無法者と新参者 ~紫目のマフィアと華麗なる毒~
Mystérieux Boy
プロローグ 連鎖する死
二月の寒空の下、マクシムは家路についた。クライアントとの打ち合わせを終えた今、空はすっかり群青色に染まっている。
今日訪れた家は最寄りの地下鉄の駅から二十分も歩かなくてはならなかった。周囲には無機質なアパートが立ち並び、あまり人気はなく物寂しい。歩道の脇には薄汚れた雪が積もっている。
マクシムは駅へ向かって歩きながら、抱えている案件のことで頭が一杯だった。シワの刻まれた厳しい顔で、アスファルトを見つめながら足早に進む。常に複数の訴訟案件が進行している。多くは対企業の案件だ。
大企業相手に訴訟を起こすのだから体力がいるし、恨みを買って殺されるのではないかと思うこともある。柄の悪い男達が訴訟を取り下げるよう迫ってきたこともあった。それでも依頼を受け続けるのは、彼の頑固とも言える正義感によるものだった。
プシュッと何かが吹き出す音がして、顔に冷たいものが飛んできた。水滴のようだ。不意に顔が濡れ、何事かと驚いて顔を上げる。
何のことはない、目の前で若い女性がコーラの蓋を開けたところだった。コーラのペットボトルから泡が吹き出している。慌てる女性の横をそのまま素通りする。
マクシムは眼鏡を取り、手で顔を拭った。随分な勢いで水しぶきが飛んできたものだ。
地下鉄の構内に入る前に、路上の売店へ立ち寄った。特に何も考えず、いつものようにパンと缶コーヒーを取る。
「ウィークリー・ノリフ誌置いてるかい?」
「あるよ」
カウンター越しに、マクシムと同じ年代くらいの中年女性が答えた。
「じゃあ、そいつをもらうよ」
「全部で8ルーブルだね」
マクシムはルーブル硬貨を渡し、パンとコーヒーを鞄に入れ、雑誌を小脇に挟んだ。
「お客さん、頭に葉っぱが付いてるよ」
中年女性がマクシムの頭を指差す。
「取ってやるよ、どれ」
女性は彼の白髪混じりの短い髪を、手のひらで軽く叩いた。枯れ葉がひらひらと舞い落ちる。頭に落ち葉を付けて歩いていた自分を想像すると滑稽だった。
「ありがとな」
マクシムの険しい顔は一瞬和らいだ。女性に礼を言い、地下鉄の入り口から構内へ潜る。
ホームの電光掲示板には、18:28と表示されていた。次の地下鉄が到着する時刻だ。時計を見る。ほんの数分後だ。
コーヒーを飲みながら待つ間、少し頭痛がしてきた。咳も出ていた。電車に乗っている間に、それは増した。
—風邪かな。歳のせいだから仕方ないな。
マクシムはそう思った。帰宅してコートを脱ぎ、寝室へ籠る。先ほど買った雑誌を布団の中で読んでいたが、いつの間にか頭痛は酷くなり、それどころではなくなった。その上鼻水も出るし、咳もひどい。風邪くらい、と思っていたが、気合ではどうにもならない。
少し休めば治まるだろう。明日早起きすればいい。そう思い、目を閉じた。時計は20時を指していた。
彼はそのまま、二度と目を覚ますことはなかった。
———
地下鉄駅前の売店で、タチアナは時計を見ながら、終業の時間を今か今かと待っていた。今日はこの売店に来る客もまばらだった。
夕方頃から、ひどく目眩がしていた。寒さが応えたのだろうか。椅子の後ろにヒーターがあるとは言え、冬に一日中路上で過ごすのは、この歳では無理があるのかもしれない。娘からはそのことで、仕事を減らすか変えればいいのに、と心配されている。
タチアナは20時になる前に、少し早めにシャッターを下ろした。目眩に加えて、吐き気もしてきた。
地下鉄に乗る前に電話をかけた。今夜は娘夫婦と食事の約束をしていたが、行けそうにもない。
「もしもし、母さん?」
「ああ、今日あんたの所で夕飯を一緒にするつもりでいたけど、ちょっと具合が悪くてね。また今度にするよ」
「大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。少し目眩がするだけだから。風邪かしらね」
タチアナは軽い調子で答えた。あまり娘に心配をかけたくない。
「もう、だから売店の仕事なんて止めればいいのに。明日そっち行くよ。仕事終わってから」
「いいよ、そんな気使わなくて」
「行くって。ちょうど母さんの顔見たかったし」
「あらそう。じゃあ、待ってるわ」
これが、タチアナと娘の最後の会話になった。
タチアナは自宅の最寄り駅に降り立った。吐き気が先ほどよりも強くなっていた。何か変なもの食べたかしら、と記憶を辿る。
