青い薔薇
浅川
序章「螺旋 」1-1
今日も終わった。学校の帰り道、通学でいつも利用している電車を降り駅のホームに足を付けた瞬間、
腹が減った。電車にゆられている時、頭の中にあった欲求を満たすべく駅西口にあるマクドナルドへ向かう。
西口へ出ると大音量の工事音と共に橋上から広大な更地を臨むことができる。この駅は去年の2月から駅周辺の開発工事ということで大規模な工事が行われている。周辺のスーパー、商店は一旦、立ち退き昔から変わらなかった風景は消えてしまった。
その大型トラックや重機が置いてある更地を眺めながら歩く恭一郎はここまでの時の流れを感じざるを得なかった。それはどう言葉にしていいか分からない何かを感じていた。
マクドナルドでハンバーガーとマックシェイクのバニラ味を持ち帰りで買った恭一郎は東口広場へ移動して、そこのベンチに座り食べることにした。春を感じさせる暖かく強い風が吹く。袋が風に飛ばされそうになりやや苦労しながらの食事であった。ハンバーガーを平らげるとほど良く溶けたであろうマックシェイクに手を付ける。甘いバニラ味を堪能しながらこちらは西口とは一転、昔からほとんど変わらない風景とこの時期ならではの初々しい人々、今年から進学した人であろう制服姿の新1年生を眺める。
ゴミとなった袋は改札前に設置されているゴミ箱に捨て自宅へ向かうべくバスに乗り込む。車内、乗車している人は少なく二人が座れる席を一人で占領するというちょっとした贅沢を味わいながら次々と移り変わる景色を窓から見ていた。途中、ラーメン屋があった場所が閉店して取り壊されてしまい空き地に、高齢のおばあさんが一人で店番していた駄菓子屋さんは今まさに解体作業中であった、駐車場として使われていた土地にドラッグストアが建設中などといった光景を見た。
変わってきている、単純明快に言えばそういうことであったがそれだけでは片付けられない何かをさっきから感じていた。これは何なのか? はっきりしない疑問にもやもやしていた。
最後は自分一人となったバスから降りるといつもだったら足早に自宅へ向かうのだが今日のスピードは鈍かった。遂に立ち止まってしまう恭一郎。斜め上を見上げるとちょうど自宅であるマンションであった。ある事を思いついた。
マンションを通り過ぎると高校へ進学して以来、一度も行ったことがなかった住宅街、その中にある公園へ向かうことにした。
ここは特に小学生の時によく遊んだ場所。今、考えるとよく車も通る道の真ん中でボールがどこに飛ぶか分からない野球をしたものだと当時の気概に笑いが込み上げてくる。他人の家の庭へボールを飛ばしてしまった事は数知れない。
思いのほか建て替えるのかここでも取り壊されている家が目立った。公園の方は遊具が新しい物に取り替えられているか塗装が塗り直されている。入ってみて思ったのは狭いだった、こんな狭い所で何時間も遊べたのが今の感覚だと信じられない。それでも、あの時はそんなこと感じたことはなかったはずだ。
これが成長、大人になったというものか。ここまで周りの大人からそのようなニュアンスの事を言われても背が伸びたこと以外の自覚はなかった、何が変わったのか分からないまま過ごしてきた。言った本人も社交辞令のようなもので言った一言かもしれないが、そこにようやく本当の意味でひとつ気づくことができたかもしれない。自分もいつの間にかその感性が変わっていることを。
公園を出ると目の前を二人の老人が通り過ぎようとしていた。顔をチラッと見ると小学生の頃によく行っていた個人商店を営む夫婦であった。その店はいつの間にか閉店して何年も会ったことがなかったが直ぐに分かった。夫は杖を持って歩いている、歩くスピードは亀そのものだ。その後ろに付いている白髪が増えた妻はしっかりと歩いていたがどこか疲弊している表情だった。黙って恭一郎は反対方向へ歩く。夫婦は恭一郎に気づく余裕はなさそうだ、覚えているかさえ怪しい。若干ショッキングな一場面だった。最後の記憶ではその夫婦は笑顔で営業している姿だった。たまに冗談を言う店主が面白かった。
