第三章「ふたりのマリア」1-7

「えっ……」

凛はまさかそんな言葉が出てくるとは思わなかったかのように驚きの声を上げた。絶句したのかそのあとの言葉はなかった。それを見て磯村が言う。

「いや、なんか、その変なこと言うけど、同じ国、同じ時代に生まれたからというだけじゃ説明がつかないような『何か』が実は俺の体の中でさっきからうずいているんだ。これはもしかして、どこかで会った事があるからなんじゃないかって今、思って……」

「な、なるほど、一度、私達はどこかで会った事がある、その可能性はなくはないけど……」

凛も言っていたが俺は変化や違和感に対して敏感に察知する、それが正しいなら今、目の前に居る凛の反応も明らかに今までにない焦りのようなものが濃く出ていると磯村は見立てた。余裕に満ちていた態度が一瞬にして影を潜めたと。

「凛は何歳の時に生まれた時代から消えてしまったのか分かっているの?」

「正確な歳は分からない。ただ、おそらく保護された時の身長からして7、8歳じゃないかって言われている」

「7、8歳……随分、幼い時なんだな」

思ったよりも早かった。磯村がその歳だった頃、別の小学校に通っている異性と接した記憶など全く無いと断言していいだけに会っているという事はなさそうだと考えた。

 だが7、8歳の頃、行方不明になった女児……このワードである写真が点滅しながら浮かんだ。その写真と凛の顔を比べるように視線を凛へと向けた。5秒ほど考え込む磯村。

「……!?」

素早く磯村は動き出した。ポニーテールにしている凛の髪の毛へと手を伸ばす。

「えっ、えっ、ちょっと、なに?」

理性が働きそんな事を断りもなくしたら失礼だと抑える前に体が動いてしまった。場合によっては手を振り払われてもおかしくはなかったが、凛は戸惑いの表情を浮かべるものの磯村の好きにさせた。後頭部、髪がまとめられている結び目に触れているようだ。

「急にごめん、触ったりなんかして。お願いがあるんだけど一度、このヘアゴム解いてくれない?」

なぜなのか、理由を聞く事もなく凛は何も抵抗できないと言わんばかりに無言で解き、髪の毛が下へと広がる。同じように視線も下へと向いていたが。

「こっち向いて」

磯村に顔を向けるも目が小刻みに泳いでいるように揺れている。もしかしたら体全体が揺れて、いや震えているかもしれない。

「似ている」

そう一言、言い放った途端にズシンという音を立てて床に落ちるくらい重みのある言葉を言った。

「に、にている?」

「うん、似ている。俺が見たあの写真の子と」

ここまでの会話と比べて明らかに低い声だった。ようやく見つけた、こんな所にいたのか、様々な感情が渦巻く。誰にも辿り着けなかった真相に今、自分は居ると。

 一旦、凛から離れる磯村。横へと向き座り直す。重い沈黙が流れた。

「なに? 見た事ある写真に似ているって」

「えーっと、もしかしたら俺、凛の事をで見た事があるかもしれないんだ」

電撃が体に走ったようだ。そのような音も聴こえたような気がした。凛は硬直してしまう。

「凛はもしかしたら、俺が住んでいた場所から近い所で姿を消した。だから俺が通っていた小学校に情報提供を呼びかけるチラシが貼ってあった。俺はそれを見ていたから引っかかりを感じていたのかも」

「そ、そうなんだ」

「でもごめん。もう最後に見たのはかなり前だから凛の本当の名前、思い出せないんだよね。確か『宮』って漢字が書いてあった気がするけど、それも本当にそうだったのか自信なくて」

磯村はグーにした手を床に軽く叩きながら思い出せない事を悔しがる。

「いいよ、別にそんな必死にならなくても。それが私だって断定できる術もないんだし。それにたとえ私の本当の名前が分かっても何かが変わるわけでもない」

「……言われてみればそうだけど、凛は知りたくないの? 自分の本当の名前」

「分かるなら知りたいけど、さっきも言った通りそれで私の以前の記憶が戻るわけでもないし、今はもうこっちでの生活の方が長くなっているから、もういいかな過去の自分の事は」

「そうか。それもそうだよな〜」

磯村は再び両手を頭に乗せて横になる。もしかしたら自分がこうして凛と出会ったのは凛の本当の名前を教えるために巡り会ったのではと思いたくもなったが、現実はそうはなっていなく、それで何か解決できる問題があるわけでもなかった。すっかり興奮は冷めてしまう。

「ごめん。もしかしてその過去の事はあまりほじくり返してほしくなかった?」

憔悴と言ってもいい表情の凛を案じた。凛は凛で決して難しくない人生の切り替えを余儀なくされて今まで生きてきた。その決別した過去にもしかしたら久しぶりに触れて色々とマイナスな事も思い出させてしまったのかもしれないと磯村は徐々に罪悪感が生まれ始めていた。

「ううん、記憶はないんだからほじくり返すもなにもないんだけど、私って何者なんだろうって思うとなんだか急に心が不安定になった、そんなところかな」

「それいうんだったら、俺も似たようなもんかもな。これからどうやって生きていこう。凛は普段どうやって暮らしているの?」

「私は……あまり詳しくは言えないけど、特殊機関に所属してそこで協力してあげている。ほら、時の揺り篭をさまよっていてそこから保護された貴重な人材というのもあって。事実、歳を取るスピードが通常より遅いというのも認められているから研究材料になるの。それ以外だとやっぱりなんだか地に足がついていないふんわりと暮らしているのかもね。やっぱりいるはずのない人間という制約は厳しい面はある。それでも思ったよりは楽しめているけど。未来の技術はなんでも可能にしてくれるからね。風来坊みたいな生活って言えばいいのかな」

