第一話 女王との出会い

 繁華街の隠れた高級バーの店内に、明るい女の笑い声が響き渡る。バーテンダーはグラスを拭きながら、さり気なく店内に注意を向けた。店内には高級メーカー製の大きなソファやテーブルがいくつか置かれている。今日の客は十五人ほどで、おおむね見知った客か、その連れだ。

 店内は離れた客の顔が識別できないほど暗く、青とオレンジの控えめな間接照明が雰囲気を添える。かかる音楽は、DJが流行りの曲から往年の名曲まで、センスの良いセレクトをしていた。

 店の奥の少し広い空間には長いソファがあり、その真ん中にこの店の常連、マリア=カルメンがいる。


「へえ、貴方のところ子犬が生まれたの? あたし一匹もらおうか」


 マリア=カルメンが口を開けば、店中の視線を集めた。その艶っぽい声は、特に張り上げているわけでもないのによく通る。焦げ茶色の巻き髪に、この辺りの人間にはない濃い肌色。今日は全身に刺繍をあしらった透け感のある黒いドレスで、彼女の雰囲気によく似合っていた。


「え? 全部自分で飼うつもり? まあ、そりゃあ可愛いわよね。あたしの家、広くて寂しいから子犬なんかいたらいいなあ、なんて」

 何気ない会話でも、周囲が彼女に注目していた。人目を引くのは、そのブラウンのとびきり大きな瞳のせいでもあるだろう。

 彼女は女王というあだ名で呼ばれている。何の仕事をしているのか、バーテンダーは知らない。顧客のプライバシーには立ち入らないのが務めだ。


 そんな中、入り口のセキュリティからインカムを通じて、バーテンダーに新たな客の来店の知らせが入った。男性が一名。数十秒後、バーの扉が開いてその客が現れる。

「いらっしゃい」

 新規の客は、カウンター席へ腰を下ろした。常連客ではない、見かけない顔だった。二十代くらいで、服装はフードの付いた厚手の上着にニット帽。このアジャルクシャン連邦の寒い二月には、至ってどこにでもいる普通の格好だ。

 その瞳は深い青にも紫にも見え、珍しい色彩を放っている。どこか外国の生まれなのかも知れない。彼がニット帽を取ると、淡い金髪が現れた。


 バーテンダーは顧客に満足のいくサービスを提供できるよう、普段から客の一挙一動に注意を払っている。

 そうして男を見ながら、ふと思った。—妙に静かな男だ、と。たとえば椅子を引く動作、グラスを受け取る時など、あまり音がしない。店の常連客は豪快で賑やか、悪く言えば少しガサツな人間が多いのだが、彼はどこか気品を感じさせる。しかし金色の髪の間から頬に入った刺青が覗き見え、それが気品さとは対照的であった。


 男はソルティドッグを飲みながら、振り返って店の奥を気にしている。視線の先にいるのはマリア=カルメンだ。彼女はその場にいるだけで目立つ。いやでも視線が行ってしまうのだろう。


 店員の一人が奥へ入って行くと、マリア=カルメンが店員に囁いた。それを聞いた周りは一斉に歓声を上げる。拍手も沸き起こった。

「さすがクイーン!」

「女王に乾杯!」

 金髪の男はその様子を訝しげに見ていた。


「さあ皆、女王が全員にショットをご馳走してくれるよ!」

 バーテンダーは店内に向かって明るく叫んだ。彼らにとっては、いつものことだった。気まぐれでその店にいる全員に飲み物を奢ることがある。彼女が何をしているのかは知らないが、羽振りがよく愛想がいいので、皆に好かれている。店にとっても大事な顧客だ。

