第十話:嘘まみれの理由

 翌日。

 未だ元気を取り戻せていなかった佳穂を誘い出し。霧華は雅騎との約束を果たすべく、彼女のために時間を割いた。


 無理矢理にショッピングに誘い出し、目的地まで行くまでの車中。

 彼女を待つ事しかできないという辛さを吐露とろし気落ちしている佳穂に、


「できれば、御影を信じてあげて欲しいの」


 霧華はそう、強く口にした。

 御影の親友であり、戦友として長く共に戦ってきた彼女の言葉。

 それは不安しかなかった佳穂の心に、仲間を信じる気持ちを取り戻させ、少しずつ笑顔に変えていった。


 上社駅かみやしろえき郊外にあるショッピングモールに着いてからは、二人は互いの世界を垣間見るショッピングを楽しんだ。


 午前中は、高級ブランドを扱うブティックに入った二人。

 まるでファッションショーのように、服装を変え、試着を繰り返す霧華。

 その華やかさのある服装もさることながら。何よりスタイルの良い彼女は、その立ち姿もモデルさながら。


「綺麗……」


 佳穂はそれを、ただ羨望の眼差しで見つめる他なかった……という訳にはいかず。

 彼女は霧華によって、まるで着せかえ人形のように、一生縁がないような服を沢山着させられ。恥ずかしながらも、夢のような時間を過ごしていった。


 昼食は郊外の高級レストランに案内され、佳穂はこれまた、彼女との世界の違いを思い知らされた。

 フランス料理のフルコース。そんな物を彼女は人生で一度も経験したことはない。

 VIPのみが利用できる個室を選び、


「マナーなんて気にしなくて良いわよ」


 と、気軽に食べるよう霧華に気を遣われても。それは佳穂にとって、本当に緊張感漂う、気が気でない世界だった。

 だが。彼女は相変わらず、美味しいものを食べるとすぐに表情に出てしまう。

 母親の味とはまた違う美味しさを味わい、満面の笑みを浮かべる佳穂に、霧華も満足そうに微笑ほほえんでいた。


 午後は、佳穂がよく通うお店を案内した。

 質素なアクセサリー屋だったり。愛らしいキャラクターが並ぶキャラグッズ屋だったり。

 霧華はそれらが新鮮だったのか。珍しく目を輝かせながら、色々と手に取り、眺めては購入していった。


 特に、なんでも褒めてくれる愛らしいペンギン「ホメペンちゃん」を相当気に入ったようで。等身大ぬいぐるみを始め、様々なグッズを夢中で買い漁る彼女らしからぬ姿は、佳穂と荷物持ちの秀衡ひでひらが思わず唖然とする程だった。


 今まで二人きりで行動したことのなかった佳穂と霧華だったが。それぞれの世界を知り、時の経つのを忘れるように楽しんだそのひと時は、互いの心にある御影への不安を忘れる程、久々に心穏やかで、楽しい時間だった。


