第四話 死を呼ぶ毒薬
意識が朦朧とし、目の前がぼやける。ノアは壁伝いに体を支えながら廊下を移動した。最悪のケースだけは何としても避けたかった。ここで対応を誤れば死にかねない。まさか敵との抗争でもなく銃撃でもなく、こんなタイミングで貴重な命をあっさり失う羽目になるとは—そんなのは御免だ。
幸い、ピョートルはまだ邸宅内に残っていた。執務室で仕事を片付けていたのだと言う。ふらつく足取りを見て、慌てて飛んできた。
「若頭、どうしましたか!」
「風邪のようだが、症状が似てるんだ……神経剤に。あの売人に会った直後だから、もしかすると、と思って」
「大変だ! すぐ病院へ!」
それだけの説明で事情を理解したピョートルは、すぐに病院へと車を走らせた。ノアは朦朧としていたものの意識は保っていたので、車の中から、売人と会った時にいた部下に指示を出した。
これがもし毒物の影響なら、彼らも同じ毒物に暴露している可能性が高い。そこで今日取引に立ち会った者は全員、即時体を洗い流し、着ていた衣服を焼却処分するよう命じた。そして症状が出ないことを確認するまでは、家族への接触も避けるように伝えた。
—狙われた? 薬剤をかけられたのか? いや売人の素振りには注意していたが、攻撃された気配はなかった。
考えられるのは、瓶から毒物が漏れ出たということ。しかし、ノアがあの香水瓶を触ったときは手袋をしていた。手袋をしたまま受け取って、少し匂いを嗅いで、すぐに密閉容器に入れた。その後は取り出していない。いつどうやって接触したのか。その疑問が残っていた。
ピョートルは手際よく医者に状況を説明し、神経剤の解毒薬であるアトロピンを投与させた。その効果かどうかは不明だが、翌朝には体調の回復を実感できた。
昨夜同行した部下に状況を確認すると、他に症状が出た者はいなかった。
組織の息が関わったこの病院で、ノアは個室を用意された。病室はVIP向けの、ホテルのような高級感のある仕様になっている。おかげで付き添いのピョートルとも、周りの目を気にせず話ができた。
病院のベッドで寝ながら、ノアはこの状況についてある程度仮説を組み立てていたが、件の毒物の同定結果が出るまでは結論付けることはできない。
その代わり、毒物の調査は可能な範囲から取り組むことにした。
ベッドの上から携帯を使ってカルメンに連絡を取る。彼女は売人の知り合いの知り合いだと言っていた。ならば本名が分かるはずだ。メッセージチャットで売人の男が死んだことを伝え、理由を調べたいので本名を教えてくれるよう頼んだ。
『彼が死んだって、本気で言ってるの??』
『そうだ。だから名前を知りたい。嘘だと思うなら共通の友達に聞いてみろ』
そのメッセージのやり取りをして一時間ほどしてから、カルメンから返信があった。
『本当だった。信じられない。人生って分からないのね。悲しいわ :(』
『ついでにその知り合いに本名も聞いたわよ。弔事を送りたいからって理由を付けて』
続いて送られてきた名前をピョートルに転送し、組織のプロファイリングチームで調べさせる。組織にはサイバーチームがいて、今の時代はネットを使えば容易に情報を得られる。上手く行けば名前から割り出せることも多い。
カルメンには自分が入院していることも、自分や売人がそれに接触したかも知れないことも伝えなかった。正直なところ、彼女のことも信用していない。あの売人を連れてきたのは彼女だ。本当に何も知らないのか、関わっていないのかも疑わしい。いずれそれも確かめる必要があった。
部下達の調査を待つ間、ノアは病室でピョートルに自分の仮説を話した。
「これが仮に神経剤だとすれば、合点がいくんだ。俺は昨夜、手袋越しにしか瓶を触っていないと思った。……だが、売人と握手した時は手袋をしていなかった」
「なるほど」
ピョートルも合点がいったように肯いた。
「握手したのは俺だけだ。先に売人が暴露していたんだろう。きっとそいつ自身も気付いていなかったが、手に付着していたんだ。だから俺だけに症状が出た。売人は車の運転中に症状が出て、意識を失った……あるいは衝突前にもう死んでいたかも」
部下の話では、車は衝突前にフラフラと蛇行していたという。スリップが原因とされたが、その時意識を失っていたとも考えられる。
ピョートルは穏やかな顔ながら、目には鋭い光が浮かんでいた。
「納得がいきますねえ。あの入れ物は普通の香水瓶でしたから、噴出口から少し漏れることはあり得ます。運んでいるときか、箱から出し入れした際に少量が漏れたのかも知れませんね。それだけで人を死に至らしめる毒性の強さからすると、VXあたりでしょうか。経皮での吸収ならサリンの170倍の毒性があります」
ノアも頷いた。神経剤は神経の正常機能を阻害する。その恐ろしさは致死性の高さだ。他の化学剤に対して、圧倒的に少ない量で死に至る。中でもVXは明らかになっている中で最も強力で、揮発性が低く高い安定性を持つ。2017年にマレーシアで、金正男がVXにより暗殺された。
あの毒薬が神経剤だと言う証拠は、今のところない。だがその仮説が事実だとすると、さらなる疑問がいくつも浮かぶ。誰が何の目的で製造して、なぜ裏で流したのか、なぜあの売人が持っていたのか、なぜ破格の安値で売ったのか—など。