「(これも時の流れか)」
心の中でそう思いながら時の流れという名の残酷な側面も見せられた。これは恭一郎にとっても他人事ではない痛みであった。恭一郎の祖父は去年の6月、最後は数年間、寝たきりで言葉も発することができない状態で亡くなっている。
老老介護だった。認知症から始まり、徐々に一人では何もできなくなってしまう祖父の介護は体力的にも精神的にもきつい、祖母は何度も気が狂いそうになりながらも面倒を見ていた。夫婦関係が崩壊しそうになる危険をはらむ介護の過酷な現場を幼少期、空気で感じていたからこそあの夫婦の今後を思うとその辛さは容易に想像できた。
気がついたら1時間は特に当てもなく町を歩く恭一郎、辺りは暗くなり始め小学生の頃だったらもう家に帰る時間だ。左右は一軒家で並ぶ道の真ん中を歩きながら過去に浸る。
ふと空を見上げる恭一郎、夕焼けから闇に塗り替えられようとしている空の色、あまりにも綺麗だと思った。
「空ってこんな広かったんだ」
最後に空を見たのはいつだろう、そう思いながらこの空をまじまじと見つめていた。今の恭一郎にとってもこの空はあまりにも広かった。
その日の夜、恭一郎の部屋。消防車のサイレンが聞こえてくる、それは次第に大きくなりまた遠ざかり聞こえなくなる。ベッドの上でその音を聞いていた時、恭一郎は昔、自分はこのサイレンの音に怯えていた、なぜか。
あの時の事が思い出される。母の実家が東北にある、田舎だ。その地域ではお昼の12時になるとそれを知らせるサイレンが鳴り響く。お盆の時期に遊びに来ていた時、それを聞いたまだ幼い恭一郎は怖くなり母親にしがみ付いた。それ以来、こちらでもサイレンの音を聞く度に両耳を手で塞ぎながらその音が過ぎ去るのを待っていた。
今はさすがに怖くない、いつの間にか平然としていられるようになっていた。だがその記憶が呼び覚まされると共に僅かに怯えている自分がいることに気がついた。今日のように久しく足を運んでいなかった場所を訪れ昔を思い出していたから余計にそれを感じる。
過去があって今がある、歳を重ねどんどん新しい感覚が積み上げられてもそれは無かったことにはならない。あの時の自分も確かに下の奥深くに刻まれている、それが今、噴き出したのだ。
これから先は——周りも自分もどんどん変わっていく、そのこれからのことを思うと気が参る。恭一郎は来年、高校を卒業する。就職するなら尚更、進学するにしてもいよいよ少しでもどんな職に就きたいか、将来のビジョンを描く歳に差し掛かっている。去年、夏休みに入る前だったかに一人ひとりに進路相談を実施したと記憶しているが「進学ですかね」と曖昧に答えただけだった。だが恭一郎の頭には何も無い、おそらくそれは他の同じクラスの人を見ても同じであろうと思う。じゃあ、何も考えなくて良いというわけにはいかない想いが恭一郎にはあった。
恭一郎が今、アルバイトで働いているホームセンター。そこではアルバイトはギリギリまでこき使われている。シフトで定められた退勤時間に帰れないことは当たり前、まさかと思い給料明細を見て何度計算してもやはり残業代は支給されておらずに高校生が働ける22時ギリギリまで働かせられる。それでその時間になるとそんな法律なんて無くなってしまえばよいと言わんばかりに不機嫌になる社員。そんな空気の中で、ましてやまだ高校生の恭一郎に「残業代が支給されていないのはどういうことですか?」などと問い詰めろと言うのは酷というものだろう。
