第三章「ふたりのマリア」1-4

「えっ、なにを言っているの?」

 磯村は上半身をさっとを起した。辺りを見渡してみるとここは天から地まで真っ白で覆われた部屋だった。自分が横になっていたベッド以外、何も家具などは置いていなくて呆気にとられる。

「最初は信じられないのは無理もないけど、いずれこの言葉は本当なんだって認める時がくると思うから、焦らずいきましょう」

「いや、焦らずというか……ここはどこなのですか?」

「だからさっき言ったじゃない。タイムマシンの中だって」

 この質問をしてまとまな返事が返ってこないと見切り、別の疑問を投げた。

「じゃあ、なんで僕はそんな所にいるのですか?」

「それはね、自分が今日取った行動を振り返ってみれば分かるかも」

 すんなりとは答えてはくれず、自分で考えさせてクイズ形式にしている事に多少、ムカっとくるがボーっとしていた頭を目覚めさせ、直近の行動を思い出す。

「……まさか俺、あの後やっぱり海に落ちたのか」

「そう。あなた最初はすごい酒臭かったもの。全く危機管理が疎かになるまで酒に酔うなんて、せめて海の近くなんて行かなければいいのに」

 触れないでほしい所をズバッと指摘されて胃が痛くなる思いだが正論を言われて反論できないのもまた悔しい。

「という事は、助けてくれたの?」

「うーん、そうとも言えるかもね。ただそのまま海の中だったら申し訳ないけどこちらの範疇ではない。あなたは海に落ちた瞬間に時空の穴を通り抜けて、いわば別次元に投げ出されたの。そこを私達が保護したってところ」

 よく聞くといえばよく聞く話だった。しかしそれはあくまで作り話であることが前提で。海に転落した、だが自分は生きているのも事実。まともに考えるのなら。

「……もう一度聞くけど、ここはどこなの? 本当に病院とかじゃないの」

「メディカルチェックをする部屋ではあるけど、あなたが想像しているような病院ではない。だってここは」

「タイムマシンの中」

「そう、分かっているじゃない」女は満面の笑みで答えた。

「だったら、もしも本当にそうなら俺を元の場所へ返してくれよ。人攫いとかそういうのじゃないなら」

「残念ながらそれはできない」さっきの笑顔からガラっと形相を変えてシリアスな表情になった。

「えぇっ、どうして?」

「生きているのに変な感覚になるかもしれないけど、あなたもう亡くなっていることになっているの」

「……ど、どういうこと?」

「つまりあなたが生きた時代ではもう死亡扱いに等しいってこと。だって海に転落して、そのまま行方が分からないってなったら誰もが生きていてほしいって願っても心のどこかではそう思うでしょう」

「そうだけど、俺はこうして生きているんだから」

「しかもあなたの場合、かなり珍しいパターンなの。珍しいっていうか初めて起こった中でも、その確率は気が遠くなるくらい低い数字。そうだと知った時は誰もが頭を抱えて目ん玉が飛び出るくらい驚愕した」なんだか凄い事になっているらしい、唾を飲み込む磯村。その後に続く言葉を待った。

「あなたはあのまま海に転落して亡くなるというのが、あなたの人生だったの。つまりそこでお終い。その後の人生は用意されていない」

「うっ……そういうことか」ひどく落胆して、俯く磯村。

「あっ、今ので理解してくれた? 頭いいんだ」

「要は俺がこうしてまだ口を動かしている事、自体がおかしいな話って事だろう」

「うん、そういうことかな」

「じゃあ、やっぱりいないはずの人間が存在しているとあなた達にとっては都合が悪いって事か? 生きていた時代には返せないってことは」

 磯村は両足をベッドの外に出して床に足を付けて体を女の方に向ける。

「なかなか良い質問。その通り。本来ならもう亡くなっている人間がまだ生きているってなったらそりゃあ黙ってはいない。未来が根本的に変わってしまうもの」

 その言葉を聞いてもう一度、顔を下に向けて大きくため息をこぼした。

「俺はこれからどうなるんだ? まさか殺されるのか」

「さすがにそんな事はしない。それにね、経緯や背景はどうであれあなたみたいな境遇の人はどれくらい存在するのか具体的な数字は分からないけど、他にもいるのは間違いないの。私もその一人だし」