 手際良く次々とショットグラスにストレートのウォッカを注ぐ。そのグラスを金髪の男の前にも差し出すと、彼は戸惑った様子だった。


「あそこにいる彼女からだ。彼女はいつもこうなんだ。遠慮しないで」

 バーテンダーが促すと、男はグラスを一気に飲み干した。

「彼女はここの常連?」

 男が尋ねる。

「ああ、いつも来てる。お客さんは見ない顔だね。彼女と話したければ紹介するよ」

「実はあの女と約束をしているんだがな」

 男がちらりと奥を見る。マリア=カルメンは相変わらず男女の取り巻きに囲まれ談笑していた。これでは話しかけるタイミングもないだろう。


「おーいカルメン! 君にお客さんだよ」

 バーテンダーが呼ぶと、女は席を離れてカウンターへ歩いてきた。そして金髪の男に気付き、その目の前へ向かう。

 男は彼女の顔を見上げ、少し間を置いて尋ねた。

「マリア=カルメン?」

 彼女はニッコリと笑った。

「貴方がノアさん? 初めまして」

 二人は握手を交わした。



 金髪の男—ノアは先日、仕事で付き合いのある地下カジノのオーナーから、ある女を紹介された。マリア=カルメン—あだ名は女王と呼ばれ、オーナーが言うには何かと顔が広く、仕事の仲介を生業にしているそうだ。知り合えばきっと役に立つこともあるだろうと。知る人の間ではそれなりに有名らしい。

 懇意にしているオーナーの紹介ということもあるし、こちらとしても仕事の機会が広がるのなら不都合はない。


 紹介を受けた女が目の前で微笑んだ。大きな瞳と唇、それにくっきりとした眉が印象的だった。


「あたしのことはカルメンて呼んで。みんなそう呼ぶの」


 二人は挨拶をして席を移動した。周囲に会話を聞かれない程度の場所を選び、ソファへ腰掛ける。隣にカルメンが座った。

「思ってた印象と違って驚いたわ。ファミリーのNo.2って聞いて、もっとゴリゴリの怖そうな人を想像してた」

 カルメンが無邪気に笑う。その言葉にノアは微かに眉を吊り上げた。

「あ、ごめんなさい。こっちの世界の人にはあまり褒め言葉にならないのよね。思ってたより若くて紳士な人だなって」

 線の細い顔立ちは裏社会では舐められる。十代の頃はそれが悩みで、顔に刺青を入れたりした。しかし二十代になって以降は自然と骨張っていかつい顔立ちになり、甘さは消えたと自分では思っていた。


「仕事について聞かせてくれ。ダニエルが言うには君は仕事を斡旋しているらしいな。今までどんな仲介を?」

 ノアは話を変えた。


「あたし、知り合いが多いの。大企業の社長とか芸能人。その人達が困ったこととかやりたいことがあると、あたしに相談をくれるの。気軽に『ねえカルメン、これ何とかできない?』って。そうしてあたしが、助けてくれそうな人に聞いてみる。そんな感じ」


 それからカルメンは口元を耳に近づけ、囁いた。


「……例えば友達の歌手の子が、薬やってるのを週刊誌のネタにされそうになったことがあったんだけど、揉み消して欲しいって相談されて代わりのネタを売った。上手くいったわ。他にはある社長が正当な手段じゃない方法で手に入れたお金を洗浄したがっていた時は、銀行家を紹介したり」


 カルメンは悪戯っぽく口角を釣り上げた。薔薇の甘い香りが漂う。

 彼女の仕事は、裏の力を必要としている人間と裏の力を繋ぐこと。言わば表と裏を繋げる仕事だ。その意味では、ノアの存在は裏にあたる。


「このことは内緒よ。貴方が同じ穴のムジナだって知ってるから話したのよ」


 隣に座る彼女が足を組み替える。華やかな目鼻立ちに、タイトなドレスから浮かぶボディラインは、誰から見ても魅力的だろう。彼女はその人脈を築き上げるのに女を活用してきたのだろうかと、ノアはふと思ってしまう。

 それは自分には関係ないし、口にも出さなかった。


「だから、もし依頼が来れば貴方に相談するわ。そちらはどんなビジネスをしてるの?」

「用心棒業をやってるのは知ってるだろう。珍しい乗り物を売ったりもする。……ドラッグも扱う」


 ノアは言葉を選びながら当たり障りのない範囲で、自分が所属する組織で取り扱うビジネスを説明した。より深い部分は伏せた。初対面の彼女をどこまで信用していいか分からなかったからだ。