* * * * *


 夜六時も回った頃。

 最後に佳穂が選んだ店は、喫茶店『Tea Time』。


 そのきっかけは、ショッピングを一通り終え、車で移動中の事。

 今日の行動に至る経緯いきさつについて、霧華が佳穂に伝えた事だった。


「貴女を元気づけるのを断る理由がバイトだなんて、酷いと思わない?」


 後部座席で、呆れながら、そこにいない相手に苦言をていする霧華に。


「きっと速水君、私達に気を遣ったんだよ」


 隣に座った佳穂は、迷わずそう笑顔で応える。

 彼のことを信頼し、理解しているかのようにはっきりそう言葉にされたものの。霧華は、それを素直に受け取れずにいた。

 そんな渋い表情の彼女に。


「だったら、速水君のバイト先に行ってみようよ」


 そんな誘い文句で、佳穂は『Tea Time』に誘ったのだ。勿論、ケーキと紅茶が美味しい、という言葉も添えて。


 こうして二人は店へとやって来たのだが。

 そこで、事件は起きた。


* * * * *


「あら、いらっしゃい」


 フェルミナは店のドアを開け入ってきた佳穂に、何時もどおりの笑顔を向けると、二人を慣れた動きで席に案内した。

 初めて来て以降、この店に何度も顔を出している佳穂は、既に常連のようなもの。

 それ故か。彼女から掛けられた声は随分と親しげなものとなっていた。


 と、そんな中。

 霧華は初めて会ったはずのフェルミナを見て、一瞬動きを止めた。

 どこかで会ったかのような既視感きしかん

 だが。自分と視線を合わせても一切そんな素振りを見せず。何かあったのかと首を傾げる彼女を見て、気のせいかと思い直し、案内に従い席に足を向けた。


 通されたテーブル席に向かい合って座った佳穂と霧華は、店内を軽く見渡す。

 辺りに客はおらず、貸切状態の中。その店内に、雅騎の姿を見ることはできない。


「メニューはこちらね」


 お冷とおしぼり、そしてメニューを二人の前にさっと並べると、フェルミナは何時もながら笑みを浮かべ、軽く会釈しその場を離れようとする。


「あの、今日って速水君は……」


 と。そんな彼女を制するように。

 佳穂が申し訳なさそうにそう尋ねると、フェルミナは思わずにんまりとしてみせた。


「そんなに雅騎が気になるの?」

「あ、いえ! そういう訳じゃ……」


 意味ありげな答えと恥ずかしそうに縮こまる佳穂。その親しげな二人のやり取りを見ながらも。


「今日、彼からバイトだって聞いたのだけれど」


 空気を読む事もなく、霧華がそう言って割って入った。

 だが。


「あら。今日は元々休みの予定だけど」


 フェルミナより、さらりと返されたのは予想外の答え。

 それを聞いて、二人は思わず驚きの表情と共に、顔を見合わせてしまう。


「どういう事?」

「どうもこうもないわ。昨日の夜、そう彼から聞いたわ」


 霧華に返せる答えは、昨晩の事実のみ。


  ──まさか……。


 戸惑いを隠しきれない彼女の様子に、佳穂の心に嫌な胸騒ぎが走る。


「あの! 速水君がどうしてお休みなのか知ってますか!?」


 思わず身を乗り出す彼女に、フェルミナは一瞬困った顔をした後。一度目を伏せ、うれいを見せる。


「……本当は話しちゃいけないと思うから、ここだけの話にしてほしいのけど……」


 大きなため息をいたフェルミナは、刹那。表情を引き締め、真剣な表情で二人に話し出した。


「あの子ね。小さい頃に亡くなった友達の、お墓参りに行っているのよ」

「「え?」」


 語られた意外な事実に、佳穂と霧華はまたも顔を見合わせる。


「流石にそんな話、あなた達にできなくてバイトなんて言ったんだと思うわ。ごめんなさいね」


 雅騎に代わり、申し訳無さそうに頭を下げるフェルミナに、


「そんな事。こちらこそすいませんでした」


 佳穂も釣られるようにペコリと頭を下げた。


 語られしフェルミナの言葉。

 そこに、真実などなかった。


 確かに雅騎は、小さい頃に友達を亡くしている。だが。その命日の墓参りは、既に先月済ませていた。

 そして。亡くなって何年も経った相手のために、また墓参りに行くなど、よほどの事情でもない限りありえない事。


 とはいえ。そんな裏の事情を知るよしもない佳穂が、そこまでの考えにおよぶ訳もなく。


  ──そうだったんだ。良かった……。


 嫌な予感が外れたと、ほっと胸を撫で下ろす。


 しかし。

 二人の会話を聞いていた霧華の心中しんちゅうは違う。

 突如膨れ上がった、ある感情。

 それは。あの日、雅騎に感じていたある想いだった。


  ──そんな理由で、あんな嘘を?


 フェルミナより語られた理由が、決して軽い話ではないのは分かる。

 だが。改めて昨日の車内での出来事を振り返ると、それが理由とは思えなかった。


  ──私は、バイトを理由にした彼に怒りを見せた。なのに彼は、何も言い返さなかった……。


 脳裏に浮かぶ真剣な眼差しの雅騎。

 それは普段見せたこともないもの。


  ──と強く言った時も、彼は何故か嬉しそうだったわ……。


 雅騎の微笑ほほえみ。本来の彼なら、そこは苦笑いのひとつも浮かべる所ではないだろうか。

 だが。彼はまるで「それでもよい」と言わんばかりの反応を返していた。


 そして。

 心にぎりし、最後の言葉。


  ──「如月さん。後は頼むね」


 その瞬間。

 彼女は、思わず目を見開いた。


  ──何故、気づかなかったの!?