「君も?」

「うん。私も本当はどこか別の時代を生きていたはずなんだけど、あなたのように保護された。私の場合は記憶がなくて、どこの時代を生きたのか特定できないって事で帰る事ができなかったんだけど」

「ははっ。つまり俺の場合は記憶があるのに、もう亡くなっているという事で帰れないってわけか。確かになんでそんな事、起きるんだってびっくりもするわな。もしかして君みたいな人って失踪者としてその時代では扱われるの?」

「うん、そうだろうね」

「まさか本当だったんだな。俺の時代でもそういう原因不明の失踪者は何人もいるけど、人によってはどこか別の世界に飛ばされたんじゃないかっていう説を唱えている人もいるから」

「そういうの興味あるんだ?」

「興味あるのはどちらかといえば、このタイムマシンかな。本当に遥か未来では完成するんだ」

「そうなんだ。私も厳密に言えば未来人でもなければ、その道の専門家でもないからそこまで詳しく答えられないけど、答えられる範囲では教えても構わないけど」

「じゃあ……」

 未知との遭遇を受け入れる事ができないというわけではなく、むしろ眼を光らせる磯村。どこか心踊っているのが分かる。しばらく凛と話し込んだ。


 あなたはもう死んでいます、そう言われて生きているのだから笑ってしまう。死んだのに自身の人生をこうして振り返れるなんて世界で、いや宇宙で初めての人間ではないか。もう一度、横になり両手に後頭部を乗せた。凜はまたどこかへ行ってしまった。

「そっか。俺、こんなにも早く死ぬ人生だったのか」

 小声でそう呟く。なのにこうして生きている、まさに生と死の狭間にいるとはこの事ではないのか、新しい境地にいるような気がしてただひたすら己の境遇を確認しようと考えに耽る。

 まだライブツアーの途中だったのに残されたメンバー、スタッフは。ファンはやはり悲しんでいるだろうか。両親も心配だ。

 そんな事は本来、気にかける必要はない。死んでいるのだから。が会社に連絡もせずに仕事を休んでいるサラリーマンのように色々な事を気にしてしまうのは仕方がない。生きているのだから。

 曲がりなりにも社会的地位も築き上げてきた。そしてまだ20代という若さで亡くなることになっても、なぜだかそれはそれで仕方がないと諦めがつく自分もいた。残された人には申し訳がないが、もともといつ死んでも後悔しないように生きてきたつもりだ。そんな老後、年老いた自分なんて全く想像できないくらい、とにかく今を全力で生きた。その積み重ねの先にいつか死、というものが待っている。それがあの日だったというわけだ。

 心残りはある。せめてツアーは終えたかった。その後なら……。

 そして、これからは――もうどこの時代に生きる事も許されないらしい。時代から弾かれてしまった、凛のいう『時の揺り篭』を永遠に彷徨う、宙に浮いた存在、行き着く先もなく。

「でもね、殆どの場合はそのままどこまでいっても陸のない海、時の揺り篭に流され続ける事になるんだけど、理論上はまたどこか別の時代に流れ着く可能性もなくはないの。何かの拍子でまた穴が開いて今度は逆に時の揺り篭からどこかの時代へ……というパターン」

「そんな人が発見された場合はどうなるの?」

「急いで、言葉は悪いけど捕獲しに行く。その時代に存在しない人がいたら困るから」

 先ほどの凛との会話。別の時代に流れ着く、磯村はある可能性を浮び上がらせた。

「あれは、まさか、本当に真里なのかも……?」


「さすがにいつまでもこんな所に居たら退屈でしょ? 移動しようか」

 凛が急に姿を現した。足音が聞こえてくることもなければ、扉の開ける音でここへ誰かが来ると察知できるわけでもない。驚きの声を上げる事はなかったが軽く心臓が痛むくらいに驚く。

