第七話 毒薬の正体

「これが液体の元素構成、そして推定した分子の構造です」

 ピョートルが机の上に紙を出す。ノアもヤコフも組織の養成所で基礎的な教育を受け、加えてあらゆる兵器や武器についての知識を詰め込まれているとはいえ、流石に分子構造だけを見ても、それが何かはさっぱり分からない。リンやフッ素を含む有機化合物であることだけは分かる。


「初めはVXを想定した上で分析を進めたのですが、結果的にはVXでもサリンでもソマンでもありませんでした。ですが、私には思い当たる物がもう一つだけありました。それを踏まえて分析したところ、どうやらそれらしい結果が出ました。……神経剤の一種で、”ノビチョク”と呼ばれている物です」


「ノビチョクだと……?!」

「ノビチョク?!」

 二人が驚いて同時に声を上げる。


 確かに存在は知っている。ノビチョク—ロシア語で”新参者”という意味だ。かつてソビエトで、KGBが使用することを想定して開発された神経剤である。しかし実戦で用いられたことはなく、研究データもほとんどないため、その存在は幻に近い。頭の中が疑問で一杯になる。

「ノアに風邪と似た症状が現れたとき、腑に落ちない点が一つだけありました。症状が出たとき、売人と会ってからすでに一時間以上経過していたでしょう? VXは暴露してから症状が出て死に至るまで、せいぜい十五分程度です」

「確かにそうだが」


 ノアもそれには気付いていたが、単に暴露量が少なかったからだろうと深く気に留めなかった。


「ノビチョクの大きな特徴は、暴露してから死に至るまでの期間が長いことです。過去のケースだと二、三時間ということが多いようですね。それまでは軽い症状が出るだけですから、身に覚えがなければ死ぬまで気付きません」


 筋は通る。しかし、信じ難い事実だ。ノアは息を呑んだ。


「ノビチョクの毒性はVXの5倍以上。致死量は経皮で1mgというデータもあります。あの売人が、自分が接触したことに気付かないで死んでしまうのも無理はありませんねぇ」


「ほんの1mgの液体に触れただけで死ぬってわけか。そりゃ危険過ぎるね」

 ヤコフも同様に驚いていた。


「なんで、そんな物が出回ってるんだ! 単に化学剤が出回ってるってだけでも十分異常事態なのに」

 ノアは思わず声を荒げた。


「そうですね。唯一確かなのは、誰かがこれを製造したということです」

「ロシアか? 最近イギリスでノビチョクを使っていたな」


 2018年、イギリスでロシアの元二重スパイの暗殺未遂事件が起きた。容疑者はGRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)の職員二名。イギリス政府は事件に使われたのがノビチョクだと断定した。


「その可能性もゼロではないが、もし彼らなら素人の手には渡さない」

 やりとりを見守っていたゼフィルが口を開いた。


「ノアが会った男は素人だが、それの効果をある程度知っていた。私は、影に別の何者かがいると思っている。ロシアのスパイが来ているという話は私達の耳には入っていない」


 思い返せばアジャルクシャンの現政権は親露派で、亡命ロシア人を匿ってもいない。彼らの暗殺対象になる人間がこの国にいるとは思い浮かばない。


「別の何者か……。そもそもノビチョクは他の誰かにも作れるのか? 他の神経剤と違って生成方法も公開されていないんだろ」

 ノアはピョートルの方を向いて尋ねた。


「はい。かつて我々の間でも、それはトップシークレットでした。今でも生成技術を持っているのはロシアだけのはずです。ただ、水面下で他の機関が研究を進めている動きはあります。現存する資料を集めて、同じ物を合成しようとしているんです。そして……どこかの組織がそれに成功したのではないかと思っています。というのも、今回入手したノビチョクは、これまで知られているタイプとは分子構造が異なるのです」


 ピョートルは別の文献を示した。

 ノビチョクの存在が初めて世界に報告されたのは1992年。開発に携わっていたソビエトの化学者ヴィル・ミルザヤノフが、化学安全保障連合の理事長レフ・フョドロフの支援を受けて、モスクワ・ニュースでその存在を明らかにした。現在明らかになっている情報の大部分は、ミルザヤノフが発表したものだ。

 これまでに発見されたノビチョクには、A-230、A-232、A-234などの型があり、どれも性質が異なる。イギリスの事件で使われたのはA-234とされている。


「そのどれとも違うのか?」

「非常に似ていますが、微妙に一致しません。ですから、果たして使用したときにどんな効果が現れるか不明です。毒性の強さ、果たしてどれくらい残留性があるのかなど。まあ、今知られている物もほとんど性質は分かっていないのですが。VXは散布してから一週間以上効果が残留する場合がありますが、ノビチョクも残留性は高いと思いますよ」


 揮発性が低く、長く残留する。このことは、狙った人間以外にも被害が及ぶ可能性が高いことを意味している。ノアが売人と接触した時のように、最初に暴露した人間からその者と接触した人間へ。その者が触れた場所へ。特定の場所に散布されれば、その場所を訪れた人間へ。—というように、毒性が伝搬し被害が広がるということだ。


「加えて言うと、ノビチョクには有効な解毒剤がありません。先日ノアに投与したアトロピンは、サリンやVXには一定の効果がありますが、ノビチョクに対しては実証できていません。ノアが助かったのは、暴露量が少なかったので自己回復力が毒性に勝ったのでしょう」