 そう。雅騎の行動にはしかなかったはずだ。


 御影の所在も分からず、ただ待つことしかできない。そんな身であれば、何も出来ない無力さに耐えるしかない。

 それが一週間弱も続く辛さ。それは霧華ですら、たかがゲームの一言に感化される程、心を弱らせる辛い時間でもあった。


 そんなの状況。それは、雅騎とて変わらなかったはず。

 にも関わらず。彼はゲームセンターで、強く前向きな言葉を口にしていた。


 確かに、心強くあれる可能性がないとは言えない。

 だが、雅騎がそうだったかといえば……いな


 もしそうだったなら。

 御影がいなくなったあの日。図書館で見せた彼の淋しげな雰囲気も。昨日、学校で見せていた元気ない姿もなかったはずだ。


 そして、あの車内での会話。

 思い返せば。普段の雅騎であれば、苦笑し、否定してしまうような会話は多数あったはずだ。

 しかし、彼はそれをしていない。


 雅騎から発せられる強い違和感を、霧華も感じ取っていた。

 しかし。違和感に秘められた、もうひとつの可能性。それに気づく事が、できなかった。


 霧華は今更、自身の察しの悪さを悔やむ。

 あれだけの態度を取られながら。それに気づけない程、自分の心は追い詰められ、余裕がなかったのかと。


 今、これに気づくのでは遅すぎる。

 彼女は、強く己を責めた。


 そう。霧華は気づいてしまった。

 雅騎は既に、御影のために、と。


「霧華。どうしたの?」


 呆然とする彼女に、不思議そうに佳穂が首を傾げる。

 その言葉に我に返った霧華は、


「いえ。彼にそこまで気を遣わせていたのかと、申し訳なく思っただけよ」


 そんな言い訳をし、普段通りの平静を装う。


「そっか。でもきっと速水君は『気にしないで』って言ってくれると思うよ」


 佳穂は「安心して!」と言わんばかりに、笑顔で慰めてくれる。

 そんな彼女らしい反応に、霧華は微笑ほほえみを返した。本心を、笑顔の裏に隠して。


  ──は守ってあげるわ。だから……。


 湧き上がった不安は、未だ心の中を覆っている。

 だがそれを一つの強い想いに変え。霧華は待つ覚悟を決めた。


  ──ちゃんと、帰ってきなさい。


 雅騎と交わした約束。

 それは、二人が無事に戻って来てこそ、意味を成す。

 そう想うからこそ。彼女は二人の無事を、強く心で願うのであった。


* * * * *


 霧華達が『Tea Time』にいた時間より少し後。


 雅騎は茶色いジャケットに白いシャツ、紺のジーンズという普段着のまま、鬱蒼うっそうと木が生い茂る、山奥の道を走るタクシーに乗っていた。


 銀杏いちょうに指定された最寄駅より一時間ほど。田舎らしい田畑の広がる光景から山道に入ると、車道には明かりもなく、ただ不気味さを漂わせる森達だけが続く。

 そんな飽きる程に続く同じような景色を、後部座席に座った雅騎は、物思いにふけながらぼんやりと眺めていた。


 彼が今この状況にある理由。それは勿論、墓参りのため、ではない。


 木曜の夜。

 人の心を視る力を封じ終え、マンションに帰ってきた雅騎は、ポストに一通の封書が届いているのに気づいた。

 宛名は速水雅騎。そして差出人は……神名寺みなでら銀杏いちょう


 中に入っていた、彼女がしたためたであろう手紙には、こんな事が書かれていた。


 急ぎ行動が必要だったため、連絡ができなかったことへの謝罪。

 御影が体調を崩し、田舎で一緒に療養させている事。

 随分と元気になってきたので、週末の祭に参加させたいと思っている事。

 折角なので雅騎もここに来て、共に元気づけてあげてもらえないかという願い。


 そこにあったのは、あふれんばかりの

 だが。雅騎はそれでも、銀杏いちょうの元に向かうことを決めた。

 嘘だらけのこの手紙にこそ。彼が切望せつぼうした、希望だけがあったのだから。


 そうこうする内に、車が山道を抜ける。

 山間に広がる小さな村の脇を抜け、すぐ。

 山沿いにある一軒の旅館。その入り口前にある石段の下で、タクシーは止まった。


「ありがとうございます。お代は……」

「でぇじょうぶだよ! もう銀杏いちょうさんからもらっちょるけね!」


 料金を払おうとした雅騎に、訛り言葉で運転手がそう返す。

 彼は小さく頭を下げると、ボストンバッグを手に、タクシーを降りた。


 タクシーが去っていくのを見送った後。雅騎はバッグを背負い直すと、改めて旅館を見上げる。

 十段ほどの石段の上にある和風の建物は、入り口の左右にある篝火かがりびに照らされながら、どこか荘厳な雰囲気で彼を出迎えた。

 建築物としての凄さに目を奪われつつ、彼はゆっくりと石段を上り、旅館の入口より中に入って行く。