「きっとそれだよ、自分が何者なのか分からない理由は。そういう生活も良いけど、いつかは身を固めてはっきりさせないといけなって思う。そういう意味では結婚して家庭を持つって、生きる意味が明確になる手っ取り早い方法なのかもな。そうなったら嫌でも働いて家族を守らないといけないわけだし」

「結婚か〜。考えた事ないや。良いきっかけだからここで言っちゃうけど私、禁じられているの。結婚どころか恋愛も。だって本来ならいないはずの人間だから」

「……そうなんだ。ごめん、これこそあまり触れられたくない事だったかな」

「でも、もしかしたら……」

今度は凛の方に何か意を決して話す様子が窺えた。

「磯村くんとなら良いのかなって」

磯村はその言葉の意味をぼんやりながらも理解した。同じ境遇の二人ならそれも許されるのだろうと。が、いきなりそんな事を言われてなんて返して良いのかも分からない。これを冗談のつもりで言ったのなら思いつきそうであったが、もしも……。

「いきなりこんな事を言ってごめん。でも私も一人の人間である以上はそういう欲も当然あるんだよ。もう正直に言っちゃうけど最近、特にその欲求が強くなったの。今まではそんな大した興味もなかったんだけど、もしかしたらようやく遅れてやってきたんじゃないかって言われている」

急にここから逃げたくなってきた磯村。彼女が欲を剥き出しにした動物になりつつある。このままだと迫られそうだと起き上がり身構える。

「どう、私は? どうせバーチャルだし疑似体験という事でやってみない? 実際は一人で、妄想してやっているようなものだから」

「申し訳ないけどたとえバーチャルでもできない。いきなり今日、初めて会った女性とやるほど俺も遊び好きじゃないよ」

「本当にもう真面目なんだから……じゃあ一人でやっちゃおうかな。そろそろまたやりたかったんだよね」

凛は立ち上がり隣の引き戸が開いている部屋へと行く。

「ちょうど良いのがあるって思っていたの。これで試してみよう」

そこには健康、トレーニング器具として知られている青色のバランスボールが置いてあった。それに跨るように乗る凛。

「ちょうどここに何か出っ張りがあれば気持ちいいかもね」

そう言いながらワンピースの裾をめくり上げる。濃い緑と黒が混じったレースの下着を履いていた。

 何をしようとしているのかもう分かった磯村。ここは止めるべきなのか、必ずしもそういうわけでもない事でもあり迷いが生じる。だが、

「ちょっと、人前でそういう事やるかな? そういうのは普通は一人で……」

このくらいしか言えなかった。強く止める事はできない。いや、どこかでこのまま眺めてみたいという気持ちも存在しているかもしれないが性行為を拒んだ手前、そうなったら負けのような気がした。欲に屈すると。

 もう周りは見えていないのか、凛は無我夢中でバランスボールをどう使えば一番気持ち良いか探るように弾ませたり、転がし始めた。両手を床に着けて、四つん這いのような姿勢にもなった。そして、バランスボールをゆっくり上下に転がす。あの部分を意識して擦りつけた。その光景に吸い込まれそうになる磯村。もはやここから出て行くしかなさそうであった。このままでは理性が持たない。

「俺、もう出て行くよ。この際だからどうすれば目覚められるのか教えてくれないかな? この空間からも出たい」

「出て行っちゃうんだ。ひどいのね。別に見ているだけでもいいよ。好きな人にこんな恥ずかしいところを見られているのもそれはそれで面白そうだし」

「いいよ、見たくなんかないっ」

目を逸らしながら言った磯村。少し遅れて唐突に好きだと告白もされたとも気がついたが、その言葉はあまりにも軽く聞こえて告白されたという気持ちにはなれなかった。恋愛の告白とはもっと星のようにキラキラ輝いているものではなかったのか。これはあまりにもそれとはかけ離れた怪しい赤い光を放つ罠のようにしか見えなかった。

「そんなに出て行きたかったら、頭の中で念じれば目の前にスクリーンが出てきて、ログアウトを選択すれば目が覚める」

「分かった」

その説明で理解したとは言い難かったが耐えられずそそくさと部屋から出る磯村。去り際、「ふふっ」という笑い声が聴こえた。

 出て行った事の不満は間違いなくあっただろうが相手がいる、いないはまだそこまで関係のないようにも見えた。性的快感を知ってからまだ日が浅く、それをまたとにかく急ぐように感じたい無垢な少女のようだった。そこから彼女はどんどん慣れていき、そっち方面でも大人への階段を登るのだろう。

 それなりの時間が経ったと思うが空はまだ夕焼けのままであった。もしかしたらずっとこの状態を維持するように設定されているのかもしれない。階段を降りて言われた通りにこうしたいと念じてみた。

 眼前に半透明のスクリーンが出てくる。英語表記ではあったが本当にログアウトしますか? と確認のメッセージだとは分かった。

 ここまでできるのならもしかしたら携帯電話というのも似たように手に実物を持たなくてもあらゆる操作ができるようになっているのではないか。

 後ろを振り返る磯村。今ここの3階では女性が……。自分は何も悪くないはずであるが置き去りにしてしまったかのようにじんとなぜだが胸が痛む。

 この後、凛とどう接して良いのか分からない不安からであろう。なぜあんな風に体を張る女性ばかりと巡り会うのか、ここまでくるとそういう星の下に生まれたとも言いたくなる。

「嬉しくないのか?」と聞かれたらそれは一瞬の快楽で、誘惑の果実である。大体その後はろくな目に遭っていない。


「恋愛ってやっぱり難しい……どうすれば良かったんだろう」

目先の快感に浸りつつも、ボソっとこんな事を呟いた凛であった。

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