序章「螺旋」 1-2

 5月中旬頃から学校をちょくちょく休むようになっていた恭一郎。バイトにはちゃんと行っている、そのため平日は学校帰りに来ているためわざわざ制服に着替えて出勤している。もちろん学校を休むのは熱が出たとか体調を崩しているわけではない。ただ、なんとなく行く気になれなかった。いつもだったら申し訳程度の朝ご飯を食べて、急いで家を出て満員電車に揺られながら学校へ向かう時間帯。時間に追われることなくゆっくりと過ごす朝は快感であった。学校の授業が始まる頃に一人、部屋でベッドで横になっている、こんな日もあっていいと思うようになっていた。

 ところがその『沼』に抜け出すことは徐々に困難となっていた、最初は週に一、二回くらいのつもりだったが朝を迎えると「今日も行かなくていいか」を積み重ねてしまっていた。

 父親は当然の事ながら、母親も仕事をしているため朝は同じく準備に忙しく見過ごしてしまっていたが、さすがに黙っていられないと一度、母親に注意されてなんとか学校へ行った時があったがこの時、既に生活が昼夜逆転していたため授業中、睡魔に襲われて内容が全く頭に入ってこなかった。その生活の乱れを戻すことができずに翌週は遂に一週間まるまる休むというとんでもないことをやってしまった。

 中間テストはなんとか受けろ、そう母親に言われて無理やり足を引きずるように学校へ行きなんとか受けたが授業もまともに受けずに在宅での勉強もしてこなかった人が良い点数など取れるはずもなく何教科か赤点を取ってしまい再テスト、補習を宣告された。

 それで何か操り人形の糸が切れたかのように倒れこんでしまい6月からはもはや不登校と言ってよい状況に陥る。


 恭一郎のここまでの高校生活は褒めるべきところである。成績も良い、学校行事にも積極的に参加していた。だから余計にそんな生徒が急に学校に来なくなったことに先生も両親も戸惑った。

 やればできるんだから学校に来い、担任から電話がありこう言っていたと電話に出た母親から言われたがそんな言葉は何も響かない、むしろそんなことは分かっていますという態度ですらあった。

 そう信じて高校生活に臨んだ。中学生時代は親が特別、厳しかったわけではないのでテスト期間が近くならない限り在宅での勉強はしてこなかった。受験勉強も中学3年の夏からようやく個別指導の塾へ通うというやや慌しいものであった。

 中学3年生になって最初の進路相談で君の成績でいけそうな高校は限られ、希望している高校も入れるか微妙なラインと言われたのがショックだった。そこで初めて何も勉強をしてこなかった事を後悔して今からでも頑張ろうと奮起した。その努力は実を結び最初に希望してた公立高校に見事合格できた。

 もう一つ憧れがあった。クラス、学年の中心になっている、手を上げて発言する人、黒板の前で、体育館の舞台上に立っている人達。そういう人達は決まって頭の良い人だった。それをいつも後ろから眺めている自分、それをいつの間にか羨ましいと思う自分がいた。最初はむしろ人前に立って発言したりすることは苦痛なはずだった、でもそこから脱したい、変わりたいと強く願う自分が存在していた。そう認めた時には既に遅し、周囲の恭一郎に対するイメージは授業中、静かで黙っている人、自分の意見を発言することはないというイメージで固まっていた。そんな中でいきなりそれとは真逆のことをする、普段やらないことをやるというのは相当勇気のいることである。各学年が文化祭で出す演劇発表の稽古風景を見て小道具製作に回っていた恭一郎は自分もやってみたいかもしれないとポロっと先生に言って「来年挑戦してみたら?」と笑顔で言われた。だが演劇のキャストなど毎年やりたい人は大体決まっていた。しかも来年とは中学校生活、最後の文化祭で新参者がいきなり飛び込むことなんてしていいのかという変な遠慮があった。だから恭一郎の進学した高校に同じ中学に通っていた人が一人もいないと分かった時はチャンスだと思った。自分のことをまだ何も知らない人達には新しい自分を見せていこうと意気込む、結果はその通りになった。

 学校で目立つ存在になると女子からも気になる存在として認識される。たまにあの人、かっこいいという声はちらほら耳に入っていたがそれは今まで女子から興味すら持たれなかった人生を歩んできた者からすればちょっと信じられなかった。だが恭一郎は高校生になって初めて彼女ができる、しかも女性の方から告白された。これは夢にも思わなかったことだった。中学3年の時から急激に背が伸びてスリムな体型になり鏡をみた時、少しはかっこよくなったとは思っていたがこれで完全に自信を持つようになっていた。

