特別な日
娘が生まれた。
「オギャー!」
元気のいい泣き声は、小さな産婦人科医院の中で響き渡った。
光希は、急いで病院を出て、田んぼに向かった。
彼は、娘の誕生を父母に知らせに行ったのだ。
稲刈り作業は中断。
彼の第一子の誕生をみんなして、喜んだ。
彼は、忘れない。
必死で走った、あの日のことを。
初めて聞いた我が子の声を。
黄金に輝く、揺れる稲穂を。
彼が最後に残した手紙には、このことが書かれていた。
佳代との結婚を、光希の両親、親族、兄弟がみんな反対していたからだ。
光希の両親、親族たちは、田舎でちょっとした有名な資産家だった。だから、嫁いでくる相手にも、相応な家系出身の女性を望んでいた。だから、父を早くに亡くし、母親だけで育てられ、お金に苦労している家庭の佳代は、相手に相応しくなかったのだ。特に「貧乏な家の嫁はいらん!」と、光希の父親は最後まで認めてくれなかった。最初は、結婚を応援し、よかったね、と言ってくれていた、佳代の母までも、娘の結婚相手の親兄弟が反対していることを知り、やっぱり、やめた方がいいのでは、と考えを覆してしまった。けれども、光希は諦めなかった。
しっかり者で、勉強もでき、ルックスもよい佳代。学校でも、人気者だった佳代が、やっと自分に靡いてくれたのだ。あれやこれやと、アタックし、やっと手に入れた彼女を手放す気になれなかった。放っておいたら、自分じゃなくとも、彼女に求婚する男は、山といるだろう。そんなことは、とても耐えられない。誰にも、取られたくなかった。なんとか、佳代との結婚を実らせたい一心だった。
しかし両親たちは、光希の意見などお構いなしに、勝手に佳代に会いにいき、息子と別れて欲しいと直談判しに行っていた。
誰にも祝福されない結婚はしたくないと、ついには、佳代までが、別れよう、と言ってきた。
もう、光希に残された道は、自分が家と縁を切るしかない。
佳代の気持ちが、自分から離れてしまう前に、と、光希はボストンバッグひとつに着替えを詰め込むと、佳代の家に、転がり込んだ。
そこまでして、一緒になりたいのかと、最初は猛反対していた親族と、兄弟は、両親を説き伏せ、なくなく認めざるを得なかった。
やがて、佳代のお腹には、小さな命が宿った。
意外にも、みんな、喜んでくれた。中でも、父の喜びようは、格別だった。
父にとって、光希は、とても可愛い息子で、どの子よりも、大事に思っていたのだ。
その息子の子供となれば、同じように、可愛い。まだかまだかと、生まれてくるのを楽しみにしてくれていた。
光希に娘が生まれた日。
父は、稲刈りを中断してまで、病院に会いに行った。
小さいその子を腕に抱き上げ、父は男泣きした。
こんなに愛おしそうに我が子を抱き涙してくれる父を見て、光希も涙を拭った。
光希にとって、娘の誕生は、人生で一番幸せで、幸せの絶頂期であった。
その後、両親の死、自分の事業の失敗、離婚危機。
ありとあらゆる不幸の波が光希を襲い続けた。
もう、これ以上、生き続けることはできない・・・。
打ちのめされた彼の人生は、再起不能だった。
いま、光希は白いメモ帳にベンを走らせていた。
遠いあの日のことを思い出しながら。
そばで、父はこの光景を見ているのだろうか。
息子の生き急ぐ姿を、押し留めるためたいと思いながら、そばで見つめているのだろうか。
静かに、書き終えたその紙を二つにおり、上着のポケットに忍ばせた。
静かに、小瓶を口に近づけた。
もう、その時は、迫っていた。
何も、思い残すことはない。
「父さんのことは忘れてください」
震えた字の文章が、小さく終わりを告げる。
目の前には、黄金の稲穂が子守唄のように、さらさらと音を立てて風に揺れていた。
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