「そうか。心に留めておく」


 偶然にして、そのような未知の猛毒に遭遇することになるとは夢にも思わなかった。いったい誰がどうして—その疑問が頭の中で繰り返される。


「さてノア、どうする?」

 ゼフィルが重い口を開いた。

「世界中の誰も知らない猛毒が、我々の手に渡りお前を傷付けた。確実なのは、それを製造している誰かがいるということ。……お前はどうしたい?」

 彼は口元に微笑を讃えながら、ノアの目を覗き込んだ。


「その誰かを見つけ出して息の根を止めます。これは単なる兵器じゃない。無差別殺戮を可能にする大量破壊兵器だ。作った人間には、悪意以外の何物も感じない。こいつをファミリーの手に渡したこと、偶然にせよ俺に危害を加えたことを、後悔させてやりましょう」


 紫色の瞳には闘志の炎が燃え、真っ直ぐとゼフィルを見据えた。迷いなくそう言うと、ゼフィルは期待した言葉が聞けたのか満足したように微笑んだ。


「では、ノアを頭としてピョートル以下のチームで、この件—仮にAのXと呼ぼう。AX開発の首謀者を特定し、制裁を下せ」

「はい」

「俺はどうしたら?」

 ヤコフが口を挟む。

「お前は必要に応じて力を貸しなさい。お前の人脈や情報がきっと必要になる」

「はい」


 席を立とうとした直前、ゼフィルは二人に向かって警告した。

「今の所このことを知っているのは、ここにいる私達と、我々と懇意にしているラボの一名だけ……気を付けなさい。お前達の動きが背後にいる首謀者に伝われば、間違いなく口封じしてくるぞ。手段を選ばずにな」


 ノアは頷き、そのことを肝に命じた。



 ゼフィルの部屋を出たノアは、早速ピョートルと作戦会議を始めた。

「さて、まず誰が作っているのか、ということを絞り込まないといけませんね。香水のパッケージがアジャル語で書かれていたところを見ると、アジャルクシャンで使用するために作ったのは間違いないでしょう。ちなみにブランドも住所も、書かれていたことは全て架空のものでした」

「絞り込めるのか? 国内外の軍事機関、テロ組織の中で生成能力を持っていそうな組織を絞るにしても、無数にありそうだぞ」

「合成にはプラント、科学者、資金が必要です。時間はかかりますが、おかしな動きをしている組織がないか一つ一つ調べてみます」


 90年代の日本で、オウム真理教はサリンとVXの生成のためにプラントを建設し、科学者を雇った。彼らは開発に数億円を費やしたとされるが、製法が分かっているサリンやVXと違って、ノビチョクは製法が分からない。ということは、開発にはその数倍、いや数十倍の途方もないコストがかかると予想される。

 その条件さえ用意できるなら、理論上は可能だ。


「必要な物はもう一つある。科学者や使用者自身が死ぬかもしれない、その犠牲を払ってでも開発したいという覚悟だ」

 ピョートルは目を伏せて、同意するようにゆっくりと深く頷いた。

「ノビチョクの研究所でも、科学者に死者が出ました。研究所では万全な安全対策を行なっていたにも関わらず、です。それほど扱いが難しい。開発は死者を出す覚悟でなければできません」


 正気ではない、とノアは思った。その誰かは、科学者や使用者といった身内をも犠牲にする。あの売人はこの薬剤の毒性がそこまで強いとは思わなかっただろう。何も知らかったため、対策を取らずに扱った。

 金正男の暗殺事件でも実行犯の女二人は素人で、その危険性は知らされていなかったに違いない。彼女達は手袋も無しに素手で犯行に及んだからだ。その性質を知っていれば、まともな神経でその物質に素手で触れることなどあり得ない。犯行直後に即手を洗わなければ、彼女達も死んでいたかもしれなかった。

 開発を命じる誰か、使用を命じる誰か。その誰かは安全な位置で見守り、他人が自分のために犠牲になることを厭わない。自分が神か何かだと思っているのだろうか。

 ノアも自分や自分達マフィアが悪い人間だという自覚はあったが、その誰かはマフィア以上に邪悪に思えた。


「疑わしい組織を探りつつ、もう一つ調べて欲しいことがある。犠牲者だ。……売人は毒物が本物だと自信を持って言い切った。その様子から察するに、彼はこのノビチョクの新型、AXを自分で試したか、誰かが使う場面を実際に見たんだ。つまり、すでにこの国で誰かがAXによって死んでいる」


「分かりました。この数ヶ月の間で自然死や病死した人間の中に、それらしい犠牲者がいないか調べます」


 犠牲者が割り出せれば、その人間の利害関係を調べて、暗殺の動機を持つ者を絞り込めるかも知れない。

 化学剤の中でもほとんど性質や存在が知られていないノビチョク。仮に死因を調べたところで、特定はされないだろう。イギリスのケースは稀な例だった。ほとんどの場合死因は不明か、別の死因として扱われたに違いない。


 作戦会議を終えたノアは、疲労がどっと頭に来て、リビングのソファに倒れ込んだ。


 —とんでもないことに首を突っ込んでしまったな。


 だが、縄張りで起きた問題を解決するのも組織の役割だ。間違ったことはしていない。

 ソファで仰向けに寝転がりながら、マリア=カルメンのことを思い浮かべる。あれから数日。今頃どうしているだろうか。最後に会ったときのヘリでの楽しそうな彼女の姿を思い出すと、不思議と疲労も癒えていくような気がした。

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