第三章「ふたりのマリア」1-8

 目が覚めた、視線の先にある透明の窓を見てそう思う。あれからどのくらい時間が経ったのか、そもそもこれは本当に現実リアルなのか判断がつかずまだ混乱しているのが分かる。

 機械音と共にカプセルの扉が開いた。何やら音声も流れてきたが聞き取れず意味は理解できない。立ち上がる磯村。まだ意識が完全にこちらに戻ってきていないのか、地に足がついているという感覚はなく、頭だけ宙に浮いているような気持ち悪さがある。

 受付に居るあの女性がこちらに気がつく。やはりフランス語で何か話しかけてきたがこれに磯村はとりあえず、「あなたは英語は話せますか?」という意の言葉を英語で聞いてみた。それに女性は「OK」と笑顔で快諾した。

「どうでした、楽しめましたか?」

「はい、とても驚きました。この技術はとても素晴らしい」

「それは良かった。あなたにはお部屋をご用意しています。そちらにご案内しますね」

「ありがとうございます。是非お願いします」

「私の肩に掴まってください」

早くも慣れたかもしれない、瞬時に別の部屋へ移動した。その部屋は磯村の生きる時代に合わせた、高級マンションを思わせる豪華な部屋であった。それには欧米人のように大袈裟に驚く磯村。とにかくこの場は無理してでも喜びを表した。

 女性はまた聞きたい事があれば何なりとお申し付けをという言葉を残して去って行く。凛は一緒ではないのかなど特に詮索されずに助かったと思う。今、凛が何をしているのか、そして自分の英会話力と二つの意味でどう答えてよいのか分からない。

 こんな部屋を用意してくれるという事は待遇はかなり良いとみられる。女優として、歌手としてブレイクした伊藤の住む部屋よりもお値段は高いような気がした。これも凛と同じように貴重な人材として何か研究とやらに協力してくれる事を期待してのことか。おそらくなに不自由なく、やりたくない事はしなくても許される範囲で好きに暮らしていける気がした。

 いつかヒット曲を生み出してこんな部屋で暮らせる日が来れば、そんな夢を見ないわけではなかった。その夢が一つ叶いはした。

 磯村は「はぁ」とため息をつく。今は虚無感しかなかった。何の努力もせずいきなりポンと渡されても達成感も充実感もなにもない。上っ面だけが華やかで中身は空っぽとはまさにこの事だ。

 灰色のソファに靴を脱ぎ寝転がる。脳はまだいまいち夢なのか、現実なのか判別できていないようだ。それにより落ち着かない、胸騒ぎがする。今はこの状態から元に戻るまでこうして休んだ方が良さそうだと判断した。

 目を瞑ると凛の姿が現れた。上品なワンピースを着ているのに、バランスボールに両足を開き乗っかりあの部分を擦りつけている凛……。思い出しただけで勃ってきた。首を小さく振りやめろと言ってもこればかりは自分の意志でコントロールするのはなかなか難しい。

 結局あの場は逃れられても、またすぐに似たような状況がやってくるのではないか、こちらはいわば向こうに管理されているような状況に等しいのだから。このタイムマシンの中も相当、広いと言っていた。しかも自由に移動するには中の構造、間取りを頭の中に叩き込み、行きたい場所を具体的にイメージしないとアクセスはできない。部外者が悪戯に中を漁れないようになっている。今のところ逃げる場所はないという事だ。

 磯村も一人の人間だ。当然こうしてまだ生きている以上は凛のように発散をさせたい時が来る。その時、一人でやるのか、はたまた凛と……そう、選択肢はこの二つしかない。

 凛の第一印象、知識は豊富でこちらの質問に落ち着いて分かり易くて答えてくれる頼れる存在。が、性に関してはまだそれに興味を持ち始めたばかりの年頃、一気に子供へと様変わりする。このギャップ、まるで都合良く作られた偶像のようだ。性欲を満たすにはなんとも興味をそそられる相手だが、「やっぱりな〜んか、上手くいかないな」

純粋な好きという気持ちを胸に自らの意志で決心して、交際を申し込む、そんな経緯で女性と付き合う事はできない人生であった。女性の方から寄ってきてくれるのはそれはそれで羨むような事だが、なぜかその後は一筋縄でいかないという言葉が全てに当てはまる。

 そういえばこれだけ便利になりすぎて、逆に困ると言ってもいいくらい便利になりすぎているこの時代でのセックス事情はどうなのだろうか。凛のあの様子からして昔から変わらないセックスを求めてきたような気がする。