「ところで、前に中央の議員が暗殺された事件あったわよね」

 カルメンは顔を近づけて声を低め、意味深な表情で言う。

「ああ」

「やったのは貴方なんでしょ?」

 ノアは首を傾げた。

「いや、知らないな。ダニエルが言ったのか?」

「ううん。だけどルーベンノファミリーのNo.2が関わったって話は暗黙の事実になってるわ」

「俺じゃない。そもそもうちでそういう仕事は請け負ってない」

 ノアは心当たりがないと言う風に、カルメンの顔を見つめ困った表情を見せた。彼女は大きな口元で意味深な笑いを見せる。

「ま、いいわ。あの議員は支持者から集めたお金をネオナチに流してたでしょ。だから殺されても何とも思わないわ。皆感謝してるくらいよ」

 そう言われても、初対面の相手に自分の仕事の深淵を正直に伝えるわけにはいかない。ノアは知らないと言うに留めた。


 一通り表面的にではあるが互いの利害を確認し終えて、今日はこれで引き上げようと考え始めた頃、ノアは自分の中にある感情が湧き上がっていることに気づいた。

 南の太陽のような明るさと、奥ゆかしい妖艶さを併せ持ったカルメンのような女は見たことがなかった。何より、狡猾に裏社会を生き抜いてきた強さが伝わってきた。

 心の声が、彼女を手に入れろ—と告げていた。


「俺はもう行く—が、今度食事でもどう?」


 自分から女を誘ったことはほとんどなく、何をすればいいのか分からない。とっさに出てきた言葉がそれだった。


「それは仕事の一環?」

「いや、個人的な誘いだ。君をもっとよく知りたい」

 カルメンはニヤリと笑った。


「ありきたりなデートの誘いじゃ、あたしはなびかないわよ? 坊やにはまだ早いんじゃないかしら」

「坊や扱いされるような歳じゃないだろ」


 ノアは不満そうに眉を寄せた。実際のところカルメンは年上のように見えるが、年齢は不詳だ。三十前後といったところだろうか。

「ま、いつかもっと面白い挑戦を期待してるわね」

 彼女は悪戯っぽくそう言うが、出鼻を挫かれたノアはすでに戦意を失っていた。


 会計を済ませて席を立つと、カルメンはドアまで見送った。

「そうそう、ダニエルが最近チップ泥棒が多くて困るってボヤいてたわよ。たまには行ってあげたら?」

 ダニエルは地下カジノのオーナーで、カルメンを紹介した張本人でもある。

「ああ」



 バーを出ると、再び寒い外気に襲われた。吐く息は白い。少し離れた駐車場に迎えの車がいるはずだ。深夜の喧騒が聞こえるが、両手を上着のポケットに突っ込み、真っ直ぐ目的地目指して歩く。


 ふと横道に、複数の少年達が何かを取り囲んでいるのが目に入った。少年達の雰囲気からして、ストリートギャングのグループだろう。州都の中心部はいくつかのギャングが鉢合わせる場所でもある。

 最もそのギャング達も含めてここは、おおよそノアが所属するルーベンノファミリーの勢力範囲内だ。そして、縄張りの中で問題が起きないよう目を光らせるのも組織の仕事である。

 二十人くらいの少年達が二つの集団に分かれて睨み合っている。穏やかでは無さそうな気配を感じたので、ノアは横道へ入り、少年達の輪に割って入った。


「なんだぁ? ……あっ」


 ノアの姿を見て少年達は、逆らってはいけない誰かだと察して道を開けた。人だかりの真ん中には、二人の少年が向かい合っている。片方は剃り込みの入った黒髪の少年、もう片方は青い髪の少年だ。


