけでもないだろ」

「子会社のアセスラボ社がキベルジア共和国にあるから、共和国内の色んな地域を調べてるんだよ。ボシュツカ鉱山だけじゃなくね」


 ノアは話を聞きながらパソコンでBEC社のウェブサイトを検索した。最近の経営状況が気になり、興味本位で決算情報を探す。スイスにある本社は公開会社なので、全社の決算が公開されている。ただしアジャルシャン法人や子会社のアセスラボ社の決算は非公開会社のため、公開されていない。

 本社の決算を見ると、利益は出ているようだが研究開発への投資比率が高いことが引っ掛かった。BEC社がアジャルクシャンに進出してきて以来何年も動向は追ってきているが、このしばらくの間にまた成長していることが窺えた。


「BECってこんなに投資比率高かったか?」

 単純な興味からノアは尋ねた。

「ここ一、二年の間に方針が変わってきてね。んーと、新しいCOO(最高執行責任者)が就任してからかな。資金調達して、研究開発にものすごく投資し始めてるらしい」


 研究開発はすぐに利益を生まないので、それへの投資を増やせば純利益は下がる。BECも総売上は上昇しているものの、純利益は下がっていることが分かる。将来利益を生むと見込んだ種でも見つけ、仕込んでいるのだろうか。


 興味本位で引き出した話を頭の片隅に置き、ノアは別の仕事へ取り掛かった。BEC社がAXの製造に関与しているかも知れないという考えは、この時点では頭を過ぎることさえなかった。



———



 三月も半ばに差し掛かった頃、ノアはオランダ人との商談のため、アムステルダムへ飛んだ。オランダにはヨーロッパのMDMA供給の一大拠点がある。商談相手は、そんなMDMAを牛耳っている麻薬王だった。

 飛行機を降りてすぐに空港から中央駅へ向かい、カルメンと落ち合った。それから共に約束の場所へ歩く。観光客に溶け込むため、カルメンの服装は普段より控えめだ。ワンピースの上から暗いオレンジのトレンチコートを羽織り、マフラーを巻いている。ノアはシンプルな紺のコートにパンツ姿である。

 街を歩けば、ヨーロッパらしいレンガや石造りの街並みは現代技術をもって修繕され、保存されていることが分かる。近代的な建物も並び、観光客で賑わっている。

 仕事で西側の先進国を訪れる度に、急速に時代が進歩していることを実感し、アジャルクシャンが時代に取り残されていると感じてしまう。だからこそ、自分が何とかしなくてはならないと言う思いが一層強くなるのだ。手のかかる子供ほど面倒を見たくなるというが、そういうことなのかも知れない。


 二人で運河のクルーズ船に乗り込んだ。取引相手は夫婦で来ていた。四人でクルーズ船内のテーブルに着き、他の客達と同じように食事を楽しむ。一見すれば、地元の夫婦が外国から来た友人をもてなしているようにしか見えない。今ここで二つの巨大犯罪組織のトップによる商談が行われているなどと、誰も想像できないだろう。


 クルーズが終わる前には、輸送用ヘリに関する商談は成立した。ノアは交渉に応じ、カモフ社のKa-32Aを650万ユーロで引き渡すことに合意した。

 船を降り、麻薬王とその妻に笑顔でハグして別れる。交渉が和やかに進んだのは、間を取り持ってくれたカルメンのおかげでもあった。


「カルメン、感謝している。お前のおかげでビジネスが広がりそうだ」

「わざわざお礼なんて言わなくていいのよ。あたしだって仲介料で儲けるんだから」

 運河沿いを歩いて帰路に着く。彼女への信頼感は以前より増していた。彼女は取引に関して誠実だったし、交渉でもノアに不利な条件を引き出さないようさり気なく口添えをしてくれていた。ビジネスパートナーとして上手くやっていける。ダニエルがこの出会いを引き合わせてくれたことに心から感謝した。


