まめな男

毎朝毎晩 必ず電話をかけてくる。

『おはよう』から始まり、『おやすみ』で、一日を終えるのだ。

 自分の予定を自分以上に把握している。

 おかげで私は、自分の予定を、朝、おはようと共に知ることになる。そして、自分の予定を確認し終えてから身支度を始めるのだ。

 

そんな日常が突然終わりを告げる。

 

ある朝、男から、電話がかからなかった。

 いつもと違う日常が始まった。目覚ましがわりの男からの電話が鳴らなかったせいで、私は会社に行くのが遅れた。目が覚めたのは会社からの電話がかかったからだ。

 無遅刻無欠勤の私が何の連絡もよこさず出勤して来ないので、同僚が心配して電話をかけてくれたのだ。慌てて家を飛び出し会社へ向かった。


(何で電話かけて来ないの?)

私は、男に何かあったのか?という心配よりも、電話して来なかったことに、腹が立っていた。


 男から毎朝毎晩電話がかかり始めたのは大学生の頃だった。

 確か、サークルの飲み会に誘われて初めて参加した時、偶然隣同士だった。何となく、交わした会話が、だらしない性格なんだよね、という内容だったと思う。

男は、すごく真面目な表情で、

『じゃ、俺が、マネージャーしてあげるよ。君がちゃんとだらしなく生活しないように。』

なんて言ってきた。

冗談だと思いながらも互いの連絡先を交換した。そして翌日から男の朝晩の電話が日課となった。

 別に男女の関係みたいな、俗に言うカレカノでも、何でもなかった。その頃の私には、ちょっと憧れている先輩もいたし、男が好みのタイプというわけでもなかった。それは、私だけじゃなく、男も、私に、彼女とかそういうのを求めているというわけではなさそうだった。変な関係だとは思った。

友達でもない。恋人でもない。ただの知人。まめな男だ。

 お互い何も求めず、ただただ、朝晩電話をくれて、予定を伝え合うだけ。私にとっては、便利屋さんかな。

 

ところが、だ。ところが。もう二年以上も続いてきた電話が突然かからないなんて。

 (止めるなら止めるで先に言っとけよ!)

私は腑が煮え返るような苛立ちを必死で堪えながら、上司に頭を下げ、同僚に礼を言い、平静を装い仕事に向かった。

 その日、とうとう、男からの電話は、かかって来なかった。メールも何も、来なかった。

 

私の方から、メッセージを入れてみたが、既読にもならなかった。私は、やっと、男に、何かあったのでは?と、心配の気持ちを抱いた。

 

何の音沙汰もなくなり、一週間が過ぎた。

 男からは、一度も電話は掛からなかったし、メッセージも届かなかった。

 やっと私は、男が、私との縁を切ったのだと理解した。

でも、なぜ?

だけど、なぜ?

 頭の中は疑問符でいっぱいだ。

どうして突然なのか?

どうして、連絡が取れないのだろうか?

ずっと未読のメッセージ。癪だけど、自分から、何回か、電話もしてみた。呼び出し音は聞こえるのに、一向に、出ない。


 理解不能。頭の中を渦巻く。理解不能。

 

私にとっては、ただの便利屋マネージャー。私から見たら、ただのまめな男。

 

 そのうち、男のことを考えるのも、アホくさくなってきた。どうせ彼氏でもないし。好きでもないし。関係性に名もない私と男の関係は、終わったのだ。

 

数年後、私は、会社の仕事関係で知り合った人と結婚した。

 もう、まめな男のことは、すっかり忘れた頃だった。

 見知らぬ番号から、電話がかかってきた。

 出ようか、どうしようか、一瞬ためらったが、気付けば応答ボタンを押していた。

「おはよう」

 聞き覚えのある声が響いた。紛れもなく、その声の主はまめな男だった。

私は、声が出せなかった。驚きで、心臓の音が電話の向こうまで聞こえてしまうのではないかと思うくらいバクバクしていた。

 何も言えずにただ立ち尽くしている私に、

「結婚おめでとう」 

 男の声は、張り詰めたような冷たい響きだった。私は咄嗟に電話を切った。

 (今更、何?)