 恭一郎の高校生活は上手くいっていた——


『最近、学校に来ないね、どうしたの?』

 6月11日、吉川真里よしかわまりからきたメール。念願の彼女であったはずだが今では申し訳ないがどうでもよくなっていた。早い話このまま別れることになるだろうと。そのメールには返事は返さなかった。

 他の人からも、同じクラスの友人を中心に心配するメールが何通か届く。最初は返事を返さなくても内容は読んでいたが、心配している人がいると思うだけで申し訳なさで胸が苦しくなり最近は読まずに削除してしまっている。

 何度、考えてもどうしてこうなったかはいまいち分からない。今まで面倒だと思いながらも行けてた学校に急にここまで行きたくなくなってしまった理由が。

 もしかしたら、本当は今だったら行きたいと思っているかもしれない。が、いわゆる世間の目というやつを気にすると、どうしても後ずさりしてしまう。何日も居なかった人が急にその場へ現れる気まずさ、自分が思っているより他人は気にしていないといっても本当にそうだと思える強靭な精神は持ち合わせていなかった。そして何より授業についていけない、これは休めば休むほど取り返しの付かないことになる。軽い気持ちで浸かってしまった沼に気がついたら抜け出したくても抜け出せずにいた。

 そしてその沼の根底にある核、卒業した後はどうするという人生で初めて直面する悩みであった。これさえなければもしかしたらここまで酷くならなかったかもしれない。

 明日は行ってみよう、そう思ったのも束の間、直ぐにそいつは牙を剥く。

 中学を卒業して高校に進学する、今となってはこれもなんで進学する必要があったのかと聞かれても困るものがあった。皆、進学しているから自分もした、それが正直な答えだと思う。

 もう直ぐ楽しい学生生活の終わりを告げる鐘の音が鳴るのが見えてしまっていた。あと4年、専門、短大でも2年あるじゃないかとは思えなかった。

 1日、1年が経つのが幼少期と比べて早く感じる、この感覚の変化も大人になっている証か。まだ何年あると安心して胡坐をかいて今までのように変わらずにいたらいつの間にかまた今日のような思いをすることになるのが目に見えていた。

 何のためにここまで生きてきたのか、極端に言えばここまで考えが及んでいた。一体何のためにここまで頑張って良い成績を取ってきたのか、その次に繋がるステージを見据えていたわけではなく単に中学生時代にできなかったことをするための自己満足に過ぎなかった。

 そんな考えが頭を埋め尽くすと学校になんて行く気になれない。少し立ち止まって考える時間がほしかった。連日、朝にくる学校からの電話、それを鳴り止ませるためにも一つの答えを出した。

「あのさぁ、留年は駄目かな?」

 辞めるでもよかった、でもそれは見えない圧力で言うことはできなかった。もう7月、夏休みに入ろうとしていた。口を閉ざしてた恭一郎からようやく言葉が発せられた。仕事から帰ってきた母にそれを告げると険しい顔をしながらもただ黙って数回頷いた。

「それでいいのね」

なんとなくこうなることは分かっていたという反応であった。

「いや、この先、何もやりたいこともなくてどうしたらいいのか分からないんだよ。だから少し考えさせて」

必要最低限の言葉であったが自分の気持ちを正直に話した、完全降伏するかのように平伏して暫くそっとしていてほしいと願うように言った。

「でも卒業はした方がいいんじゃないの? その後は好きにしていいから」

「その方が良いんだろうけど、それができたらこうはなっていないよ」

 学校側からは夏休みを利用して補習、テストを受ければ卒業への道は閉ざされていないと言われていたらしいが聞く耳は持たなかった。周りはなんとか助けようとしてくれるのに、それを親切、有り難いとは思えなかった。一体、自分は何から逃げているのか、正体の掴めない何か、から逃げているようだった。

 明日、母は担任に恭一郎の気持ちを話したが学校側はそれを許さなかったと言った。そして——

「もしもそんなに学校に来れないなら通信制の学校へ移るのはどうだって言ってたけど」

 思わぬ話が舞い込んできた、どうしても3年間で学校を卒業させたい学校側は他校への編入の案を持ち込んできた。

 通信制へ移る、その発想はなかった。どうやら簡単にいきそうにないと判断した。こっちも確固たる信念があって留年と言っているわけではない。本当に留年したら歳が違う知らない人達と馴染むのが大変だという懸念も聞いて一理あると思った。

