3.青い顔


 人騒がせなその男が目を覚ましたのは、夜も遅くのことだった。


 倒れた男を見捨てるわけにはいかず、近くにいた人を集めて青天院に運んでもらった。倒れた男が運び込まれ、一時青天院の修道女たちは騒然となった。それでも急ぎ、見習いたちを集め青天院の病棟を使えるように整えさせ、なじみの医学士への連絡も素早く行われた。


 過労だろうという医学士の言葉に修道女たちはほっと胸をなでおろし、それと同時に、見目麗しい若い男の看病と聞いて、一触即発の事態に発展した。


 ファナのように男に見切りをつけた女ばかりが修道女ならばそんなことも起きなかったが、学院に通う見習いたちは不本意な恋愛の禁止を言い渡されている者も多く、修道女の中にも、家系の問題で仕方がなくこの道に進んだ者もいて、言い方は悪いが、ファナは腹を減らした熊の檻に生肉を放り込んだ気分だった。


 人助けは美徳。倒れた男を運び、看病してもらえる環境を整えたことで、窮地から助けられた恩は返したものと思い、争奪戦からこっそり抜け出そうとした時、運悪く、青天院長のシューキハが通りかかった。



「何事ですか、騒々しい」



 ぴしゃりと放たれた一言に修道女たちは口を閉じて、壁際に並んだ。


 逃げようとしていたファナもその列に加わる。


 今年六十になったシューキハは美しい白髪をきりりとまとめ上げ、鋭い目つきで修道女たちを見た。しゃんと伸びた背筋。いつ見ても隙がない。修道女の鑑のような女性だ。


 彼女はファナの憧れでもあるが、怖いものは怖い。粗忽なところが目立つファナは特によく叱られているから、なおさらだった。


 シューキハは修道女たちを睨みつけた後、病室を見て「ああ」と低く納得したような声を出す。



「あの人を助けたのは? 誰です」



 彼女の冷たい問いかけに答える者はいなかった。


 隣にいる誰かがファナを肘で小突いた。だが、今名乗り出ればシューキハにあの男の面倒を頼まれると分かり切っている。絶対に手を上げたくない。むしろ、あの男を看病したい誰かが手を上げてくれたらいい。


 そう思ってじっと顔を伏せていると、シューキハがため息をついた。



「誰が連れ込んだのか、見当はついていますよ。嘘をつくなら罰として寒空の下、壁の塗装でもしてもらいましょうか。最近は雪も降りませんし」



 ゲッと思い、ファナは一瞬だけ逡巡したが、かじかむ手で刷毛を持つ自分を想像して、しぶしぶ手を上げた。



「他は解散」



 シューキハに命じられれば従うほかない。


 ぞろぞろと修道女たちが病棟から去っていく中、ファナだけが残り、シューキハと向かい合う。



「嘘はよくありませんよ」


「すみません……」


「最後まで面倒を見なさい。修道女たちの心の平穏のためにも早く彼がよくなることを祈ります」


「はい……」


「返事ははっきりと」


「はい!」


「よろしい」



 シューキハは口元だけで笑みを見せると、つかつかと去っていった。


 そんな騒動があり、過労だというわけのわからない男の面倒を見ることになってしまった。


 いつ目を覚ますかわからないため、そばを離れるわけにもいかず、眠気に耐えながら付き添った。妬みからか、運ばれてきたファナの分の食事はいつもよりかなり、いや、本当に量が少なく、この男を助けたことを後悔した。


 水で薄めたような汁物はいつものことだが、今日は一段と薄味のような気がする。


 食事を終えてしばらくすると、男が目を覚ました。


 もう普段なら夢の中、というような時間だった。


 赤い瞳がしばらく天井や辺りを見てさまよい、ファナを見つけると、息を吐いて目を閉じた。



「暴漢には襲われなかったようだな」


「……そのことに関しては、助かりました」



 男は二、三度、息をしてから目を閉じたまま「あの箱をくれ」と言った。



「俺でなければ開けられない精霊印が施されているはずだ」


「……どうして、一千年近く昔の遺物が、あなた宛てなの?」


「お前は、あいつから箱を受け継いできた子孫なのだろう。なぜ、何も知らない?」



 男はうっすら目を開き、赤い目でファナを見た。


 その目は純粋に疑問に思っているようだった。


 母のマニネは、この箱については研究しつくされていると言っていた。そして、言い伝えられてきたのも「ロスタルに渡して」とだけだ。


 ファナが黙っていると、男は寝台から起き上がった。眩暈でもしたのか、頭をおさえた。



「まだ寝ていた方が」


「今も箱を持っているだろう。出せ」


「え、それは……」


「壊せやしない。奪って逃げる元気もない」



 確かに、何となく青い顔は演技には見えない。


 ファナは仕方がなく帯で留めていた箱を出した。彼が現れたと同時に、濃紺の箱に姿を変えたそれ。金糸の封はつなぎ目がなく、ほどけそうにない。


 何となく、頭のどこかでは理解していた。


 この男がロスタルであり、箱は彼に反応して本来の姿に戻ったのだと。


 彼は箱を受け取ると、金糸を引っ張った。見る間にするすると糸が解け、光の粒になって消える。



「疑いは晴れたか」



 男は……ロスタルは、そう言いながら箱に現れたふたに手をかけた。


 ファナが持っていた時は金糸に封がされている状態でもふたの継ぎ目が見えなかったというのに、糸がほどかれ、精霊印が消えた今は箱の側面に上部と下部に分かれる隙間ができていた。箱自体、今まで発見されている精霊印がほどこされていたとされるものよりずっと状態がよく、よく見ると細やかな彫り物が箱にほどこされていて、当時の物造りの技術の高さを物語っている。


 何の模様が彫られているのだろうか。花……いや、花を咥える鳥だ。なんという鳥だろうか。この箱が作られた大昔に存在していた鳥だとしたら。



「近い」



 ロスタルに腕で払いのけられ、ハッとした。



「……す、すみません……」



 箱に夢中で、いつの間にか彼の懐近くにまで顔を近づけていた。


 そんなファナを見て、ロスタルはやや呆れたような顔をして、まだ開けていない箱を差し出してくる。



「お前が開けろ」


「い、いえ……これはあなたに宛てたもので……」


「構わない。開けたいのなら、開けて中身を俺にくれ」


「じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて」



 彼の手から箱を受け取る時、つい顔が緩んでしまった。


 まさか精霊印が解かれる瞬間を、目の前で見る日が来るなんて夢にも思わなかった。それに、そこまで厳重に保管されていた中身を最初に見ることができる。ファナは今が絶頂期に違いないとはやる気持ちを抑え、手汗を拭いてそっと箱のふたを持ち上げた。



「え……」



 箱は空だった。


 ファナはロスタルの顔を見た。


 彼は「そうか」とつぶやき、寝台に横になった。



「ま、待って。これ、どういうことですか」


「一千年前の約束が反故になったということだ」


「わかるように説明してください! これを守ってきたのは私たち一家なんですよっ」



 ロスタルは一瞬、鋭い目をしてファナを睨みつけた。


 血の気が引くほどの覇気だった。殺意と言ってもいいかもしれない。


 とんでもない憎悪を感じてファナは口を閉じ、自分の膝を見た。


 重い沈黙が下りた病室。


 ロスタルは深いため息をつくと、目を閉じてしまった。そして、それはすぐ寝息に変わる。眠りにつく前に答えてほしかった。だが、今更そんなことを言っても仕方がない。


 ファナも彼の寝台の横に座り、仮眠を取ることにした。
















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