 中学生時代、とあるゲームソフトをプレイした時に男女が性交をしなくても工場で大量生産されるが如く簡単に子供がつくれてしまう世界がある作品があった。

 そのゲーム内ではペットショップで動物を買うかのようにかなり都合良く子供が夫婦の元へ渡るようになっていたが、理屈はどうであれそんな選択ができる時代になってもおかしくないと思った。不妊などやもを得ない理由がなくとも、男女が交わらず子供を授かる事ができる時代に。

 そうなっていたとしたらセックスという行為に何の意味があるのか? もはやただの己を満たすだけの、道楽に過ぎなくなるのか。

 全ての行為は死ぬまでの暇潰しに過ぎなくなる——そんな言葉が思い浮かんだ。


 そんな衝撃的な事があったのですっかり吹き飛んでしまっていたが凛にはまだ聞きたい事があったのを思い出す。

 不自然とは思われず、上手く話の流れを作ってした最初の質問はこちらの思うような展開にはならなかった。今、思えばそうせないためにあんな大胆な行動をしてこちらも撹乱させたのか? さすがに考え過ぎだと思った。

 次の疑問には期待できそうな答えが返って来る予感はした。

 が正直、十分にコミュニケーションを取れるなら凛以外が望ましいところであったが現時点では凛以外、日本語で意思疎通ができる人を知らない。やはりまた直接、聞いてみるしかなかった。

「他に人はいないのか?」などと聞いたら「私じゃあ嫌なの?」なんて返されてまた面倒な事になりそうなのも想像に難くない。

 とりあえず今は正常な状態に戻るのを待つ、と思いつつその胸に持つ疑問について整理する。

 記憶が操作できる時代——なら真里からなぜ磯村だけの記憶がピンポイントで消えたのか、原因が解明されているのではないかとみている。今更、原因が分かったところで仕方がない部分もあるが長年、この疑問を抱えたまま生きてきて諦めていたところにいきなりそれを知る事ができるかもしれないチャンスが巡ってきたのである、飛びつかない理由はない。

 長年の疑問と言えばもう一つ……。あのCDに写し出されていた女性は真里なのか? 普通はもの凄く似た別人という結論に至らざるを得ないのだが、こんな世界を見てしまったらもしかしたらというのはある。あれはやはり真里にしか見えないのだから。唯一の違和感としてやや幼いかもしれないというのがあるのだが。

 幾ら歳月が流れても一度、目にした瞬間、絶対に忘れられないと頭に、胸の奥に突き刺さり刻まれたあの写真。ほら、今もこうして噴水のように勢いよく吹き出して磯村の元に降って来る……。

『ルームナンバー07890へ移動しますか?』

日本語に訳すとこのようなメッセージが現れた。

「えっ、なに?」

イエスか、ノーを迫られている。ここまでの過程で、何がきっかけでこのメッセージが表示されたのか理解できない。とりあえずイエスを選択すれば何処かへ行ける、そのような意味のメッセージとは漠然と分かる。

 一体どこへ連れて行かれるのかと思いつつも、この中は好き勝手な移動が容易にできない仕組みになっている事を踏まえれば、磯村がここへ行きたいと望んだ事になる。それと合致する場所があるということか。

 磯村はゆっくりと頷き、イエスという意思を送った。

「いてっ……くぅ〜」

ソファに寝転んでいた状態で移動する事を選択したため、ソファの高さ分、床に落ちる格好になった。身構えることもできず落ちたため痛みはしばらくうずくまりたくなるほどであった。

 腰に近い部分を押さえながら辺りを見渡す。暗い部屋である事が分かったが一点、強い光を放っている箇所があった。

 自ら望んで来た場所、それが念頭にあったため恐る事なくその光へと近づく。まさかと思いつつも……。

 どうやら縦長の、棺桶みたいな入れ物が横たわっているらしい、その上の部分の一部が光っている。磯村は見下ろすようにその光を視界へ入れる。そこには……。

 今までの事、全てが空高く、彼方へと吹き飛んだ。何もかも振り払われた磯村は身が清められたように軽くなった。完全暗転する周辺、残されたのは磯村とその白い、見つめていると安らかな気持ちになるような光だけであった。

