第十一話 第三の被害者

 暖かくなって雪解け水が街のいたる所で流れるようになった頃、ノアはカモフのヘリKa-32Aを納品する準備に取り掛かっていた。納品先は、先日商談したオランダの麻薬王だ。近場ならそのまま操縦して乗って行くが、オランダへは空輸で運ぶ。

 試乗にはカルメンを呼んだ。彼女も再び空のデートができると喜んだ。

 車で共に夜のヘリポートへやって来た。


「今日はこれに乗るの? この間のに比べるとコンパクトで可愛いわね」

 灰色に塗装したボディが地上に鎮座している。キャビンはMi-17ほど大きくないが、それでも普通の民間用ヘリに比べればかなり大きい機体だ。


「こいつは兵士を何十人も運ぶわけじゃないからな。その代わり五トンの物を吊り下げられる。凄いパワーだろ?」

「すごい!」


 カルメンの手を引いて機体の前へ歩み寄った。ノアは他のヘリと異なる特徴を持ったこの機が気に入っていた。同じ型の機はまだいくつか残っているので、手放すのは惜しくはないが少し寂しい。


「見ろ、カモフはプロペラが二枚付いてるんだ。軸のローターはそれぞれ逆に回転する。プロペラが二枚ある代わりにテールローターがないだろ。そのおかげで安定するから、コントロールが利く。だから狭い場所へも入って行って作業ができる」


 ふと、いつもより饒舌になってしまった自分に気付き、恥ずかしくなって口をつぐんだ。


「ああ……興味ないよな。こんな話」

「そんなことないわ。そうやって楽しそうに話してる貴方が好きよ」

 彼女が優しい笑顔を向ける。それを見てつくづく良い女だな、と思うのだった。


 コックピットの位置は高くなっているので、自分が先に入ってカルメンを引き上げた。コックピットの内装はMi-17とあまり変わりない。操縦席と副操縦席が並び、無機質なスイッチと計器が付いている。

 早速エンジンを始動させようとしていると、目の前の視界を覆う気配がした。気付けば、カルメンが操縦席で向かい合うように自分の上に跨っている。カルメンはノアの髪を両手で梳きながら額を付け合わせ、口角を持ち上げて挑発的に囁いた。


「あたしの操縦は難しいわよ?」

「知ってる」

 二人は顔を見合わせて微笑み、キスをした。彼女の背中から腰、脚へと手を回す。スカートから覗くしなやかな太腿に触れる。膝の上に乗る肢体の感触は柔らかく、密着するうちに自然と動悸が上がって行くのを感じた。

「ヘリを操縦するのはサイクリックスティックよね。えっと……ここが”スティック”かな?」

 カルメンの手が下へと伸びる。

「おい」

「ふふっ。ファミリーのNo.2なら、当然あたしのことも乗りこなせるわよね?」

 カルメンが更に挑発する。夜で暗いとはいえ、倉庫には他のスタッフもいるのだが。


 —ヤコフならそういうのは気にしないな。


 ヘリを離陸させる前に、二人の熱がすっかり機内を温めていった。



———



 さらに一週間が経った頃、三人目の被害者と思しき人物を見つけたと報告が入った。


「2月15日に死亡した人間の当日の足取りを掴むのに苦労しましたよ。何しろ普通の人々ですからね。街中にいるギャングの情報網と、地道な聞き込みでどうにか分かりました」


 マクシム・コバレンコ。58歳の弁護士。それが、ピョートルが明らかにした情報だった。


「彼は同日に自宅で心不全で死亡していました。その日彼は顧客の家を訪れていて、その最寄駅はあのキオスクがある駅でした。調べられた限り、その日の死者の中であのキオスクに立ち寄る可能性があったのは彼だけかと」


 ピョートル率いるチームが駅員に賄賂を渡してICカードの通過記録を調べた結果、マクシムはその日、キオスクがある駅から地下鉄に乗り、自宅の最寄駅で降りていたことが分かった。顧客の家を出てから地下鉄で真っ直ぐ自宅へ帰ったのだろう。

「繋がったんじゃないか?」

 ノアは口角を少し上げた。


「ええ。同じ日に接触したかも知れない三人がその日のうちに死亡、または意識不明になっている。これでAXである可能性はほぼ100%近くになりました」

「まだ第四の被害者がいると思うか?」

「正直、毒性が三人も伝搬したことが驚きです。四人目がいるとすれば相当強力な毒ですよ。ただその場合、同一人物からもっと複数の被害者が出ていそうなので、流石に世間も異常事態に気づくように思いますねぇ」

「そうだよな。一箇所で複数の人間が死亡したり不調を訴えたりしていれば、テロとして明るみになりそうだ。だがそうなっていないということは、被害はもっと限定的だったんだ。マクシム・コバレンコが初めの被害者で、他の二人に伝搬させたと仮定して進めよう」


 ノアはチェアの背もたれに深く体を預けた。


 —もう一度アザットとナレクを使って、その日その弁護士が訪れた顧客の家から駅までの導線上に、売人の姿を見ていないか調べさせるか。


 情報は多い方がいい。彼らに連絡を取ってみよう。


「仮に売人が自ら弁護士を襲ったんだとしたら、いつどうやって攻撃したんだろうな」

「こうするんですよ」


 ノアの何気ない呟きにピョートルが答えた。彼はおもむろに、テーブルの上に置いてあった誰かの飲みかけのオランジーナのボトルを持ち上げた。それを片手で上下に振る。

「まず二人一組になって、一人がターゲットの近くで炭酸飲料のボトルを開けます」

 ピョートルが蓋を開けると、プシュッという音とともに、激しく振られたオランジーナからは泡が吹き出した。

「その音に合わせてもう一人がターゲットの顔にノビチョクを掛けます。ターゲットは液体を掛けられたことに気付いても、目の前の炭酸飲料を見てそれが飛んできたのだと思い込みます。それがKGBで私が聞いた、ノビチョクでの暗殺方法ですよ」