 電話を持つ手が小さく震えていた。

 そしてはたと、気付いた。

 私のほおを伝っている生暖かい涙に。

 どのくらい時が経ったかわからない。でも、でも、私の中に、未だ、まめな男は住んでいた。ああ。私は‥‥‥‥。

 着信履歴は残っている。もう一度、話ができるかもしれない。いや、話したい。何で、突然電話をかけてくれなくなったのか。連絡が取れなくなったのか。

 けれども。

掛け直した電話の向こうからは

「お客様のおかけになった番号は現在使われておりません」

 無機質な声が聞こえてきた。

 さっきかかってきた番号に間違えないはずなのに。それから何度もかけてみたけど、結果は同じだった。


 私の中の、まめな男の存在は、色濃くなっていくばかりだ。


明け方、まだ日が上り切らないうちに、私は目を覚ます。結婚してからは、

『私ってさ、だらしないんだよ。』

と自分の性格を笑い飛ばしていた私が消えた。

毎朝、決まった時間に目を覚まし、夫のお弁当を作る。7時に夫を送り出す。洗濯掃除、一通りの家事を終える頃、まめな男が電話を鳴らしていた時間がやってくる。

なるはずのない電話を、私は手元に置いて、待っている。そう。なるはずは、ない。

 

夜、ふわふわのお布団に、潜り込む。夫が隣で、寝息を立て始める。そろそろ日付が変わる頃。私は、電話を手元に置いて、小さな灯りの中で、待っている。

 ありふれた日常。まめな男はやっぱり電話をかけてこない。かけて来られても、困るか。困るよね。今更!

 そう突き放してみるけど、どこかで、何かを待っている子供のように、淡い期待が胸を締め付けていた。

 

何の変化もなく。まめな男からの電話もなく。いつもと同じいつも通りのある日。

そう、いつもと変わらないその日、一通の、葉書が届いた。

(今時、葉書で同窓会のお知らせ?古風やな。)

フッと、ため息と笑いが私の口から溢れた。

結婚式以来、大学の頃の友人とは、殆ど連絡は取ってない。たまに、SNSで、見かけるくらいだったが、久しぶりに会ってみたいと思った。自分の中に、下心を感じながらも。

 あの、まめな男の消息を誰か、知っている人がいるかもしれないと思ったのだ。どうしても知りたかった。どうしても!

 

一日、一日、同窓会のその日が近づいてくる。知りたい、という気持ちはどんどん大きくなっていくけれど、それと同時に、得体の知れない恐怖も、大きくなってきた。だんだん、葉書の出席の文字に丸印を付けて投函したことに、後悔の念まで湧いてくる。もう、やめようか。具合が悪くなった、とか、都合がつかなくなった、とか。言い訳ばかりが頭をよぎる。しかし、その反面、やっぱり、ちゃんと知りたい、という怖いもの見たさの好奇心のような気持ちも、消せなかった。


そして、いよいよ、その日はやってきた。

 (みんな、大人になったなぁ。)

綺麗になった人もいるし、学生の頃は、華奢で可愛かったのに、結婚出産を経て、おかあちゃん、的姿に、変貌した人もいる。

男性より、はるかに女性の方が多く参加していた。見渡す限り、どこにもまめな男はいなかった。同窓会は、思いの外、話が弾んで、楽しかった。皆それぞれに、近況を語り合ったり、学生時代を懐かしみ、感慨に耽った。

「縁もたけなわですが。」 

 誰かが会を締めようとした時、私の隣から、

「そういえば、知ってた?」

 小声で耳打ちしてきた彼女は、あのまめな男と出会うきっかけになった、サークルの飲み会に、一緒に参加したY子だ。

「何?何のこと?」

 ガヤガヤした声に掻き消されそうになる二人の会話はやがて、数人の取り巻きの中にあった。

「それってもしや、消息不明になった子のこと?」

 誰ともなく、知ってるとか、知らないとかいう、声が飛び交う。

 まめな男は、消息不明者になっていた。ある日突然、誰とも連絡がつかなくなり、男の両親が血眼になって探し回っていたらしい。

 しかし、もう、それも、7、8年前の話で、

現在、見つかったのか、それとも消息不明のままなのか、誰も知るヨシはない。

 結局、誰も知らなかった。


結局、男は、いなかった。どこにも。

 

ただ。私の中にだけは、今もいる。

 

まめな男は、数年に一度、私の人生の転機に電話をかけてきた。


「おはよう、お母さんになったんだね」

「おめでとう」


「おはよう、再就職したんだね」

「頑張れよ」

 

私はいつも、何も言えないまま。

男は一言二言喋ると、すぐ電話は、切れた。

 

一度も、着信番号に繋がったことはない。

 

その後、私の中から、まめな男が消えることは、なかった。

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