 内装も立派な旅館の玄関。その少し奥にあり受付に、深い紅紫色の髪を結い上げた和服姿の女性が立っていた。

 その立ち姿から大人びて見えるが、年端は彼とそこまで離れていないように思える。


「いらっしゃいませ」


 女性が雅騎に気づき、静かに頭を下げると、彼も釣られるように、小さく頭を下げた。


「あの、神名寺みなでら銀杏いちょうさんから……」

「速水雅騎様ですね。お話は伺っております」


 そう言うと、女性は受付を離れ、雅騎の前に静かに歩み寄る。


「本日ご案内させていただく、紅葉くれはと申します」

「速水です。よろしくお願いします」


 やや緊張気味に言葉を返す雅騎に、


「そんなに緊張なさらずとも良いのですよ」


 紅葉くれははふっと柔らかな笑みを浮かべる。


「では、お部屋までご案内いたしますね」


 そう言うと、彼女は雅騎に旅館に上がるよう促した。


* * * * *


 部屋に案内されてから数刻。


「あぁ~っ」


 雅騎は心地よい声をあげながら、ゆっくりと湯船に半身を沈めた。


 そこは旅館裏手にある大温泉、『清めの湯』。

 紅葉くれはに是非堪能してほしいと薦められ、彼は一人ここにやってきていた。

 普段は混浴だそうなのだが。夜は時間毎に、お客様に順次貸し切っているのだという。

 そして。丁度この時間は、彼だけに貸し切られた時間となっていた。


 旅館から繋がる屋根の下にある洗い場。

 そして、広々とした湯船。


  ──清めの湯、ね……。


 こんな贅沢な空間を独り占めする雅騎。

 だが、その状況とは裏腹に。湯船から上がる湯気にあてられたかのように、その表情を曇らせていた。


 『清めの湯』。

 ただの旅行客としてであれば、無病息災に効果がありそうだな、などと笑顔で浸かっていたに違いない。

 しかし。彼はこの後、何が起こるかを知っている。

 そんな状況下でこの名を見れば。何故薦められたか。その意図までも、はっきりと感じ取れてしまうというもの。


 とはいえ。

 今ここで、鬱々うつうつとしていても始まらない。


「ふぅ……」


 ひとつため息をいた雅騎は、湯船に浸かったまま身を捻ると、外を向き周囲を見渡す。


 温泉入り口と反対側には、山間やまあいの自然が一望できる。これが晴れた月夜や、それこそ昼間であったなら、見晴らしのいい景色が堪能できたであろう。


 しかし。今は雅騎の心と同じく、空は曇り模様。しかも夜の闇に包まれている。

 残念ながらその暗がりは、まるでこの先に起こるであろう出来事への不安を煽る、そんな光景にしか見えなかった。


 そんな、影の強い景色に目を奪われていたせいだろうか。


 雅騎は気づくことができなかった。

 その存在に。


「失礼いたします」


 突然彼の背後より、聞き覚えのあるような女の声が届く。

 はっとして身体ごと振り返ると……。そこには、バスタオルを一枚羽織っただけの、腰までかかる程の漆黒の長髪を持つ、が立っていた。


「み、御影ぇっ!?」


 バスタオルを纏っているとはいえ、その女性らしさを感じさせるシルエットは、雅騎を動揺させるのに充分なもの。

 一気に赤面した彼は、慌てて彼女を視界に入れぬよう顔を背け、目を閉じた。



 だが。

 動揺とは、人の目を狂わせるもの。

 故に彼は勘違いし、気づけなかった。

 彼の知る御影は、もっと細身だという事を。


 そして。

 目を逸らしたからこそ気づけなかった。

 と呼ばれた少女が、うれいある表情を浮かべた事を。


「速水、雅騎様ですね。姉様ねえさまから話は伺っております」

「ね、姉様ねえさま? 御影が!?」


 意外な言葉に、思わず雅騎は驚くをする。


  ──彼女が……。


 流石に視線を向けるわけにはいかない。だが、雅騎はやっと気づいた。彼女こそ……。


「はい。私は御影の妹、光里ひかりと申します」


 静かな声。それは確かに御影に似ているが、僅かに声色こわいろが高い。

 そして何より古風ながらも丁寧な言葉づかいが、彼女が光里であり、御影ではないと強調している。


  ──「ならば! ならばせめて、光里ではなく私を! 私をにえとして捧げることは出来ぬのですか!!」


 あの日の御影の叫びが脳裏によぎり、一瞬胸が痛む。

 だが、今はそれに怯んでなどいられない。


 突然のにえとなる相手との邂逅かいこう

 それは彼の心に強い疑念を抱かせた。

 ここは、貸し切りのはずではなかったのか。だとすれば、光里が来るのは想定外。

 だが、彼女はそれが当たり前と言わんばかりに、恐ろしく落ち着いてそこにいる。


  ──図られた!?


