第三話 素晴らしい毒薬
日差しが差す静かなダイニングで一人新聞を広げる。ダイニングルームの天井にはシャンデリアが吊られ、床には絨毯が敷かれている。十人掛けの長いテーブルの上にはインテリアとして燭台が置かれている。
朝食を食べながら新聞に目を通すのがノアの日課だった。見出し記事は首都ノリフでの爆発事故、地方選挙での不正疑惑。どれも特に目新しくない。
「おはようー」
義理の弟、ヤコフが低い声で眠そうな目を擦りながら現れた。彼は向かいに腰掛け、朝食にあり付いた。自慢のダークブロンドの髪は寝癖で飛び跳ねている。彼もまた実力を認められたアンダーボスで、組織のNo.3にあたる。
「ああ」
ノアは生返事をして、ページをめくり続ける。すると経済欄の小さな記事が目に止まった。
『BECグループ傘下のアセスラボ社、鉱山運営企業の環境対策を批判。アセスラボ社は、キベルジア共和国ボシュツカ盆地での環境調査の結果を発表した』
BEC社は多国籍企業で、アジャルクシャンにも支社がある。反社会勢力を徹底的に排除していることで有名で、ルーベンノファミリーとは長年対立関係にある。
記事にあるキベルジア共和国はアジャルクシャン連邦を構成する地域の一つで、まさに今自分がいる場所だ。そしてボシュツカ盆地と言えば、組織が経営する鉱山がある地域だ。
『アセスラボ社は自主的な環境アセスメントを実施。ボシュツカ川のpHは5.5と、酸性化していると述べた。基準値の下限である5.8を下回り、ボシュツカ銅鉱山が発表した数値と差がある。同社はボシュツカ銅鉱山の鉱山排水に含まれる硫化物が酸性化の原因だとし、排水処理が不十分だと指摘。また、基準値を上回る重金属も検出したと発表。同社は周辺住民への健康被害を懸念している』
ボシュツカ銅鉱山はファミリーが所有する鉱山だが、BEC社はそれを名指しで槍玉に挙げている。
ノアは顔を上げて向かい側に座っている弟を見た。
「ヤコフ、この記事見たか?」
新聞を渡し、BEC社の記事を見せる。鉱山経営などはヤコフの管轄だった。
「ああ、これね。昨夜ネットで見たんだ」
彼は難しい顔をしてブロンドの髪をボリボリと掻いた。
「喧嘩売って来やがって。マジでウザいよね、BECは。相変わらずみかじめ料も払ってないし。この鉱山がうちの所有って知ってるのかな?」
「知ってて言っていたら、相当強気だな」
ノアは苦笑いした。
「環境調査は公共の利益のためとか言ってるけどさ、あいつらの最近の主力事業はクリーンインフラだから、それをPRしたいだけなんだよ。イメージアップを狙ってるわけ。ま、大して話題にならないだろうし、大きなダメージじゃないよ。でもウザいけど」
ヤコフは口にパンを詰め込みながらモグモグと話す。
「問題ないのか?」
「逆にこっちが名誉毀損で訴えてやるよ。……いやその前に揉み消すかな。その時は兄さんよろしくね」
ヤコフは軽い調子で言う。担当者である彼がそう言うなら問題ないのだろう。ノアは新聞の続きをめくった。
一瞬、『マクシム・コバレンコ弁護士の冥福を祈る。対企業訴訟で数多くの実績を持つ彼は、2月15日、自宅で心不全により死亡』との小さな見出しが目に入ったが、特に組織と関係のある内容ではなかったため、そのまま目が滑っていき、記憶から忘れ去られた。
新聞を読み終え、僅かな家族団欒のひと時を過ごす。目の前にいるヤコフはロシア系アジャルクシャン人で、
ノアは十五の頃、組織の幹部候補を育成するための養成所へ入った。その時、すでにヤコフも同じ養成所にいた。共に戦闘の知識と組織運営に必要な知識を叩き込まれ、何年も公私共に過ごしてきた。
心を許してプライベートな相談ができるのはこの弟だけだ。ノアには、そんな彼にしか聞けないことがあった。
