序章「螺旋」 1-3
恭一郎と吉川が付き合い始めたのは高校1年の7月だった。
高校に入学して最初の期末試験が終わり、あとは夏休みを迎えるだけ。学校全体はその解放感で満ちていた。
午後から小降りの雨が降り始めた放課後、傘を持っていなかった吉川は友人の原口えみの傘に入れてもらっていた。その数メートル先に恭一郎が歩いている。それをじっと後方から見ている吉川、いきなり原口の傘から無言で抜け出した。
「磯村くん、入れてよ」
「えっ?」
横からいきなり声をかけられて首の方向を変え吉川と目が合った。右手を頭に乗せ傘を持っていないことをアピールしていた。なぜ俺の傘、という疑問はあったがいつまでも濡らせておくわけにはいかない。
「わかった、いいよ」
「やった」
肩と肩がくっ付き合う。それだけでドキっとする恭一郎。何が起きているのか理解が追いつかなかった。少し沈黙の間があった後に。
「磯村くんって彼女ほしいの?」
なぜだかいないことが前提であったのが気になったがいないのは間違っていなかったのでそれは飲み込んで質問に答えた。
「そりゃあ、まぁ」
「どんな女の子がタイプなの?」
「明るくて、優しい子?」
「なんかありきたりな答えだね、外見とか気にするの?」
「あぁ、背は低めがいいかな? できれば160センチ以下で」
「ふふ、ごめん、私、157」
さすがの恭一郎も少し信じられなかったが察した、だが聞いておきたいことがあった。
「吉川さんって一馬、好きなんでしょ? 俺の傘なんて入っていいの?」
「一馬は、憧れの人なんだよね。私には興味ないみたいだし」
「福西さんが好きらしいからね、その福西さんも一馬に興味ないみたいだけど」
「磯村くんは好きな人いるの?」
「いるけど、最近いたになってしまった」
「えっ、どういうこと」
「もう付き合っている人がいるんだよ。この前、手を繋いで帰るところを見た」
「うわ、それショックだね。誰と誰なの?」
「それは言わないということで」
「えー、ってかもう少し入れてくれないと私、肩が濡れるんですけど」
「あぁ、ごめん!」
急いでどこも濡れないように吉川の方にもしっかり傘を入れる、そうなるとますます二人だけの空間ができたようでこの状況に鼓動は速まった。
他愛もない雑談が続き駅へ着いた。吉川は一足先に改札内へ入って別れを告げる、手を振る彼女を見送る恭一郎。しばらく立ち止まりこの余韻に浸る。なんだか悪くない気分であった。次話せるのはいつだろう、そう思った。
「なに、お似合いじゃん。付き合っているの?」
「そういうわけじゃ」後ろから見ていた同じクラスの男子が声をかけてきた。
夏休みをあと3日後に控えた放課後。恭一郎は
午後18時を回るところでそろそろ帰ろうと二階から一階へ降りた時にたまたま原口と吉川とプリクラコーナー付近で遭遇した。
「あっ、広瀬じゃん」
最初に気がついたのは原口達の方であった。広瀬と原口は普段からよく話をするので思わず会話が弾み、恭一郎と吉川は置いてけぼりという様相であった。
原口達はサッカー部に所属している
「よし、じぁあ俺も一馬を弄ってやろうかな」
「あっ、俺は帰るわ、見たいテレビがあるから」状況からして空気を読めと思ったが広瀬に止めろとは言えなかった。
「私も帰ろうかな」吉川も帰ると言ってきた、これはまさかと思う恭一郎。
ゲームセンターの前で二手に別れる。結局、広瀬はついていった。原口はどう思っているだろうと想像するとそれはそれで傍観者は面白かった。
吉川と二人っきりになった。顔を見合わせる。
「かえろっか」
「うん」
しばらく無言が続く、吉川とは一緒のクラスではないのであまり気軽に話せる仲ではなかった。
「もう直ぐ夏休みだね」