 紅葉くれはか。いや、銀杏いちょうか。

 自分がこの温泉に案内された理由と、貸し切りである事を否定する、彼女がそこにいるという事実。

 わざわざ同じ時間に入浴しなければいけない理由などないはず。なのに、今そこに光里はいる。まさか、彼女も敵なのか。


 雅騎は戸惑いつつも理由を推察すべく、必死に思考を巡らせる。

 だが、その間。相手がのんびり待ってくれるとは、限らない。


「お隣、失礼しますね」

「え? はあぁぁぁっ!?」


 巡らせていた雅騎の考えは、突然隣から掛けられた声によって一瞬で吹き飛んだ。

 思わず隣を見てしまった彼の目に、すぐ横に座り、入浴する光里が目に留まったのだから。


 確かに彼女の動きは静かだ。

 とはいえ、ちゃぽりと足をつけ、ゆっくりと歩み寄る時に立つ、湯船を波立てる音もあった。

 しかし。彼は己の思考の世界に入り込み過ぎ、それに気づけなかったのだ。


 光里が、振り返った雅騎を見上げる。

 湯の温かさのせいか。何処かうれいを見せながらも、ほのかに赤らめている光里の顔。そして、身長差のせいで覗き込むような形となり、自然に目に留まってしまう胸元。

 あまりに刺激的過ぎる光景に、雅騎は慌てて視線を逸らし、そっぽを向いたその直後。


 湯船の中にある彼の左手に、光里がそっと、右手を重ねてきた。


「!?」


 突然の行動に言葉すら発せない。

 雅騎の混乱に拍車が掛かるも。振り返ることなど許されず。彼女の意図を表情から汲み取る事すらできない。


 まるでほだされたかのように、その手を振り払うことも出来ず。しかし何といっていのかも分からず。雅騎はただ恥ずかしさに顔を赤面させ、沈黙するしかなかった。

 そして。光里も声を発する事もなく、ゆっくり視線を落とす。


 二人は湯気と静けさに包まれたまま、声も出さず、動こうともしない。

 だが。その静けさは突如、破られた。


  ──突然のこと、ご容赦ください。


 それは確かに聞こえた。雅騎の心の中に。


  ──私の力では、貴方に心の声を届けることしかできません。戸惑われるかも知れませんが、どうかそのままお聞きください。


 突然の独白。

 雅騎は視線だけを光里に目を向けると、彼女は真剣な表情のまま彼を見つめ返していた。まるで、何かを訴えるかのように。

 そのただならぬ気配に、雅騎は小さく頷くと、再び視線を逸らした。


  ──雅騎様は、今すぐこの場から立ち去るべきです。


 そう告げると、彼女は彼の心にこう、話してくれた。


 雅騎が銀杏いちょうに呼ばれた理由は、祭などではなく、鎮魂の儀のために呼ばれた事。

 その儀式をしなければ、彼女達、神降之忍かみおろしのしのびだけでなく、他の人々にも危害が起こってしまう事。

 だからこそ自分がにえとなり、姉にあやめられねばならぬ事。


 伝えられたのは、御影がき叫んだ凄惨せいさんな光景でも語られていた、事実そのもの。