「なあヤコフ……女を誘ってイエスと言わせるにはどうしたらいい?」
ノアが神妙な面持ちで尋ねると、ヤコフはたちまちニヤケ顔で身を乗り出してきた。
「へえ、誰誰?」
「マリア=カルメンって知ってるか?」
「知ってるよ。一回くらいはどっかで会ったことあるかな。分かるよ、いい女だよね」
彼は納得するように頷いた。
「一昨日初めて会って食事に誘ってみたんだけど、ありきたりの誘い方じゃ駄目だって断られた」
「一回断られるくらい何の問題もないよ。一回目は断ってあんたの様子を見たいだけかも知れないし。女はそういうもんだよ」
ノアは相槌をうった。過去はほとんど相手からのアプローチで、それも浅い関係で終わった。正しい手順を踏んでデートすることに関しては、ヤコフに聞くのが一番だ。
「その後は、当たり前のことを当たり前にするだけ。マメに連絡する、デートには毎回花を持っていく、たまに理由のないプレゼントをする、それだけ」
それを聞いたノアは脱力して「あ゛ぁ」と低く唸った。
「俺はどれも当たり前だと思ったことはない」
無理だ、と顔をしかめる。
———
後日、ノアは三人の部下を伴って、カルメンに紹介された売人と約束した取引場所へ赴いた。夜の十時に車でドゥニル川の河川敷へ向かう。川沿いの細い道は普段誰も通らない上に、公道からは木が生茂って姿が見えない、絶好の取引場所だ。
ヘッドライトを消して車を奥に隠し、車を降りて川の対岸から来る明かりを頼りに歩く。街灯は一切ない。小さな雪の粒がパラパラと舞っていた。夜は一層冷えるので、男達は皆、フードの付いた厚手のコートを着ていた。
その先で男が待っていた。
「よお」
髭を生やした、中年で小太りの男がいた。街を歩いていても違和感のない、一見普通の男だった。取引中は何があっても気を抜けない。両者の間に緊張感のある空気が流れる。
ノアは合言葉を言って握手を交わした。
「……そのブツが本物だという証拠は?」
「証拠はないが、俺が保証する。間違いねえ」
「俺達が何者か知ってるな?」
「ああ」
「仮に嘘で担ぎ上げようとすればどうなるか、察しはつくな?」
ノアは腕組みをして鋭い瞳で売人を見つめ、意味深に圧力をかける。
「本物さ。見事な威力だぜ。こう吹きかけるだけであっさり人が死ぬんだからな」
男は怯むことなく自信たっぷりに言い切った。そして手にした箱から香水瓶のようなものを出して見せた。その中の液体が、件の毒物だという。ノアはまだ99%信じていなかった。
「これを誰から手に入れた?」
「それは企業秘密だ、言えないね。必要以上の詮索はしないのがマナーじゃないのか?」
「誰かに試したか?」
「おいおい、あんたらはこのブツを買いに来たのか尋問しに来たのかどっちだよ?」
質問責めに売人は苛立ちを募らせた。ノアは詮索を一旦止めた。
「ああ悪かった。もちろん買うつもりだ」
部下が鞄から札束を出す。
「5千上乗せして2万ルーブルだ。取っておけ」
「ありがとよ」
ノアは念のためラテックス手袋を付け、箱ごと瓶を受け取った。箱から瓶を取り出し、香水の噴出口からわずかに漂うであろう匂いを嗅いでみるが、異臭はしない。シアン化物ならアンモニア臭がするはずだ。無論、香水の香りもしない。それ再び箱に戻し、用意した密閉容器に入れた。
「今後入荷したら俺達が全て買い取る。どこよりも高値で。必ず俺達のところに持って来い」
「分かった。いい取引だったぜ。じゃあな」
売人が背を向けて車へ向かっていくのを見て、ノアも背を向けた。そして後ろに立っていた部下に、小声で耳打ちする。
「尾行しろ」
「はい」
「手は出すなよ。背後に誰がいるか知りたい」
「了解です」
そして自らは箱と共に別の車に乗り込み、冬道を運転してアジトへ戻った。
「お帰りなさい、若頭」