あの日と同じように吉川から話をかけてくれた、この気まずい空気をなんとか打破したいと思っていたのでありがたがったがなんだか吉川ばかり申し訳ないとも思う。
「うん、そうだね。なんか夏らしいことするの?」
「その予定はないかな、彼氏いないし」
「あぁ、そう」
彼氏という単語に引っかかったのが分かり、誤魔化すように笑いながらそう言った。
「ねぇ、私はどうかな?」
「えっ?」唐突にその言葉は出た、ほぼ同時に歩みを止める二人。
「いや、一馬が駄目だからとか、そういうのじゃなくて私、磯村くんも前からかっこいいと思っていたんだ。磯村くんのクラスだと一馬にどうしても目がいってみんな気づいていないけど」
「……本当に、俺なんかでいいの?」
「うん、磯村くんも彼女ほしいんでしょう? でも好きな人はもう彼氏がいて、だったら」
自分と付き合いたくて、女子の方からここまで言わせていることに驚愕している。いつから俺はこんなにモテるようになったのか、急に訪れた女性からの告白。どうせ叶わないだろうと胸に秘めたままにした想いの数々もざわついているようだった。渾身の恋文を送っても振り向かれることはなかった自分には棚からぼた餅のような出来事。
「うん、じゃあ付き合おうか」
「ほんとうに?」
吉川は満面の笑みを浮べ抱きしめた。女性から抱きつかれた、手を繋ぐことさえ記憶は幼稚園のお遊戯会で踊ったダンスの時だった。自分には権利がある、そう言い聞かせ吉川を抱きしめかえした。女性の髪の毛、背中、未知の遭遇のようにその感触を確かめていた。
……吉川なりに勇気を振り絞って告白したはずである。夏休み前にどうしても彼氏がほしいということで。しかし思い出してみると吉川も自分も恋というものに憧れを持って付き合い始めたのは否めない。いや、そうとしか言えない。その人じゃなきゃダメというわけではなく。そもそも吉川にとって自分は一馬の代わりであった。そんな恋は長続きしないと勉強になっただけでも良かったかもしれない、もう次は勢いに押されて、外見が良いだけとかそんな浅はかな理由で付き合うのは控えようと誓った。
日付が変わり8月2日、0時0分。その別れのメールを送ろうとした時に部屋の中にある置き時計が鳴る。その音にビクっと肩が上がる。いつまでも聞いていられない耳障りな音であったが、テレビ台の上に置いてあるそのアナログ時計をじっと見つめる。おかしい、なぜこんな時間に目覚ましの音が鳴るのか。そもそも今では携帯電話のアラーム機能を活用してこの時計のそういった機能は使ったことがない。とりあえず延々と同じ音が鳴り響く、その耳障りな音を止めるべく真上にあるボタンを押して音を消した。重さを感じながらそれを手に取る磯村。どのように操作すれば音が鳴るようにセットできるのかそれすら理解していなかったが、おそらく音が鳴る事はない状態のはず。誤作動、バグみたいな形で鳴ってしまったのか、そう思う事にした。
思わぬ邪魔が入り先ほどの決意はどこへやら、その気持ちは音と共にどこか遠くへ飛んで行ってしまいリセットされてしまったかのようだ。
……もう一度、考え直した時に、やはりメールでは失礼だと思い留まった。向こうは直接言ってくれた、ならこっちも。いきなり変なプライドが鋭利に姿を現した。この誘いに乗り会う、最後に別れを告げる、それでいこうと長々と打ったメールを消していつものように会おうと返事をした。
吉川はとりあえず安心したか、こっちも今日は安堵して眠りにつける。そのプライドという仮面の下に少しでも逃げたい、先延ばしたいという弱き自分が隠れていた。
8月6日。少し風が強かった。午前11時に待ち合わせをした。吉川が観たい映画があるということでプランは向こう持ちだ。10時50分、改札を出ると吉川はもういないか辺りを見回した。いきなり背中を両手で叩かれた、こんなことをするのは一人しかない。