  ──姉様ねえさまは既に覚悟を決めております。ですが。もし姉様ねえさまがいざ覚悟を決められなかった時の為、お母様かあさまは雅騎様を呼んだのでしょう。


 そんな理由を語る光里の表情に、哀しい色が浮かぶ。


  ──ですが、姉様ねえさまは、雅騎様にそんな姿を見てほしくはないはずです。そして、雅騎様がそのような惨劇さんげきを見る必要もございません。ですから、どうかお逃げ下さい。私もお力添えしますから。


 彼女はそこまで話すと、それ以上何も語らなかった。


  ──口には、しないんだな……。


 雅騎は、光里の心の強さに、僅かに目を細める。


 確かに彼女は、口にしなかった。

 自分を助けてほしいとも。

 姉を助けてほしいとも。


 だからこそ。彼はその失意の中にある決意を、強く感じ取る。


 一度彼女から顔を背け、ふぅっと心の外でため息をくと。何かに祈るかのように、天を仰いだ。

 うつむいていた光里は気づいていない。

 その時に見せた、雅騎の淋しげな表情を。


 光里はがそっと、彼から手を離す。

 だがその瞬間。雅騎の左手が、まるで離れたくないと言わんばかりに、彼女の手を掴み返した。


「!?」


 思わず驚きの表情で雅騎を見上げる光里。しかし、彼は空を見上げたまま、何も言わず、動かない

 どうすればよいか分からなかったのか。彼女は戸惑いながら、またも俯いてしまう。

 そして二人は、再び沈黙と湯気の中で、静かに時を過ごした。声を発することもなく。


「光里様」


 どれくらい経っただろうか。

 静寂を破り。更衣室の方から突然、光里を呼ぶ声がした。


「そろそろ祭の準備のお時間にございます」


 声の主は紅葉くれはだった。

 それは雅騎を接客したときとは打って変わった、静かで冷淡な声。

 普通の人であれば、それが同一人物の声などと思わなかっただろう。だが、二人はそれをすぐに察する。


「今、参ります」


 光里が返事をすると同時に。雅騎はすっと彼女の手を解放し、じっと見つめる。

 同じように見つめ返す光里に宿る、強き意思。そこに偽りも迷いも、一切感じない。

 そんな彼女に一瞬。誰かが重なって見える。


  ──そういう所まで、御影あいつに、そっくりだな。


 それは。実直で。嘘が苦手で。常に前向きだった、御影幼馴染みの姿。


 雅騎はふっと優しくもはかなげな笑みを見せると、目を閉じうつむく。

 光里は彼に小さく頭を下げると、静かに立ち上がり。そのまま踵を返すと、湯船を出て更衣室へと去っていった。


 再び一人となった雅騎は、大きく息をくと、刹那。ぐっと、奥歯を噛んだ。

 光里がいたときには見せなかった、歯痒さと悔しさを浮かべ。


  ──大丈夫。これで、最後だ。


 彼は知っている。

 これから起こす行動は、御影にも、光里にも。それこそ銀杏いちょうにさえも、辛い思いをさせる、と。


 だからこそ。

 雅騎はその瞬間。笑顔を、捨てた。

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