 やがて苦しくなっていく胸、心臓。ドクン、ドクンと鼓動も聞こえてきた。そして——

「まっ、真里っ!」

そう叫ぶと同時に上半身を屈ませて飛び込む勢いで近づく、瞳を閉じている真里の顔へと手を伸ばそうとした時、透明の壁で阻まれる。

「おいっ、真里、真里、本当に真里なのか?」

ドン、ドンと叩く磯村。気が動転しているはずであったがあまり強く叩くと真里がかわいそうだと、彼女の愛おしい顔を見てそう思ってしまった。



 空からドアを叩くような音が聞こえた。平穏を脅かす巨人の足音かと思ってしまった。ここへ部外者が来るなんて初めての事で怖くなり耳をふさいだ。

「誰? 誰が叩いているの?」

誰も壊す事も、侵入する事さえできないと思っていた秘密の花園に初めて危機が訪れた。

 今も鳴り響くこの音を聞きながら空を見上げると、空が堕ちてくるような気がした。そう思ってしまったら最後、空は灰色になり雫を滴らせる。

 雨は夜を導く、雷鳴まで響き、花園の最後を告げるようであった。逃げるように大木まで行き、雨を凌ぐ。

 強くなる雨、鳴り止まない雷、徐々にその音は誰かの叫び声に聞こえてきた。黒い空に魔王のような顔が浮かんだ。鋭い目つき、裂かれた口、その目、口の部分は赤い色に染まる。

 早く、早くこの危機を立ち去れと願いながら顔を伏せた。

 そこにいつも遊んでくれる少女が現れる。

「マリちゃん、落ち着いて。これはマリちゃん自身の心の乱れから来ているんだよ。マリちゃんが深呼吸して、平常を取り戻せば綺麗さっぱり無くなる」

心の乱れ……とは言うものの私はここまでいたって今まで通りに過ごしていた。そこにいきなり不穏な音が鳴り出したのだ。私は何も悪くないはずだと言い聞かせる。誰か、誰かが迫って来ている、そうとしか言いようがない。

「どうすれいいの? どうすればいいの?」

このままだとこの花園は崩壊する、それを黙って見ているしかないのか、何か、何かできる事はないのか、必死に頭を働かせる。

「目覚めろと言っている。誰かが迎えに来たみたいだ」

いきなり現れた少年。茶色いフード付きの合羽のようなもので覆われて顔はよく見えない。

「気がついていないだけで、君の背中には最初から白い翼があるんだ。その翼でここから飛び出す事は簡単にできる。いつそれに気がつくかは君次第だったんだけど、まさか目覚めろと追い詰める者が現れた。君が何らかのきっかけで、いつかここを飛び出す事は予感していたけど、まさかこんな形だとはね。さぁ、その白い翼で羽ばたくか、それともまだここに留まってこれまでのように延々と、永遠に甘い香り漂う日々を繰り返すか、選ぶといいよ」

青い、澄み切った空を見上げる度、あの高さまでいきそこからこの世界を見下ろしてみたいと思っていた。あそこからはどんな景色が見えるのだろうと。

 飛べない鳥が憧れた空、錯覚で翼を広げ羽ばたかせた。羽は現れるはずもなく飛んでも落ちていくだけであった。マリはその言葉が信じられない。

 嵐は弱まっていく。このままいけばあともう少しでやむのではないかと思わせた。

「どうやらこの喧騒もいつまでも持たないみたいだね。来訪者が諦めかけているようだ。どうする、このまま何もしなければまたいつものように静寂が訪れて、隣の少女とも戯れられる。それで君がいいと言うのならそれで構わない。けど、次その翼を広げたいと思っても、今日のように簡単にとはいかないかもしれない。この嵐は不吉だと見せかけて実は助けになっているんだよ」

「マリちゃん、私の事は好きだよね? ならこのまま一緒にいようよ。ねっ?」

双方の言い分を聞いてどうするか困るも、どす黒い厚い雲で覆われている空の先にマリは不意に太陽を感じた。この雨も風が強い逆風の中、そこに向かって羽ばたいた時、その先にずっと私が求めていた風景が見られるのではないかと思い描いた。


「真里、真里……真里なんだろう? 頼むから目を覚ましてくれ……」


 あの魔王の顔が悲しみに変わった? 迷子のような泣き顔をしているように見えた。その顔を見た時、寄り添って慰めなければと思ったマリは……。

「今、いくね」

不思議と先ほどまでの迷いは最初から無かったかのように消え失せて、スッと立ち上がり綺麗な白い翼が広がる。私は行かなければならない、その一心であの魔王の顔の元へ、さらにその先へ飛び立つ。

 新しい旅が始まる、その溢れる期待でこれからどこまでもゆけるような気がした。この左手首に巻かれている腕時計を付けていれば不可能なんてない。



 ピーッ。と、頭が痛くなるような電子音が鳴った。その音を聞いて仰け反り尻もちをつく磯村。

 慌ただしい音声が何度も流れる。相変わらず何が起きているのかその音声を聞いても把握できないが良からぬ事だとは分かる。こうなってしまった原因は大方、自分なので血の気が引いた。