「金正男暗殺の首謀者は北朝鮮当局で間違いないでしょうね。化学兵器といえば、シリアのアサド政権がサリンを使った空爆を行っています。いずれも国家レベルです」
アジャルクシャン連邦が、自国で化学兵器を生産しようとするだろうか、とノアは考える。彼ら政府は法を破るくらいは厭わない。
国際社会の目を盗んで禁止行為を行おうとすれば、厳しい情報統制が必要だ。しかしアジャルクシャンには不可能である。政府が腐敗している故に、情報がザルなのだ。これは他国の諜報機関にとっては、諜報活動が楽で都合が良いだろう。どんな情報も金で買えるのだから。
「……いくらアジャルクシャン政府がクズだろうが、そんな度胸があるとは思えない」
「同感ですねぇ。90年代には日本のテロ組織がサリンとVXの生成に成功し、実際にテロを起こしています。つまり国家レベルでなくても、一組織が製造することは可能ですよ」
「そうなると、今の情報だけでは絞り込めないな。国内か、海外からか。国家機関なのかテロ組織なのか」
「ええ。調査を進めてみないことには」
そう言いながらピョートルは、何かを考え込んでいた。彼は僅かに顔を曇らせたが、ノアはそれに気付いていなかった。
血液検査では、ノアの体から疑った神経剤を検出することはできなかった。ただ、神経剤は体内で分解しやすいため、すでに検出できないほど分解していたかも知れない。そもそも神経剤ではなかった可能性も残っている。
ノアは翌日には退院し、アジトへ帰ることができた。その頃には、売人のプロファイリング調査の結果もある程度分かっていた。
売人の名前は複数のSNSで見つかり、顔写真からすぐに本人だと分かる。そこから芋づる式にあらゆる情報を辿った。彼は生まれながらのアジャルクシャン人で、職業はタクシー運転手。年齢は48歳。組織との繋がりを調べたが、何も出なかった。海外の組織、または政府関係者と繋がりがあるかも調べたが、それらしい形跡はない。洗い出せた情報を見る限り、一般人のように思える。
どこかに雇われた、ただの一般人の可能性は十分あり得た。金正男暗殺事件でも、実行犯の女二人は素人だった。
ノアが抱える仕事は山ほどあり、この謎の毒物の一件にばかり構ってはいられなかった。ピョートルをトップとする諜報部門にある程度任せ、この数日間はいつものように自分の仕事を進めた。
ルーベンノファミリーは、役割ごとにいくつかのグループに分かれている。高度に階層化・分業化された組織構造は、いわば一つの大きな会社だ。ボスによる緻密な組織設計が、ファミリーの組織力を高める源となっている。
ヤコフの職務が経営や外交といった表の仕事だとすれば、ノアの職務は軍事・諜報といった陰の仕事だ—この分担は二人の性格と照らし合わせても合理的だった。
基本的に現場のことは各グループのリーダーに任せているが、上手く回るよう立ち回り、指示を出さなくてはいけない。幅広い仕事に同時進行で対処するから、休む暇もない。
仕事以外の時間は至って単調なものだ。ジムで汗を流す、家族に料理を作る、ヤコフの晩酌に付き合う、そのいずれかしかない。
ある日の夕方、ノアは地下のジムでトレーニングをしていた。ヤコフと被ることがない限り、基本的にここは貸し切りだ。天井から吊るされたサンドバッグを相手に、素手で基本のジャブやフック、キックを繰り返す。足を前後にシャッフルする、バッグの周りに回り込む、ピボットする、その中にパンチやキックの動作を交ぜていく。長年の鍛錬のおかげで拳の皮は分厚くなり、素手でも痣ができることはない。
半裸の上半身に汗が流れる。体が暖まると今度は藁人形を相手にした。ダガーナイフを右手に持ち、少し離れた場所から走って行って、膝裏があるであろう位置を蹴ると同時に、左手で藁人形の後ろから鼻口を塞ぐ。人形の頭をやや後ろへ倒し、右手で横から首の一点を突き刺す。人形は地面に倒れる。
少年時代から何度も繰り返した、鋭く正確な動作。同じ動きを、利き手を変えて繰り返す。
すると誰かが階段を降りてきて、気の抜けるような明るさで声をかけた。
「お、やってるね、兄さん」
弟のヤコフだ。声は聞こえたが、集中しているので返事をすることに割く意識の余裕がない。
彼はシャツを脱ぎ、隣でウォームアップを始めた。
「やっぱマッチョだと女にモテると思うんだ。俺みたいな童顔が脱いだら意外と凄い、とかギャップで受けるんだよね。それで最近ウェイトトレーニングにハマってるんだけど」
ヤコフは柔軟体操をしながら独り言を言う。
「最近モデルの子とデートするのにも飽きちゃってさ。たまには違う女の子引っ掛けたいから付き合ってよ。相手が二人組だとこっちも二人組の方がナンパしやすいでしょ?」
ノアは地面に転がった藁人形と格闘を続けていた。
「これは参考情報だけど、今日はマリア=カルメンがカジノに来てるらしいよ」
ナイフを持つ手が止まる。
「……カルメンが来てるって?」
「なんだ、聞こえてんじゃん」
ノアはトレーニングを中断し、藁人形を片付け始めた。
「行くんだ?」
「そろそろカジノの様子を見に行こうと思ってたんだ。あの女に聞きたいこともある」
ヤコフはその様子を微笑みを浮かべて見送った。
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