「なるほどな」

「まあ、今のは一例ですがね」


 ノビチョクは一見ただの無色の液体だ。どのような形で攻撃を受けても、何も知らなければ水をかけられたとしか思わないだろう。他の毒物と違って、ターゲットやその周囲に気付かれず、通りすがりの一瞬で攻撃できるのが利点だ。症状が出るまではタイムラグがあるから、攻撃者はその間に堂々と逃げられるし、何ならターゲットが死ぬ頃にはとっくに出国することもできる。



 マクシム・コバレンコは企業を相手取った訴訟を得意とする弁護士だった。彼の職業柄、経歴は調べ易かった。これまで弁護を担当した原告も被告も、すぐに判明した。その中にはBEC社、キベルジア・ケミカル社、ドゥニルペトロフスキー・パイプ・プラント社といった大手の名前もあった。

 後者の二社は、現在進行中の案件だ。数日前に新聞で、キベルジア・ケミカル社と従業員遺族が和解したという記事を読んだのを思い出したが、その件もコバレンコが担当していたようだ。

 国を相手取った大規模な住民訴訟を行ったこともある。暗殺の動機を持つ人間はそれなりに多そうだ。


「黒幕は彼が過去に訴訟を起こした国か自治体か。それとも訴訟相手の企業が、実はテロ組織のフロントカンパニーで、恨みを買ったか」


 ノアが呟いていると、丁度同じ執務室にいたヤコフが口を挟む。


「単なるどっかの民間企業が首謀者かも知れないぜ」

「それはそうだが」

「条件揃えるのはむしろ簡単でしょ。工場を作っても普通の企業活動に偽装しやすいし、適当な名目で生成材料も仕入れられる。どっかの闇組織のフロントカンパニーかも知れないし、本当に民間企業かも知れない」


 プラント、科学者、資金の条件を揃えることができるという意味では、確かに候補には入る。しかし、民間企業は考慮に入れていなかった。化学兵器はどこの国でも—条約を締結していない北朝鮮やエジプト、南スーダンなどを除いて—開発も保有も認められていない。兵器として開発して一儲けしようとしても、売り先がない。しかし、可能性の一つとして考えるのは悪くないだろう。


「俺も協力するから、その弁護士が関わった企業のリストをくれよ。その中から怪しい動きをしてる奴がいないか探ってみる」

「そうだな。助かる」


 商売ごとはヤコフが詳しい。彼が担当しているのは、麻薬の売買やみかじめ料の回収、鉱山や不動産業で、数多くの企業との付き合いもある。企業の調査は彼の協力が心強い。



 その夜、邸宅の庭園にあるプールでひと泳ぎした。フランス式庭園の中にある美しいこのプールではよくヤコフが女と戯れていて、単にトレーニングがしたいノアと鉢合わせて一悶着起きる。四月はまだ泳ぐには相当寒いので、さすがにヤコフの姿もない。

 寒中水泳で体を引き締めて家に戻ろうとすると、ピョートルが帰っていくところが見えた。彼はノアやヤコフと違って家族がいて、別の場所で家族と暮らしている。

 ピョートルはノアが加入する前から組織にいる。ボスの右腕として長く運命を共にしてきたと聞いている。諜報や戦闘については彼から多くのことを教わったが、彼自身のことはよく知らない。なぜKGBを捨てて、マフィアの道へ入ったのかも。

 

 —なんでギャングになったんだ、か。


 いつか聞かれたあの言葉が繰り返される。ふと見上げれば、頭上には月が輝いている。

 ノアの父親は宮廷に出入りする有名な音楽家だった。自身も音楽の道を志すことを期待され、幼少時代から音楽学校へ通った。

 しかしノアには音楽の才能が無かったのだろう。成績は常に下から数えた方が速く、長い休みに家へ帰る度に父親から罵倒された。期待に応えられなかったノアは、父親から認められた覚えがない。

 親元を離れ寄宿舎で暮らしていたが、学校にも家にも自分の居場所がなかった。元々存在感の薄かった母親は、知らぬ間に離婚して家を出ていた。いつしか、夏休みやクリスマス休暇は『学校に残る』と偽って、家に帰らなくなった。


 アジャルクシャンにはアジャリ・マフィアと呼ばれる闇組織が広く浸透している。怪しい場所を出入りするうちに、その存在を知った。殺伐とした世界は、不思議と居心地が良かった。暴力を目の当たりにし、眠っていた闘争心が目覚めた。

 ある日、ルーベンノファミリーのヘッドであるその人から声をかけられる。


 —お前なら、いつかこの世界の頂点に立てるかも知れないぞ。自分の可能性を試す気はないか? ……こっちがお前の本当の居場所だ。


 学校でも家庭でも存在意義を感じられず、居場所のない少年が心を動かされるには十分な台詞だろう。こうして恵まれていたはずの貴族の少年は、裏社会へ身を沈めていった。実際、ノアは頭角を現した。すぐにボスの下の二番目、アンターボスとして認められ、十年以上もこうして生きている。

 他人から見れば、きっかけは下らない理由だったかも知れない。それでもこの世界にいるのは、これが天から自分に与えられた役割だと信じているからだ。


 ピョートルの過去も、彼が見てきた世界も、世代が違う自分には想像も付かない。とはいえ、ボスの盟友であるピョートルに、ノアは大きな信頼を寄せていた。


 数日後、AXの調査を大きく進展させる重要な手がかりがノアの元に舞い降りて来た。

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