 観光客が周囲を行き交う中、ノアはふと第三者の気配を感じた。純粋な直感だった。


「いい眺めだな」

 カルメンの肩を抱き寄せ、不自然にならないよう、運河の橋の上で景色に見惚れている風を装って足を止める。

 橋の上では大勢の観光客が写真を撮っている。その中で意識が向かったのは、ジーンズを履いた若い学生風のカップルだった。直接視線は向けず、視界に彼らを捉える。

 若いカップルは他の観光客と同じようにスマホを持って、同じように笑顔で撮影を楽しんでいる。


「こっち向いてアニー」

「こう?」

「うん、可愛い!」


 カップルの女がポーズを取り、男がカメラを向けるその方向は、ノアとカルメンの姿が収まる位置にある。

 街中では大勢の観光客が写真を撮っているので、当然自分達が他人のカメラに収まることもある。それでもそのカップルに抱いた違和感は、ほとんど第六感に近かった。もしかすると、クルーズ船に乗る前や、乗っている最中の運河沿いに、同じ人影を見ていたのかも知れない。ただし異なる服装で。

 不審なカップルに背を向け、運河の水面を見る。カルメンはノアの自然な仕草に合わせて寄り添い、首を傾けて自分の頭をその肩に乗せた。


「どうしたの?」


 カルメンは小声で囁く。ノアが肩を抱き寄せる仕草は周囲から見れば自然なカップルの行動でも、二人の間では自然ではなかった。ノアは、何も言わずとも彼女が鋭く異変を察知してくれたことに感謝した。やはり同じ穴のムジナなのだろう。


「赤いニット帽の金髪の女と、苔色のダウンジャケットを着た黒髪の男、カップル風の……確証はないが、多分……こっちを意識してる。見るなよ」

 すると彼女はニヤリと笑ったかと思うと、小さく呟いた。

「あたし達も恋人ごっこすればいいんでしょ?」

 カルメンはノアと向かい合い、じゃれ合うように抱き付いた。周囲に見える角度で屈託のない笑顔を見せながら、いつものように華やかな声を投げかける。


「写真撮ろ? ほら、貴方のスマホ出して」

 カルメンが促すので、言われるがままに自分のスマホを渡した。彼女はカメラを起動すると片手で上に掲げ、写真を撮り始めた。

「笑って。行くわよ」

 顔を寄せ合い、二人の顔とその背景を撮る。

「見るのはここよ。画面じゃなくてカメラ。……うわぁ、マジで撮り慣れてないのね」

 今のは素だったろ、と突っ込みたいのを堪えて、必死で笑顔を作る。リードに任せ動きながら位置を変えて、数枚シャッターを切った。

 そうしているうちに、カメラに収められるのを嫌がったのか、カップルは姿を眩ませた。

 カルメンはノアにスマホを返す。写真を見ると、見事にあのカップルの姿が収められていた。


 —何処かの諜報員エージェントかな。


 そう考えたのは、彼らの様子があまりに”普通”だったからだ。情報機関の諜報員は現地に溶け込み”普通”に振る舞うことに長けている。映画のスパイのイメージとは異なり、彼らはどこの地元の近所にもいそうな、無害な人間の顔をしている。そうして学生や主婦、しがない中年会社員といった役割を演じ、警戒心を抱かせずにターゲットに接触する。

 そう教えてくれたのは、かつてKGBの諜報員だったピョートルだった。


 そんな考え事をしながら宙を見つめていると、カルメンはノアの首に両腕を回し、体をぴたりと寄り添わせた。柔らかいものが当たる—豊満な胸の感触だ。ノアは思わず一歩後ろへ乗り込み、欄干に背中を預けた。

 橋から見下ろす運河の水面は、まるで印象派の絵画のように、夕日に染まりゆらゆらと揺れていた。

 彼女はうっとりと見上げるようにしてノアの顔を覗き込んだ。


「へぇ、貴方の瞳って紫色なのね。今まで暗いところでしか見なかったから分からなかった」


 彼女が前のめりになって、ゆるんで開いた口元が近付く。ノアも顔を近づけ、そのふっくらとした唇に自分の唇を重ねた。

 自然に恋人らしく、両手で彼女の頬を包み込むように撫でた。寒い外気の中に互いの吐息が暖かい。


「もう恋人ごっこはしなくていいぞ」

 耳元に向けてそう呟く。カルメンは大きな瞳を瞬きさせて言った。

「あら、今のはごっこじゃないわ?」

 それを聞いたノアの口元から思わず笑みがこぼれた。一気に高揚感に包まれる。心からの微笑みだった。


「今度こそ食事に行ってくれるか?」


 二人はもう一度キスをした。今度はより濃厚に。

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