「移動って……結局、俺はこれからどうなるの? もうどこの時代に生きる事も許されないんでしょ」

「そう。だから残念ながら未来の時代へ足を踏み入れる事は原則できない。それは私も同じ」

「あぁ、そうか。じゃあ凛は普段どうやって暮らしているの?」

「それはね、要はこの時の揺り篭に停泊しているタイムマシンの中で暮らしているんだけど、おそらく磯村くんが想像しているような狭い船内で暮らすような生活ではない。ここで未来の驚くべき生活スタイルの登場ってわけ」

「未来の生活スタイル……」


 凛の肩に手を乗せて瞬間移動、という言葉がぴったりなさまで瞬く間に別の空間へ移動した。正面には何やら受け付け窓口と思わせるテーブル、そのテーブル越しには東洋美人と言える女性が一人、椅子に座っている。左右には球体のカプセルが鎮座していた。

 凛が声の調子を変えて受け付けの女性に話しかける。磯村はびくっとした。発せられた言葉は日本語ではない。しばらく意味が分からない、いわば音を聞いていると、発音の特徴からフランス語だと推測できた。

 この場面でここは日本ではないとようやく実感できた。英語であれば磯村も現地の人と軽いコミュニケーションが取れるくらいは身に付いているが、まさかこのタイムマシンの中ではフランス語が公用語なのか、早くもここで暮らしていけるのか不安が走る。

「じゃあ、この中に入って」

 凛からこう言われて左側の球体カプセルの中に入るように促される。

「入るって、この中で何をするの?」

「それは入ってからのお楽しみ」

 さぞ驚くであろうと期待している様子であった。もはや身の危険を案じるのもバカらしいという心境の磯村は言われるがままに中へ入った。

 背もたれが倒れている椅子のように座る。何の素材だと気になるくらい柔らかいクッションで座り心地は抜群であった。

「はい、では行ってらっしゃ〜い」

 頭上から凛の声が聞こえた。行ってらっしゃい? それはどういう事だと気になったのと同時に球体カプセルが動き出したと分かった。

 もの凄いスピードで真っ直ぐ進んでいると分かる。全身を押さつけられているようで背中を背もたれに付けて座っている姿勢から上半身を起こす事ができない。左右からはその鋭い軌道が感じられた。正面の小さな透明の窓には濃い緑色と薄暗い赤色が入り乱れた壁のようなものが見える。それは曲線のように歪んでいるように見えた。

「まさか、これが時の揺り篭……?」

 それなりに大きい声を出していたはずだったがそれは駆動音でかき消されていた。これは飛行機の中で似たような体験をしたことがあると思い出す。すなわちこの球体に乗ってどこかへ向かっていると読み取れた。凛の行ってらっしゃいの意味がなんとなく理解できた。

 と、今度は水色と青色に変貌した。そこに白も混じっておりまるで海中から空を見上げているような色彩であった。不規則に変化する色、これが時の揺り篭というのなら、それは一体何なのか? この光景に静かに興奮していた。

 数十秒後、ピーっという電子音が鳴る。重力から解放されたように体が軽くなった。そして扉が縦に開く。

 思わず身を乗り出して直ぐに確かめたくなるくらい、見慣れた景色が広がっているはずだと察知した。その予感は当たっていた。球体カプセルから出るとそこには磯村の生まれ故郷である、ここは日本だと思わせる街並みが眼前から、遥か遠くまで広がっていた。

 空を見れば夕焼け。高台に位置する公園に立っているとも分かった。遠くに周りの建物から頭一つ抜け出している鉄塔が見える。後ろを振り返ればいつの間にかあの球体カプセルは忽然と消えていた。ここまでくればもはやこんな事では驚かない。

 正面に向き直し磯村はなぜだか「帰ってきた」と思ってしまった。この街並みは高校時代、通学で乗っていた電車の窓から眺める事ができる景色と酷似していた。

 郷愁——胸が焦がされる。その痛みで両手で胸を押さえてうずくまりたくなった。

 見慣れたはずの街が異様に愛おしく映る時を磯村は経験していた。2年前、祖母が亡くなった。もうそろそろ危ないかもしれないと父親から連絡が来て一度、実家に帰って祖母のお見舞いをした。