 プシュー、という音、煙と共に蓋が縦に開いた。同時にこの部屋が一気に寒くなってきた。この震えは寒さからか、或いはまずい事をしてしまったかもしれないという恐怖からか、どっちも有る気がした。

 眠っていた少女が目を覚まして上半身を起こす。キョロキョと周りを見渡す。その眼は生まれたての雛のようにつぶらであった。

 視線が合った。ドキッとする磯村。少女の方は笑顔が花開き、飼い主の元へ駆け足で向かう子犬のようにこちらへ向かってきた、「恭ちゃん!」そう潑剌はつらつと言いながら。

 やはり知っている声であった。その声でまたあの名を呼んでくれた。もうそんな日は来ないだろうと思っていて、記憶の中の真里にいつも呼ばせていた。

 幾つもの辛い夜を越えて、ここまで月日は流れた。その時をおもうだけで磯村は涙を抑える事はできなかった。とめどなく流れる。ようやく、ようやく、また自分の元へ来てくれた、その笑顔を向けながら。

「真里、お帰り」

磯村も力を振り絞り、立ち上がり距離を詰める。お帰りとは一体どういう意味であろう、自分でも分からないでいた。だが、やはり磯村は彼女をずっと待っていたのだと認めた。


——いつの日かまた巡り会えたなら、何も言わずに微笑んでほしい……。


 あの歌詞が浮かび上がり、メロディに乗せて再生された。その歌に込められた願いはどうやら叶った、そう思うと同時に二人は抱きしめ合った。久しぶりに抱きしめて背が低いと思った磯村。その感覚、感触も思い出そうとした。

「ん? うぁっ! 真里、お前なんでこんな冷たいの?」

感動の再会も束の間、真里の全身は冷凍されているかのように冷たかったのでたまらず身を離してしまう。

「えっ? あっ、本当だ。じゃあ、今度は恭ちゃんが私を温めてよ」

少しの間、のちに磯村は「は、ははっ」と笑ってしまった。

「あれ、今度はって俺達にもそんな事あったっけ? ところで真里、今いくつか分かるか? なんか俺が知っている真里よりさらに幼くなっている気が……」

「えぇ、そうなの? 私は今……18のはずだけど。」

「じゅ、18か。なんか、やっぱり幼児退行しているとまではいかなくても、ちょっと……」

「逆に恭ちゃんはなんか老けた?」


 ガクンっと部屋の中が大きく揺れた。この揺れの大きさは地震、爆発など大きな危機が来ている事を思わせるものであった。

「うわぁぁぁー!」

青年の絶叫が轟く。それには身を寄せて怯える二人。

「なんだ、なんだ? 何が起きたというのだ、これは? いきなり僕の体に銃弾みたいなものが突き刺さった、原因はなんだ?」

英語でそう喚き散らしていた。二人には細かい意味が分かっていない分、その得体の知れない恐怖が増幅していく。

「着弾場所は……ここか。ここで一体何が起きた?」

狙いが定められて、明らかに真上から声が聞こえてきた。


『Unknown』


 磯村と真里はそう解析された。

「こいつらか。なぜ未知の物体が二つも……どうやって侵入した? いや、誰か連れ込んだのか? これだから人間はやっぱり信用できないんだ。いずれにせよ直ちに排除にかかる。僕をこんなに動揺させた、単なる悪戯ではないと思っていいだろう。解体モードを発動させる……!」

鎖が引き千切れるような音が絶え間なく鳴り響く。聞いた事もない音に二人は身動きが取れなかった。そして間もなく……。

 フワっと二人は重力から解放されたように浮かぶ。いつの間にか辺りはブルーホールのような深い、暗い青に包まれていた。

 意識が遠のく、そうなると二人の手は離れていく……嫌だ、せっかく再会したのに離れたくなんかない、そう強く思うも、その想いさえ優しく、暖かく鎮められてやがて静寂を取り戻す。

 ものすごく安心する。私は、僕は一人ではない、そう最後に感じたと思う。

 揺り篭の上ですやすやと眠る赤子のようにそっと瞳を閉じのであった。


 起動以来、初めて想定外の事態に見舞われた『UMEHARA』はその後、約一ヶ月間、機能不全に陥る。これだけ復旧が遅れたのは『UMEHARA』が人間不信になってしまった事にも起因していた。


「はぁ、はぁ、あっ!……きた……うっ……。はぁ、はぁ。ふふ、磯村くん……」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る