第六話 空のドライブ

 倉庫へ到着すると、ヘリはすでに外でスタイバイされていた。周囲を森と原野に囲まれた夜のヘリポートに、大きな機体が鎮座していた。ここもファミリーの所有物だ。組織では様々な乗り物も扱っていて、ここに数十機ものヘリがある。二人は車を降りた。

 迷彩柄で胴長の機体には、ロケットを積める筒などが無骨に付いている。キャビンはとても広い。何しろこの機には三十人の兵士を積めるのだ。


「これに乗るのね。大きい!」

 カルメンは近付いて目を輝かせ、感嘆の声を上げる。

「ミル社のMi-17。パパが買い集めたソビエトの遺物だ」


 ノアがパパと呼ぶのは、ルーベンノファミリーのボスである。アジャルクシャンは1991年、ソビエトの崩壊と共に独立した。その頃はソビエト崩壊の混乱で、あらゆる物が市場に出回ったそうだ。ミサイルや戦車まで売られていたという。ファミリーのボスはその機を逃さず、不動産や兵器、目を付けたものを買い漁った。

 経済自由化の波に乗り、多くのアジャリ・マフィアが雪だるま式に規模を拡大し成功を収めた。大小無数のマフィア達は駆逐されたり吸収合併したりして、淘汰されていった。ボスはその競争の中で、勝ち残ったうちの一人だった。


 ノアはカルメンに手を貸して、コックピットの中へ誘導した。コックピット左側の副操縦席にカルメンを座らせる。自身は右側の操縦席に座った。

 機内は飾り気なく、正面から天井にかけて敷き詰められたスイッチや計器類は年代を感じさせる。その中に座るカルメンの金色のドレスと白いコートがあまりに眩しく、不釣り合いだった。


「貴方が操縦するのね」

「今度こいつを納品するんだ。大富豪のコレクターが購入してくれた。大きな取引だから俺が操縦して納品しに行く。今日は試乗も兼ねてる」

「ミサイルも積んで売るの?」

 彼女は訝しげに尋ねた。

「いいや、武器は載せない。観賞用だ」

 これも建前だ。表向き武器を売らないことになっているが、実際は相手を見て売ることもある。


 二人共にヘッドセットを付ける。スイッチを上げてエンジンスロットルを開け、プロペラが回転し始める。左手でサイドにあるコレクティブレバーを持ち上げつつ左足のペダルを踏むと、機体はゆっくりと上昇した。カルメンは小さく感嘆の声をあげた。足元から伸びる黒い棒—サイクリックスティックを右手で前へ倒すと、機体は前方に傾き、前進し始めた。

 ヘリは一面に広がる雪原の上を、滑るように駆け抜けていく。カルメンは窓から広がる光景に夢中になっていた。


「見て! 雪の上を小鹿が駆けてるわ! こんな風に上から見えるなんて新鮮ね」


 無邪気で楽しそうな彼女の横顔は、普段の重く暗い日常の中では決して見ることがなく、ノアにとってはその方がよほど新鮮だった。あのマリア=カルメンと今、二人きりでヘリの機内にいる。そう考えると、少しの高揚感に包まれた。


 程なくして、州都の街が見えてきた。古き良きヨーロッパの面影を残した街並みが、オレンジ色に浮かび上がる。街の小高い丘の上には、アジャルクシャン正教会の尖塔も見えた。


「あたしの家もあの辺にあるかしら?」


 街の上をしばらく旋回した後、更に向こう側へ足を伸ばした。


「まぁっ、あれはドゥニル川ね!」


 眼下を大きな川が横切っている。アジャルクシャンの首都まで続くドゥニル川だ。その川に沿って飛行する。川は氷が張っているが、春が近づくに連れ徐々に薄くなる。もうじき溶けて割れた氷が流れ出すだろう。川の上には橋がかかり、それを縁取るように街灯と車のヘッドライトが光の帯を作っていた。


「写真を撮ってもいい?」

「ああ。でも俺のことは撮るなよ」

「どうして?」

「仕事上、顔を残したくない」

「分かったわ」


 カルメンは携帯で景色を収める。何枚か撮って満足したのか、今度はノアの方を向いて話しかけた。


「他にもヘリを売ってるの?」

「ああ、売ったり買ったりするよ。種類も色々ある。こいつのような軍用ヘリだけじゃなく、輸送ヘリも」

「へぇ、じゃああたしのお得意様でそういう物が欲しいって人がいたら、紹介できるわね」

「そうだな。頼む」


 それからカルメンは、じっとノアの方を見つめたまま黙った。

「なんだ」

 気が散って思わず尋ねた。

「ノア、貴方こうしていると楽しそうね」

 彼女はそう言って微笑む。意外な一言だった。ノアは自身では気付いていなかったが、操縦している間、彼の口元は緩んでいた。だがきっとそれは、彼女が隣に乗っているからでもあっただろう。