「ひっさしぶり」
後ろを振り向くと天使がいた。女性用のカンカン帽子に白いTシャツにデニムの短いタイトスカート、夏らしい格好であったが何より自ら人の繋がりを絶ち、一人になったと思っていた自分にこんな可愛い子がまだ寄り添ってくれることに世の中の常識としておかしいと思った、いや、これが最後に残された希望なのか。
気づいていないのかシャツの上からブラジャーのライン、曲線が若干透けて見えていた。何色か分からないが派手な色のように思えた。そしてスカートの、その下から伸びる生足、完全に視線が顔より下にいっていた。
「じゃあ、行こうか。あまり時間ないし」
その視線が不自然と思われないように手を繋ぐように促し映画館へ向かった。胸に隠している気持ちとは裏腹に、こんな行動に出てしまった事を手が触れ合ってから後悔した。「冷たくて、気持ち良い。保冷剤みたい」その言葉に反応する事はなかった。
見たところいつも通りだった。まるでここまで会わなかった2ヶ月はなかったかのように。そんなわけはない、もしもそこは目を瞑るというのならこちらから現実を言わなければ。
「ごめん、メールの返事もしないで、2ヶ月も会わないで」
「ううん、いいの。こっちも大変だったんだ」
「えっ、何が?」
「私とよく一緒にいた原口えみって知っているでしょう?」
「あぁ、いつも元気というか、うるさい子ね」
「そうそう、その子が学校辞めちゃったんだ」
「えっ、そうなの? またなんで」
「わかんない、学校行く気なくしちゃったんじゃない?」
「そうか」
「ついでにいえば恭ちゃんと同じクラスの柴田くんも辞めたよ」
「えっ、柴田さんも。なんで?」
「こっちこそわかんないよ、関わりなかったし、ただ聞いただけ」
この流れで俺も辞めた、というか転校というべきかそう言える流れだと思ったがその前に映画館へ着いてしまった。
吉川に飲み物とチョロスを奢る。今日の恭ちゃん気前良いと喜んでいたがこれが最後だと思うとせめてもの
上映中も手の甲の上に吉川の掌がずっと置かれていた。その手をチラッと見ると自然と男の
そんなところに気を取られていたのは最初だけであった。映画は予想以上に面白い、実在した人物を元に作られた重厚な人間ドラマであった。よくテレビでも宣伝しているアクション映画やエンタメ性の強い映画ばかり今まで観てきただけにこのチョイスは意外であった。映画館もわざわざもっと近い所があるのに、それより遠い所を選んだのも上映されている映画館がここだったためか。
「いや、面白かったね」
「うん、最後は泣いたよ」
などと感想を言いつつ、映画館と同じ建物内に併設されているゲームセンターでクレーンゲームなどで楽しんで施設を後にした。この後の予定は特に決めていなかった。時間もあるし乗り換える駅まで歩こうと吉川が言う。
今度は吉川の方から腕を掴まれ、そのまま組んで歩いた。カップルであればよくやることだが思えば吉川とはやったことなかった、いきなりなぜと疑問が浮ぶ。そんなことより吉川の胸は思ったより大きかった、何を考えているんだと思った。
「真里、卒業後の進路は決まった?」
「ううん、まだ。でも大学にはいきたい」
「そうだよね、いきなり就職といってもね」
「恭ちゃんは?」
「まだ。それにどうせ俺は……」
遅かれ早かれ話さなければ。このままだと楽しいデートで終わる。歩きながら話すことではない。ちょうど視界に無人の公園が入ってきた、そこのベンチで話すことに決めた。
「ちょっと公園寄ろうか、暑いし少し休もう」
吉川は返事をしなかったが手を引くと進む方向へ歩いてくれた。ベンチの上には屋根がありちょうど日陰になっていたがそれは気休めにもならないほど昨今の夏は暑い。吉川が鞄からペットボトル飲料を取り出し一口、飲む。それを恭一郎にも「はい」と差し出した。ちょっとした間があったが飲むことにした。そのペットボトルを持ったまま話し出した。