 2年かそこら離れていただけでもまた地元は目に見えて変わっていた。再開発工事を終えて落ち着いたと思ったが小学生の頃から利用していた駅前のテレビゲーム屋、古本屋が遂に潰れてしまっていた。代わりに有料駐車場とマッサージ店ができていた。磯村の知る限りではこの二つの店が再開発工事前からあった最後の店だったかもしれない。

 祖母の家を久しぶりに訪れるとお隣さんがマンションの一室を買って引っ越したらしく家は取り壊されて更地になっていた。そこに新しい家が2棟できるとのことだった。既に1棟は住人が決まっておりもう間もなく建設に取り掛かるとのこと。

 変化は止まる事はない。無くなっていくもの、新しくできるもの、そうやって世の中は循環していく。そう思いながら夜空に輝く満月を庭の真ん中に立って眺めた。

 2ヶ月後、一度は危機を脱したが祖母は静かに息をひきとった。

 亡くなったら直ぐに葬式がやってくる。告別式を終えて斎場から出た時、つい数時間前も見たはずだが目に入ってくる街を前にして磯村は立ち尽くす。無性に、涙が出そうなほど胸を締め付けれたのはこの時だ。

 人間の死というものに立ち合い、自分だけ周りの人々とは別の空間を生きているような気がした。

 人生においてもっとも非日常を味わう瞬間、人間の死。やがて自分もそこへ行き着く。そんな事を考えるのはまだ早いと分かっていてもこの時ばかりは考えてしまう。その時、何を思ったか——

 またいつもの、あの日常を取り戻したいであった。仕事から帰宅するスーツを着たサラリーマンがスマホをいじっている、肩を並べて歩く男女、スーパー、飲食店で働く人々、あの人達のように日常の一コマにまた自分も入りたい。

 そんな空間から今は一時的に隔離されているのだと認識した。そこから眺めたこの日常はとても尊く素晴らしいものであった。

 火葬場に向かう直前、祖母の顔を見られるのが最後の時間、磯村は遂に泣いた。こんなに泣いたのはいつぶりだと思うくらい泣いた。それは両親、親戚一同も同じであった。この歳にもなれば涙を堪えるのは容易いと思っていたがやはりこの時も無理であった。

 この時も、というのはやはり高校二年の時に祖父が亡くなった時もまた同じタイミングで涙が流れるのを堪えようと思っても無理だった事を経験していた。

 なぜこのタイミングでいつも涙が止めどなく溢れるのか? その答えはおそらく分かることはないだろうと思いつつもこれが本当の『最後』という現実に涙するのだろうとあの時は結論を出した。

 『最後』人生の中で何度かその最後に出くわしている。磯村の歳だと真っ先に思いつくのは学校の卒業、ここでも普段は泣かない人まで泣くのも珍しくはない。

 それでもそれぞれの『次』の道が待っている。そこに視線を向ければ切替えもおのずとできる。まだ人生は旅の途中だと。

 だが『死』という『最後』に『次』はない。そこでピリオドが打たれる。新しいページがめくられることはない。

 それを突きつけられた時、言葉では言い表せない様々なものが胸に迫り来る、それを一言で簡単に表すのなら悲しい、なのだろう。

 普段、その最後を意識して生活する事はない。不意にその機会が訪れた。その度にいつも涙を流す、それだけとも言える。

 この目の前の風景は似ていたとしても、磯村が過ごしていたあの街とは違うのは言うまでもない。

 もうあの風景を見ることは、行く事は叶わない。そう思ってしまったら、やはり涙が零れそうになった。

 あの街に住む、あの人に会いたい——そうだ、そこにあの人が居るから帰りたいのだ。無人の街に、心惹かれることなどは有り得ない。

「うっ、うっ、うぁわー!」

泣き叫びながら数歩、前に進みひざまづく。まるで心の中にある故郷を抱きしめようとしたかのように両手を動かす。

 もうゆくことはできないあの風景。自分はこうして生きているのになぜだ? これほどの生き地獄はなかった。

「これからどうすればいいんだよ……」

 率直な感想だった。死んだはずの人間がまだ息をしている。が、帰るべき場所に帰る事は許されない。ではどうしろと?

「ちょっと悪い方へ刺激さしちゃったかな?」

 と、その時、凛が背後から話しかけてきた。


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