だが何より一番大変なのはその社員達であるという事も理解していた。出前を頼み職場で遅めの夕飯を食べる人、本当か冗談か今日は泊まりですよ、とある人がボソっと呟いた。この人達は一体、何時になったら帰れるのだろうと思いながらいつも店を出て行った。今日は休みのはずの店長が私服で店内を見回っていた時は驚いた。そのバイト先で感じた空気は休むことは許されないであった。
冗談じゃないと思った。まだそこまで責任を追及されない学生アルバイトの身分で良かったと心底思う。もしも自分がここに就職したらこんな生活が何十年と続くのかと考えると即座に嫌だと拒否反応が出た。社員もアルバイトもやる事は大して変わらない単純作業の繰り返し、その上、生活のほとんどを仕事に捧げなければいけないのは御免蒙りたかった。せめてやり甲斐のある、自分がこれだと決めた職に就くべきだと自分なりに考えながら今は我慢して働いている。
決して何も考えていないわけではなかったが具体的なものは何も浮ばないままここまできてしまっていたというところだ。
急に焦りを覚える恭一郎。これから生きていくためには、どうすればよいか真剣に考えた1日であった。
5月初旬、雨がやや強めに降っている土曜日。今日はバイト先で知り合い、仲を深めた
高梨はそのバンドの影響でギターを始め高校の軽音部に入ってコピーバンドを組んでいるくらい音楽にのめり込んでいた。今日は高梨の方から誘われ楽器の街で有名な御茶ノ水へ訪れることになっていた。午前10時に駅の中央改札前で待ち合わせをした。恭一郎は時間ギリギリの到着であったが高梨は既に到着していた。
軽く挨拶をしてすぐさま改札を抜けて階段を下り駅ホームへ。高梨は黒いカバーで覆われているエレキギターを背中に抱え、黒を基調とし枠が銀色のアタッシュケースを左手に持っていた。
「ギター持ってきたの?」
「そう、実は夕方からこの駅近くにあるスタジオを予約してるんだよ」
「えっ、ここにスタジオなんてあるの?」
「そう、良かったら磯村も来る? ドラムも置いてあるけど」
「うーん、じゃあ、行ってみようかな」
恭一郎はバンドメンバーの中でドラムを担当する人に惹かれていた。そんな恭一郎にドラムに触れてもらおうと設けたのがこの日であった。先ずは御茶ノ水へ向かうことになる。
JR 御茶ノ水駅へ着くとコンビニの代わりに楽器屋が立ち並ぶような景観にびっくりする恭一郎。高梨に先導され一軒、一軒、楽器屋を回る。
初めて訪れる楽器屋、ギター、ベースがズラリと展示されている店内にやや圧倒される。これだけ多いとどれにすれば良いのか分からない、外見は同じなのに値段が倍以上、違うのはなぜなのか様々な疑問も生まれる中、ただそれを興味深そうに見ていた。高梨の方はギターのエフェクターで何か良い物はないか探していた、どちらかと言えば中古の物を中心に見ているようだった。
「次、来る時は無くなっていることも多いしどうしても悩んじゃうんだよねー」
そんな独り言なのか恭一郎に言っているのか分からない言葉を言いながら目を凝らす。その後、高梨は二階のドラムコーナーへ案内する。ギターやベースと比べれば明らかにスペースは狭かったのが恭一郎にとっては残念であった。
「そうだ、スティックくらい買えば? 確か同じモデルのやつも売っているし」
高梨が言うのはそのバンドのドラマーが使っているのと同じドラムスティックのことであった、すぐに高梨が見つけてくれて恭一郎に渡す。スティックにはバンド名とメンバーの名前が印字されており恭一郎は歓喜の声を上げた。これはファンとしても欲しいと思い迷わず購入に走る、保存用と二組買う姿に高梨は笑ってしまう。
雨は弱まるが気配はない。楽器を背負っている高梨にこの雨は憎かった。それでも駅周辺の楽器屋、全てを見回ったんじゃないというくらいの数の店に入っていた。