「いきなりだけど俺さ、今の学校からいなくなるんだよね。分かっていると思うけど1学期休みすぎてそれで別の高校へ移ることになった」
吉川は黙ったまま特に驚く様子はなかった、なんとなく予想はしていた様子だ。
「だから、俺達、もう別れた方がいいのかなって」
「恭ちゃんはそれでいいんだ」
「俺は……。学校変わると会えなくなるわけだしだったら」
「私はそれでも別れたくない。恭ちゃんはそんなの関係なくどうなの?」
声を大きめにして言った、吉川のその想いは強そうであった。
「俺もできれば別れたくないけど……」
「じぁあこれからも付き合うってことでいいじゃん。どうせ来年卒業だしいつか会える回数が減るのは当然でしょう?」
「聞くけど怒ってないの? 今までほったらかしにしてたこと」
「それは怒ったよ、ひどいなって。でもきっと何か事情があるんだと思って信じてみることにしたの、もちろんそんなの辛いからもうしてほしくないけど」
「なんでそんなことできるの?」
「なんでって」
刹那、強めの風が吹き吉川の被っていた帽子が恭一郎の頭上、左斜め上に向かって勢いよく飛ばされた。反射的にその帽子を追いかけてしまい恭一郎の胸に飛び込む形になってしまった。その結果、吉川は恭一郎を押し倒してしまう。
磯村が持っていたペットボトルが地面に転がる、カラカラと勢いよく音を立てて。そのまま静止する二人、そこから起き上がる気にはなれなかった。体が、心が、このままでいたいと訴えているようだった。
いくらなんでも近づきすぎる吉川の顔、恭一郎はたまらず、なぜだか吉川の唇に軽く自分の唇を当てた。それに吉川は笑みを浮かべているようだった。
一旦、起き上がらせる恭一郎。我慢できなかった、再び今度は、今までしてきた中で一番深い口づけをする、唇を軽く噛むように……こんなこと今までしたことがなかった。
「うれしい」
吉川がキラキラとした瞳で見つめながらそう小さく呟く。別れようと思った日になんでこんなことを。だが今日が彼女を目の前にして一番欲情した。いや、初めて性の対象として見たかもしれない
この休んでいた間、したいときはパソコンの前に映る自分の性的趣向に合った写真や映像を見て発散していた。それではもう満足できない自分がいることにも気づいてしまった。妄想だけでなく、感触、温もりがほしいと。
なぜこんなにも素晴らしい女性がいるのに今まで我慢できていたのか、自分にその気がなかったか分からないが手を出さなかったのが今では信じられない。
ようやく目覚めたようだった、獣の自分が。いつの間にか体勢が逆になっていた、両肩を掴み優しく倒すように吉川を寝かしつける。
子供が元気な声を上げて公園に入ってきた。はっとする二人。つい場所を考えずにやってしまったことにようやく気づいた。急いで立ち上がり砂場まで飛んだ帽子を取り公園から立ち去った。ペットボトルは置いてけぼりをくらう。
「私たち何の話をしていたんだっけ?」
あんなことをしたらもう別れようなどとは言えない。吉川がまだ自分に気持ちがあるならこの関係を続けても構わなかった。
「学校変わって今までより会えなくなるけど、これからもよろしくって話」
体と体が触れ合った時、何かが弾けて共鳴しているようだった。それが強固なロックとなり二人を離さなかった。そして互いに求め合う、理性よりも本能が勝る、淫らに堕ちていき、あのままいったらきっと。
もはや、わずかな間でも刺激的で濃密な体験をしてしまった恭一郎に、吉川と別れる、別れないということは今はどうでもよいことになっていた。
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