 高校は卒業しておいた方が良い——そう、なぜ高校に進学したのかと聞かれたら就職、大学に進学するにも最低限必要な資格と言って過言ではない世の中だからと言える。当時の自分はそんな事は考えていなくても無意識にそのことがどこか頭の片隅にありそうしたのだ。

 今はどちらもする気はなくても、今後なにがあるのか分からない何十年と続く人生を考えればこれも異論を挟む余地はない。

「分かった、それでいいかも」

 気の抜けた声でそう言った。別の学校へ移るという大きな決断をあっさり決めてしまう恭一郎はその流れに身を委ねることにした。今はただ流されるままに。


 なにをするにも、この状況から抜け出すにも最終的には行動を起こさなければならない。必要書類を渡したり、説明を受けるために一度、学校へ行くことになった。さすがにこれは拒むことができない。夏休みに入ってから、時間はいつも通学する時間帯より遅めの午前10時と気を遣わせてもらい何からなにまで甘えていたが今はそれを申し訳ないと思う余裕はなかった。

 バイトへは行っているから全く外出していないわけではない。だがその時には感じない重苦しさが全身に纏っていた。ここ一ヶ月は早くても起きるのは午前9時、久々にそれより早く起きるだけで不機嫌になる。玄関の扉を開けるともわっとした熱い空気が飛び込んできた。下を向きながら先ずはバス停へ向かう。少し先を歩く自分の影を見るとその影へ潜り込み身を隠したいとなぜだか思った。

 電車に乗るという行為に違和感を覚えた。2年間乗り続けても一ヶ月という空白はその慣れた感覚を鈍らせる。電車内はもう空いていた、いつもの満員電車とは違う。そのいつもと違う光景は自分が今どこへ向かっているのかを分からなくさせた。4人が座れるボックス席の窓側に座りガラス越しから外を凝視して車内の人が視界から入るのを避けた。

「あぁ、久しぶりだな」

 そんな感想を漏らしながら高校の最寄り駅へ着いた。できれば来たくなかったがこの道のりには楽しい思い出の方が多い。それを気持ちよく振り返ることができなくなってしまうのはその思い出が無になるのに等しい、実に愚かなことをしているとつくづく思う。

 夏休みとはいえ誰か知り合いに会わないか不安であった。後ろめたくてもこのまま誰とも会わず立ち去りたい、我儘な願いをどうか叶えてほしいと天に祈りながら正門まで来た、そこにはもう担任が待ち構えていた。

「よう、久しぶりだな」

 笑顔でそう挨拶してくれた。無言で会釈すると職員室隣の客間へ通された。真ん中に長机がありその左右に二人ほどが座れる黒い革のソファーがあった。向かい合って座る二人、担任が話しを始めた。

「ほんと久しぶりだな。どうした、なんで学校に来なくなったんだ。お母さんも困らせて」

「なんというか、卒業後のことを考えると何も思いつかなくて、それで急にやる気がなくなってしまったんですよね」

「そうか。でもな、その理由を聞く限りお前すごいもったいないことしているぞ。そんなこと決まっていない奴の方が多いって。中には何も考えていないで適当に授業受けているやつもいるのに、なんでそういうこと考えているお前が学校来なくなって卒業できなくなるんだよ」

それができたらどれだけ楽だろうと心の中で痛感する、何も考えずに学校へ来る人を馬鹿にする資格は自分にはなかった。

「将来のことを考えるのは良いことだし、これからもどんどん悩んでほしい。でもそれでその可能性を逆に狭めていることに気がついてくれよ」

「わかりました、高校は3年間で頑張って卒業します。だからその通信制のお話を詳しく聞かせてください」

 学校から紹介されたのが普通科と通信科がある私立高校。オープンキャンパスのある日に出向きそちら側からも話を聞いてほしいということであった。ちょうど明日の土、日曜日にそれがある。恭一郎は明日、行くと言い担任もそれを伝えてくれるとのことだった。