午前から回り気がつけば時間は15時になっていた。高梨は一度、出た店にまた入り何か一つエフェクターを買ったようだったが楽器の知識はない恭一郎には何をそんなに悩んでいたのか理解できずにいた。
そろそろスタジオを予約した時間が迫ってきているということで引き上げを提案する高梨、恭一郎もそれに同意した。
地元の駅まで帰ってくると西口を出て横断歩道を渡り左へ曲がって5分ほど歩いた所にその楽器練習スタジオはあった。看板はあったものの教えてもらわなければ偶然気づくような目立つ場所にはなかった。2台停車できる駐車場を通り過ぎ奥の2階立ての建物へ。スタジオは2階にあり1階は歯医者であった。
階段を登り中へ入ると直ぐに受付ロビーがあり高梨が受付の人に使用許可を貰う、どうやらこのスタジオで一番広い部屋であった。
分厚く開けるのにも多少、力の要る防音扉を二つ開け中へ入ると先ずドラムセットが目に飛び込んできた。スネアにバスドラムが一つ、タムが三つ、フロアタムが2つ、クラッシュシンバルが二つ、ライドシンバルが1つとよく音楽の教科書に載る標準的なドラムセットと比べれば打点が多い立派なドラムセットであった。
ライブ映像を観る度に叩きたいと思っていたドラムを目の前に恭一郎の心は躍る。
「買ったスティックで適当に叩いてみな、俺は俺で練習するから」
音を鳴らすためにセッティングを始める高梨、思えばギターを弾いているところを見るのは今日が初めてだ、準備を終え音を鳴らし始めるとそのプレイにいつの間にか目を奪われていた。
素人には充分、弾けるという印象を持たせる腕があった。曲のギターソロ部分でよく見るような指の動き、どこかで聴いたことがあるフレーズだなと思ったらあの曲を弾いていた。友人の新しい一面を目撃して素直に羨ましいと思ったと同時に自分も何か自慢できるような特技があればとも思い嫉妬にも似た気持ちになった。しばらく高梨の弾く姿を黙って見つめていた。
ドラムは音階はないので適当に叩いていてもなんだか上手く叩けている気になれた。軽く叩いただけでも思いのほか大きな音が出ることに驚き、ハイハットも踏めてリズムを刻めることができるのが新しい発見と、なかなか刺激のある2時間を過ごした。
スタジオを後にして最後は駅前にあるファミレスで軽く食事を取ることにした。新しい体験をすることができた恭一郎は高梨に今日は付いてきて良かったという感謝の意を伝えた。その後、好きなバンドの話題からバイトの話になり、最近入ってきた新人が出勤しなければいけない日に休んで、逆に来なくていい日に出勤して変わっている、トイレ掃除をしていたら尿の入ったペットボトルが見つかったなど笑い話や仰天エピソードの話が飛んだ。
「そういえば磯村は進路決まった?」
「うーん、まだかな」
耳が痛くなる話を振られて気持ちが萎縮してしまう恭一郎。
「俺、もしかしたら進学したら千葉に引っ越すかもしれない」
高梨はある程度、進路の目処が立っているようであった、そう思って彼を見てみると余裕のある明るい良い表情をしているという風に感じる。ギターも上手くて、進学先も見えている、自分とは雲泥の差であった。
「この駅も随分、変わっちゃったな。これからどんな風になるのかな」
ファミレスを出て西口から東口のバスターミナルに向かう途中、橋上から更地となったあの地を見ながら高梨はこう言った。今日の工事は終わっており今は静かだ。互いに行き先の違うバスに乗る二人は東口のバスターミナルで別れることになる。
先に高梨の乗るバスが来たので恭一郎はバスに乗る高梨を見送る。今日は1日中、雨が降っていた。今の恭一郎にはこの雨は鉛が降っているかのように重く感じた、胸から地面に倒れそうになる気持ちに耐えて歩き始めた、足取りは重い。
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