アジトでノアを出迎えたのは、青い目をした初老の男だった。彼はピョートル。組織の諜報部門の長を務めている。彼はアジトで同居しているわけではないが、この日はこの仕事のために来ていた。
「それが、例の毒物ですか?」
「ああ」
ノアは密閉容器をテーブルの上に置き、改めて容器の外側から眺めた。外の暗闇の下ではよく見えなかった。パッケージは光沢のあるオレンジ色で、高級感を醸し出していた。見た目は完全に香水に偽装されている。商品名や製造業者名などは全てアジャル語で書かれているが、住所はスイスになっていた。
「皮膚から吸収しただけで人を殺せるというのは間違いなく嘘だと思うが、別の毒物なり劇物かもしれない。どう思う?」
ノアはピョートルに尋ねた。彼とファミリーのボスは古くからの盟友で、組織の顧問も務める。立場はノアの方が上だが、諜報に関しては今までピョートルから多くのことを教わってきた。一見誰かの親戚にいそうな穏やかなこの老人が、かつてソビエト時代、KGBの諜報員だったとは誰も思わないだろう。
「そうですねぇ。これが何か分からない以上、安易に試すわけにいきません—仮に効果が売人の言う通りなら、使用者の方も危険です。うちと仲の良い病院のラボに送って同定を依頼してみましょう。パッケージについても調べてみますよ」
「頼む。どうせ住所も全部デタラメだと思うがな」
箱をピョートルに渡す。ノアは疲れているのか、少し息苦しさを感じていた。シャワーを浴びて休もうと思っていたその時、部下からの電話が鳴った。尾行させた売人に何か動きがあったのだろうか。
「どうした?」
『ボス……あの売人が、死にました』
あの取引からまだ一時間程度しか立っていない。突然の報告に戸惑いを隠せず、顔が強張る。
「どういうことだ? 手を出したんじゃないだろうな?」
『違います! 車で追跡していたのですが、バイパスに差し掛かったとき売人の車が突然ふらふらと蛇行運転をし始めて、そのまま壁に激突し、炎上しました。こちらからは何も接触していません。追跡を撒こうとしていたようにも見えなかったのですが……』
ノアは顎に手を当てる。
「他の奴に殺された可能性は?」
『撃たれたとか車が近付いたとかいう風には見えませんでしたが……。それなりに車の通りはありますが。僕らも野次馬に混じって周囲を観察してるんですが、怪しい奴も見当たりませんし、警察も事故として処理してます。雪の上に蛇行の跡が残っているので、スリップしたのだろうと』
冬道にスリップ事故は珍しくない。ノアは一旦自分を納得させて電話を切った。しかしこのタイミングでの事故。
—本当にただの交通事故か?
どうにも胸の支えが取れなかった。とは言え、他にも仕事がある。分析結果が出れば、その男がそれほど重要な存在なのか、それとも取るに足らない詐欺師なのか分かる。
シャワーを浴びて、邸宅内の自分の寝室に入る。広い廊下の先に寝室がいくつか並んでおり、隣はヤコフの部屋だ。ヤコフは仕事で外泊しているため、部屋にいない。ノアとヤコフは仕事が異なるので、毎日顔を合わせるわけではなく、互いに何処で何をしているか知らないことも多かった。今夜は他の同居人達の姿はなく、静まりかえっている。
深夜で疲れているのか、先ほどより動悸が増し、息苦しさが強くなっている。疲れているだけでなく、風邪を引いたのだろう、咳も出るし吐き気もする。
急激に不快感が強くなっていく。
—いや、風邪でもないかもしれない。これがあの毒薬のせいだとしたら。
ノアは助けを求めようと部屋を出た。ふらつく足で、絨毯張りの長い廊下を歩く。
—最悪、死ぬかも。
それが脳裏に過ぎると焦燥が走り、必死で人を呼ぶ。
「ピョートル! いるか!」
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