 部屋から出てると一人の女子生徒から声をかけられた。

「あれ、もしかして磯村くん?」

背を向いていたのが幸いとばかりにその声を無視して先へ行く。声から察するに同じクラスのあいつだろうとわかった、部活で訪れているのか。結局こうなるのかと沈む気持ちを引きずり出口へ向かう。担任も察してくれという合図をその女子生徒に視線で送った。

「じゃあ、元気でやれよ」

 それが最後の言葉であった。もしかしたらまた考え直してここで卒業しようという話をしようとしていたかもしれないがそれを素早く断ち切ったかのように話題を自分が話したい本題に切り替えた。

 合わせる顔がない。最後の声も無視して確信した。横断歩道を渡り母校になるはずだった学校に最後の別れを告げるため振り返る。ここでの生活はなんだったのか、上々のスタートを切った1年の頃を思うと虚しかった。まだお昼前で人通りの少ない街中を歩くのはひっそりといなくなってしまう今の自分にぴったりだと思った。

 

 次の日、編入先となる学校のオープンキャンパスへ。家から前の高校より近いのがありがたい。来年以降、高校へ進学する人を対象にした説明から始まりそれは全く異なる事情で来ている恭一郎には居心地が悪くて仕方がなかった。その学校のプロモーションビデオなるものも見せられ、「楽しそうな学校生活でしょと」自慢気に話す説明役の教員が目障りだった。自分はその楽しい生活を放棄してここへ来ているのだから。

 体育館で全体説明をした後は何グループかに分かれての校内案内だった。ここまでの全てがどうでもよいことでただ座っていただけなのに精神的に疲れた、案内は在学中の生徒がするようだがここでまさかの人物が居た。

 中学生時代に2年生の時だけクラスが一緒だった野田が見学者に声をかけて、自分について来てほしいと促す。こういうことがあっても不思議ではなかった、何百人という同級生が近辺の高校へ進学したのだから。

 野田は途中から体調を度々崩すということで不登校となってしまい以後、卒業まで学校へ来ることはなかった。そんな人物が今は元気そうにオープンキャンパスのスタッフをやっている、それなりに仲が良く学校へ来なくなった時には心配していたのでなんだか安心した。

 しかし自分は本来ここにはいないはずの人物、恭一郎が座っているエリアは別の生徒が案内するということでホっとする。

 恭一郎は知る由もなかったが野田は恭一郎の存在に気がついていた。3年間は会っていなくて、背が伸びやせ細ったなという印象を持ったがしっかりと野田の記憶にも恭一郎は刻まれていた。だがここにいるのは皆、中学生。まさに居るはずがないということで恭一郎にものすごく似た誰かと解釈していたが、あまりにも似ていたため軽く慄いていた。

 校内案内も終わると職員室前で解散、希望者が個別相談をするという流れだったが自分の本命はこっちであったのでようやくという思いだった。

 これが私立の学校というものか、やはり公立とは設備面でえらい違った。ジムのようなトレーニング器具が置いてある広い部屋、各階に自動販売機、アイスクリームまで置いてあった。壁や床もまだ新しい印象があり学園ものアニメに出てくるような内装だった。事情を話し担当者が来るまで職員室隣にある相談室という名前の部屋で待ちながらこんなことを巡らせていた。

 数分経って40代くらいの女性教員が来た。若林と名乗った教員は親切、丁寧にこれからについて教えてくれた。通信制でも週に一回、土曜日に学校へ来てもらう、教材は送るから期限内に終わらせ指定された場所へ郵送してほしい。そしてもう一度学校へ来てもらう際、決められたテーマで作文を書いてきてほしいと。これが試験に相当するものであった。

 これでも文章を書くのは得意であった。最初から得意だった国語、そして唯一、小中高と一貫して褒められたのが文章表現の上手さであった。小学生5年生の時に書いた作文が先生から絶賛されて優秀な作文として廊下に張られた。ここまでされたら自信を持たない方がおかしい。

 これからこの学校で学ぶにあたっての抱負、というそんなものはないと突っ込みたくなるテーマであったが心にもないことを書く、こう書けば先生の受けが良いという文章もいつの間にか書けるようになっていた。それは学校側が求める回答を肌で、空気で感じ取っていたからだ。

 後日、その書いた作文を目の前で読んだ若林は唸っていた。

 前の高校から受け取った資料を読んでやはり9月に今まで休んだ分を取り戻すためのテストを受ける必要があるとこの日言われた。8月になる前に必要な教材を全て送りテスト範囲も添えるから先ずはそのテストに向かって勉強してほしいと言われ大体の手続きを終えた。