一刻も早く家へ帰り着きたかったので、近道をすることにした。町の中心部にある飲み屋街を通るのだ。ここは柄の悪い若い男達が通りをうろついていることが多く、普段は避けて通っている。
道の両脇にはバーが立ち並んでいて、オレンジ色の街頭が薄暗く灯る。時間は20時半と、バーの盛り上がる時間には少し早いので、人は少ない。
どうしても吐き気が収まらず、つい歩道の脇で戻した。ゲエゲエと吐いていると、若い男の声がする。
「おばちゃん、大丈夫ー?」
振り向いてみると、側頭を刈り上げた若者風のヘアスタイルの少年がこちらを見ていた。口にピアスも開いている。一見して、この辺りにいる柄の悪い連中の仲間だと分かる風貌だ。
「飲み過ぎ? ちょっと早いんじゃないのー?」
十代くらいのその少年は、ヘラヘラと笑った。
「ああ大丈夫だよ。少し具合が悪くてね」
「ちょっと待ってな」
そう言うとピアスの少年は、道の脇のバーへ入って行った。カウンターで硬貨を渡してミネラルウォーターを受け取り、タチアナに差し出す。
「ほら。これで吐いちまいなよ」
「ありがとう」
タチアナが吐いている間、彼は背中をさすってくれた。
「本当に大丈夫? 顔色悪いけど、救急車呼ぼうか?」
「いや、タクシーでも拾って帰るよ。この歳になるとさ、色々あるんだよ。あんたまだ若いから分かんないだろうけど」
「そう? ま、タクシーならその辺にいくらでもいるから」
少年はタクシーを捉まえ、タチアナが乗り込むのを見送った。タチアナは礼を言った。人は見かけによらないものだと、自分の考えを改めた。
ようやくアパートに辿り着いたのは21時。家へ帰ってから、タチアナは先ほどすぐに病院へ行かなかったことを後悔した。これは日常的な具合の悪さとは違う。明らかに何か異常がある。
目眩がし、意識が朦朧とした。
—救急車、呼ばなきゃ……。
朦朧とした意識でぼんやりと思った。しかし体は思うように動かず、電話に辿り着くことすらできない。間もなく彼女の意識は途絶えた。
翌日、リビングの床で冷たくなっているタチアナの姿を、娘が発見した。
———
州都の中心部にある繁華街で、見知らぬ中年女性をタクシーに乗せ見送った後、ナレクは行きつけのバーへと向かった。店員によお、と挨拶して地下への階段を降りる。
錆びた金属の椅子に、薄汚れたテーブルクロス。ここは仲間がよく集まる場所だ。
テーブルの一つに、青い短髪の若い男が座っている。友達のアザットだった。彼はすでに飲み始めていた。
「ようナレク」
「おう」
ナレクもウォッカを注文して飲んだ。友達と飲むのに理由はいらない。皆、特に理由もなくこの界隈をブラブラしていて、気が向いたら集まって一緒に飲む、それだけだ。
数十分して酔いが回ってきた頃、ナレクはふと、少し離れたテーブルにいけ好かない連中が座っているのに気が付いた。
「おい」
友達のアザットに目配せする。アザットは頷いた。そこにいるのは、アルメニア人であるナレク達と縄張りを巡ってややピリピリした関係にある、アゼルバイジャン人グループのメンバーだった。
「目合わせんな。今は」
「気に入らねえな」
彼らに聞かれないよう小声で囁く。
「喧嘩すると元締めに怒られちまう。俺がちゃんと話付けてやるよ」
アザットはナレクを制した。アザットはナレクがいるグループのリーダーだった。彼がそう言うなら、今は我慢して知らない振りをしてやろう。そう思って、ウォッカを仰いだ。
いつもなら朝までウォッカを浴び続けるナレクだったが、今夜は妙に酒の周りが早い気がした。意識が朦朧とするし、頭も痛い。だが、まだ22時だ。普段はもっと飲める。
「どうしたナレク?」
「俺、なんか酔っちゃったかも」
「お前がそんなんで酔うわけねーだろ」
ナレクは答えない。グラスが手から滑り落ち、テーブルの上に転がった。それと同時に、体がふわっと浮いた。体が椅子から離れて横へ倒れ、音を立てて床へ落ちた。そして目の前が真っ暗になる。
「おいっ大丈夫か! お前、どうしたんだよ!」
真っ暗な中で、友達が叫ぶ声が聞こえた。
「そんなに飲んでないだろ! おいおい、これって誰かに盛られたんじゃねえのか?!」
友達のアザットの声が、徐々に遠ざかっていく。そこでナレクの意識は途絶えた。
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