「俺らに散々因縁付けた落とし前、付けてくれんだろうな」

 剃り込みの少年が言った。

「ナレクのことで誤解したのは謝る。……けどなぁ、元はと言えばお前らがシマを荒らしに来たのが悪いんだよ」

 青い髪の少年が返した。

「ここがお前らのシマだって誰が決めたんだ? 誤解の件は生贄一人で勘弁してやる……お前でな」

 剃り込みの少年が青髪の少年を指差す。挑発された少年の眉間は見る間に険しくなり、血管が浮き上がった。少年は拳を震わせ、一触触発の空気が流れる。

 周りで見守っていた少年達は、睨み合っている二人に近付く男の存在を気付かせようと、焦り気味に声をかけた。

「お、おいアザット!」

 しかし彼らの血の上った頭には聞こえない。ノアは遠慮なくその二人の目の前に出た。それでも一度付いた火は消えない。


「上等だぁ!」

 青い髪の少年は目の前の相手に殴りかかり、掴み合う。

 ノアはレフェリーのように両手で二人を割って引き離すと、リズムよく青髪の少年の顔にパンチを入れ、黒髪の少年を蹴って突き飛ばした。蹴られた少年は地面に転がった。

 殴られた青髪の少年は倒れなかったが、数歩後退りした。そして再び拳を振り上げ、剃り込みの少年へ向かって行く。彼を再び向かわせないよう背中で受け止めると、彼の上半身をすくい上げて横から下へ叩きつける。少年は地面から浮いて側転するような形で、頭から下に投げられた。

 一方倒れていた少年は立ち上がり、ノアへ向かって拳を上げた。

「おい……おい止めろって!」

 周囲のギャラリーから少年に向かって声が聞こえる。


「男の勝負だよ! 邪魔すんな!」

 血の気が昇った彼らには、目に映る者が全て敵に見えるのだろう。

 ノアは腰を落としてパンチを避け、懐へ踏み込んで、下から顎へ鋭いアッパーカットを入れた。

 顎を直撃された少年の動きが止まり、フラフラと二、三歩舞い歩いて崩れ落ちた。

 投げられた青髪の少年の方は、立ち上がってまだ臨戦態勢を見せる。それを数人の仲間が止めに入った。


「アザット、駄目だよ! その人ファミリーの人だよ!」

 少年は息を荒げていたが、ようやく少し冷静さを取り戻した。ノアは両者を交互に見て言った。


「グループのリーダーはお前か?」

「俺はアザット。アルム・ボリィアルメニアの盗賊のリーダーは俺だよ」


 青髪の少年が名乗り出た。

 こちらがアルメニア系の少年グループだとすると、もう片方はアゼルバイジャン系のグループだろう。どちらもノアが属する母体組織、ルーベンノファミリーの支配下にある。


「揉め事があるならここを仕切ってるファミリーのメンバーに相談しろ。掟は守れ」


 ノアは一言忠告しに来ただけだった。元締めの幹部である彼には他にも仕事があり、小さな出来事にいちいち時間を取っていられない。かと言って目の前の揉め事を見過ごす訳にもいかなかった。

 剃り込みの少年は面倒な状況を察して、立ち上がるとそそくさと立ち去って行った。それに伴ってアゼルバイジャン系のグループも、波が引くように姿を消した。

 ひとたび抗争に火が付けば、多くの血が流れる。同じ母体組織の中で無駄な血を流す必要はない。地域の治安を守るのはファミリーの仕事だと認識しているが、末端までは目が行き届かないことが多い。それでも、ルーベンノファミリーが地域を掌握するようになってから、地域の治安が良くなったという声を聞く。


「すいません、もう喧嘩しませんので!」


 周りを囲んでいた少年の一人が頭を下げる。アザットは不服があるのか、無言でいた。彼は十八、九くらいだろうか。その姿が昔の自分に少し重なった。ノアがあの歳の頃、組織の義理の弟と喧嘩が絶えなかった。気持ちは分からないでもない。

 ノアは頷くと背中を向け、元来た道を引き返して行った。


 アザットは見知らぬ金髪の元締めの指に光るРуと刻まれた指輪に目を移し、眉を潜める。そして静かに、立ち去る彼の背中を睨んでいた。


 横道から元来た道に合流し、駐車場を目指して薄暗い通りを歩いていたとき、ノアは背後から人の付いて来る気配を感じた。

「待てよ!」

 その声に振り返ると、先ほどのアルメニア系グループのリーダー、アザットがこちらを睨みながら立っている。彼は走ってきて、その行手を遮るようにノアの目の前へ回り込んだ。何か用があるのは明らかだった。

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