 不意にカルメンはシートベルトを外してぐいと身を乗り出し、コックピット右側の操縦席へ体を近づけた。操縦しているノアは横を向くことはできなかったが、目の端でその姿を捉えた。

「動くと危ないぞ」

「これくらいいいでしょ?」

 彼女は操縦席のシートに手をかけて体を支える。顔が近づいたかと思うと、暖かい吐息とともに、頬に柔らかい感触を覚える。同時にキスの音がした。それからカルメンは左手でノアの顎に触れ、くいと左に傾けさせる。ノアは視線を正面に保ったままだったが、今度は唇の端に彼女の唇が重なるのを感じた。戸惑って瞬きするばかりだった。


「空のドライブに連れて来てくれたのは、貴方が初めてよ。けっこう刺激的だった。だからご褒美」

 カルメンは冗談めかして口角を持ち上げた。


「……操縦ミスしたらどうするんだ」

 前を向いたまま小さく呟く。一方的に近づいて来る女達にはいくら同じことをされても動じなかったのに、今は急に胸の鼓動が早くなる。


「あら、顔が赤いわね?」

 彼女はクスクスと笑う。

「この暗さで見えるわけないだろ」

「認めるんだ、ふふっ可愛い」


 すっかり彼女のペースに乗せられてしまった自分がいる。しかし、不思議とそれが幸せだった。


 その晩アジトの邸宅に帰ったノアは、頬に付いた口紅の跡をヤコフにしっかりと冷やかされた。




 それから数日が過ぎたある朝、ノアは義理の妹の作ったクロックムッシュとグリル野菜を食べながら、いつものように新聞に目を通していた。

 闇組織絡みのニュースもちらほら見受けられる。『北部のアレキサス共和国で銃撃事件が発生し、三人が死亡。組織間の抗争と見られる』—これは特に珍しくない話題だ。

 ページをめくって経済欄に目を移す。『キベルジア・ケミカル社で勤務中に死亡した従業員の遺族が賠償を求めていた訴えは、和解が成立』『BEC子会社のアセス・ラボ社、ボシュツカ盆地周辺の住民に対して健康調査を検討』


 組織と対立している企業、BECの名前を再び見つけて目を止めた。

 前回ボシュツカ川で基準値を上回る有害物質を確認し、それを受けて今度は住民の健康調査をするようだ。静観しているファミリーをよそに、BECには積極的な動きが見受けられた。

 しかし、なぜファミリーが所有する鉱山があるボシュツカ盆地にこだわるのだろうか。あくまでルーベンノファミリーに対抗するかのように。

 この国では経済の深部にまで闇組織の影響が及んでいて、組織と関わらずに商売をすることは困難だ。ルーベンノファミリーも裏の稼業だけでなく、不動産や鉱山といった、表の事業も行っている。

 それにも関わらず、BEC社はルーベンノファミリー傘下の企業とは取引を拒み、組織の縄張りでビジネスをする大半の企業が納めている、みかじめの支払いも拒否してきた。

 ヤコフに尋ねたかったが彼の姿はなかったので、後で聞くことにした。


 その日の午後、ノアとヤコフは揃ってボスの部屋へ呼ばれた。先日の毒物の同定結果が出たのだ。それについて、ピョートルがボスを含めて重要な会議を開くという。

 最上階のボスの部屋の前に立つと、緊張で身が引き締まる。何年彼の元で仕事をしていても、その緊張感は変わらない。それは隣にいる弟も同じだ。普段は誰に対しても余裕たっぷりで人を食ったような態度だが、ボスに会う時だけは態度が変わる。

 ノックをして部屋へ入ると、ボスとピョートルが待っていた。肩ほどの長さの茶色い髪をした大柄な男が、大きな窓の手前にある書斎机に座っている—彼こそがルーベンノファミリーのボス、ゼフィル・ルーベンノだ。

 書斎の一角には小さく仕切られた小部屋があり、後から入った二人はその小さなテーブルに着いた。ここに座るのは主に、極少数の幹部だけで重要な話し合いをする時だけだ。

 ゼフィルとピョートルも移動して来て、その場にいる四人が同じテーブルに着いた。ボスは穏やかな表情を浮かべているが、ノアは彼が恐ろしく頭の切れる冷酷な人物であることを知っている。


「さて……」

 ピョートルが話の火蓋を切った。空気がピンと張り詰めるのを感じた。

「先日ノアが見知らぬ売人との取引で手に入れた正体不明の液体ですが、面白いことが分かりましたよ」

 ピョートルは微笑んでいるが、青い瞳は鋭く光っている。ゼフィルはすでに彼から具体的に聞いているのだろう、ピョートルは主にノアとヤコフに対して話している。

 その後にピョートルが続けたのは、予想を上回る事実だった。

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