 オープンキャンパスから始まり怒涛の一週間であった。とりあえずよくここまで動けたと自分を褒めてやりたかった。ベッドの上で目をとじてそう思う。

 自分がいなくなったと聞いたら皆はどう思うだろう、そこは気になるところであったがもう前の高校を気にすることは止めにすることにした。携帯の電話帳を見て高校から知り合った人達の連絡先を消そうか悩んだ。おそらくもう連絡を取り合うことはないだろう、その程度の関係だったと思い知る。

 吉川真里、一番見たくない人の名前をみた。夏休み直前に今年も花火大会に行こうね、というメールが来た。前のメールに返事がないことは不問であった。あいつは今どう思っているだろう、さすがにもう怒って俺のことなんて知らないと見捨てられたかもしれない。あんな綺麗な彼女ができてもキスを軽くした程度で終わった、情けないと思いつつもどうすればいいか分からなかった、する勇気もなかった。

 最後に別れのメールを吉川にでも送るべきか、それがせめてもの筋だと。できなかった、このまま何事もなかったかのように過ぎ去ればいいとそう願うだけであった。


 8月に入った。バイトを終えて、たまたま同じタイミングで店を出る内田と途中まで一緒に帰ることにした。

「きょういちは卒業後の進路決まった?」

この時期、同い年の人と話すと嫌でも出てくる話題だった。

「まぁ、まだ学校決めてないけど進学だろうね、うっちーは?」

どっちもする気がないとは言えない、かといって就職するは有り得ない。一番無難なのは進学であった。

「俺は就職するんだ、もう決まっていて父さんが経営しているお店で」

「そうなんだ、どんなお店なの?」

「六本木にあって、バーみたいなところかな?」

 そこまで話したところで別れる、あまりこの手の話はしたくはない恭一郎には深いところまで話が及ばずに済んで助かった。

 右ポケットに入っている携帯が震える、着信を知らせるバイブレーションだった。メールがきていた。

 送り主は、吉川真里だった。

 その場で固まる恭一郎、とりあえず先ずは家に帰ることにした。逃げるように、振り切るように自転車を走らせた。だが夜空に輝く月のようにそいつはどんなに速く逃げても平然とした顔で追っかけてくる。

 家に着きまずは夕飯を食べた、風呂にも入った。歯も磨きあとは寝るだけ。まだあのメールの内容は見ていない、携帯の画面に未読のメールがあることを知らせるアイコン。

 次はどんな内容のメールなのか、さすがに二度も返事を返さない怒りのメールの可能性が高そうだと予想した。吉川が怒ったらどうなる、喧嘩なんてしたことがないのでどんな感じになるのか想像するしかなかったがそれは恭一郎が抱える後ろめたさでどんどん膨張して、とんでもない恐ろしい人物になっていた。

 やっぱりこれに関してはけじめを着けるしかない。決死の覚悟でそのメールを開く、こんなにも開くのが怖いメールは初めてであった。

『そういえばCDずっと借りっぱなしだったね、返したいからついでに久しぶりに会おうよ!』

 この内容は予想外だった。また返事を返さないことには触れないのか。なんだかそれはそれで気持ち悪かった。吉川の気持ちが分からない、彼女である自分をここまで放っておいて怒りを覚えないはずはない。それを変に気を遣わず正直にぶつけてくれた方がもしかしたら楽になれるのかもしれない。今度は俺を叱ってくれと言わんばかりの気持ちになり、心境の変化が激しかった。どんな気持ちでこのメールを送ったのか分からないが返事はしよう、別れの。CDはもう返してもらう必要はない。

 もう直ぐ日付けが変わる、多少遅くても夏休みだし問題ないだろう。なぜだか目上の人に送るように敬語になってしまった。とても別れるとはいえ彼女に送るメールではなかったがこちらの方がなぜかしっくりくる。せっかく自分を選んでくれた吉川には申し訳ないことをした、調子に乗らず中学生の時のようにおとなしくしていればこんなことにはならなかったかもしれない。これは身の丈に合わないことをした罰か、変わったとしてもやっぱり自分は静かに、教室の隅の窓から校庭を見ていた方が性に合ってたんだ。

 いよいよ送信ボタンを押す、無表情でも胸の高鳴りは最高潮であった。



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