第二話:冬に微笑み、春に泣き
もうすぐ十二月に入るこの時期。
その日の入りは、思った以上に早い。
既に日も沈んだ夜六時前。
帰宅する生徒もまばらとなってきた
制服の上に学校指定の紺のダッフルコートを着込み。首には赤と黒のチェック柄のマフラー。黒のストッキングを履きながらも、膝丈度のスカートという彼女の姿は、この時間には少々寒そうに映る。
そんな彼女は、寒さに震えを見せる事なく。じっと手に持ったスマートフォンの画面を見つめていた。
そこ映っているのは、朝届いたMINEでのメッセージのやりとり。
『今日行くんだろ? サンディワン』
そんなメッセージを送ってきたのは、雅騎だった。
『いや、今日はいい』
『根詰めすぎたってダメだって。それに勉強には糖分もいるって言うだろ?』
『私は、お前に手加減すらできなかったのだぞ?』
『そんなくだらない理由なら却下。六時に昇降口な』
半ば強引に彼女を
御影は今日これを何度見返しただろうか。
その度に悪夢の事をしばし忘れ、心の安らぎを感じていた。
──何時もそうだ。お前はすぐ、こうやって気を利かす。
過去にも同じようなことがあったのか。何かを思い返すように御影は目を閉じ、わずかに微笑みを浮かべる。
そして。ただ静かに、時が来るのを待った。
「悪い悪い。待たせたな」
突然掛けられた聞き慣れた男の声。
それを合図とするように。御影は壁から背を離すと振り返り、両手を腰に当て不貞腐れて見せた。
「本当だ! 図書室の本はつまらぬものばかり。しかも閉館から三十分は、こんな寒い所で待たねばならん。こちらの身にもなれ!」
ふんっ! とそっぽを向く御影。
雅騎はそんな彼女に苦笑いしつつ、顔の前で右掌を縦にして謝罪する。
「だから悪かったって。だけど寒くたって食べたいんだろ?
「愚問だ!」
彼の問いに、今度は自信満々にそう返す御影。
表情をころころ変える普段らしい彼女に、雅騎も釣られるように笑みを浮かべる。
「じゃ、そろそろ行くか」
「勿論奢りであろうな?」
「分かってるって」
二人は並んで歩き始めると、そのまま学校の正門から住宅街へと流れていった。
周囲の街灯と家々の明かりに照らされる二人。
時に闇の中、時に光の中を、雑談しながらゆっくり歩き続ける。
「しかし、我が校の図書館にはマンガすらないのか?」
「高校の図書館だぞ? 普通マンガなんて置かないだろ」
「あれば間違いなく通う者は多いと思うのだが」
「お前さぁ。学校でも勉強もせずマンガを読み漁る気かよ?」
「そ、そんな事はないぞ。そんな事は」
他愛もない会話に、時に笑みを浮かべ、時に呆れる雅騎。
御影は彼の隣を歩きながら、様々な表情を見せる彼をじっと見つめていた。
同じ高校のブレザーの上に紺のスクールコートを纏い、首には黒のマフラー。
紺に暗めのグレーのチェック柄のズボンをすらりと履きこなしている。
家の写真でも毎日見つめている彼の姿。だが、ここ一週間会えなかったせいもあるのだろう。
──
正面を見たまま話し続ける雅騎の横顔を見上げながら、御影は無意識に嬉しそうな笑みを浮かべていた。
インフルエンザと雅騎が偽っていた間、御影は何度か見舞いに行こうと考えた。
しかし。流石にインフルエンザが
そして。久しぶりに会えた今朝は今朝で、あんな形ですぐに稽古を終えてしまっていた。結果、落ち着いて彼に会いたいという彼女の願いは、この時間でやっと叶ったことになる。
「そういや、こないだクラスでさ──」
雅騎は未だ、話題を切らさず話を続けていく。
御影は知っていた。
それが彼なりに、今朝のことを忘れさせるよう配慮した気遣いであることを。
──本当に困ったものだ。お前は……。
街灯の明かりの切れ目で、二人は少しの間、影に覆われる。
そんな中で御影は、少し恥ずかしげな笑みを浮かべながら、ふと今年の春の事を思い返していた。
* * * * *
御影の家は名字とは裏腹に、代々この神社に奉職する神職の家系である。
春ともなれば、参道前の大きな赤き一の鳥居、そして神社の境内に入る所の二の鳥居の間にある長い石階段は、脇に植えられた桜によって、華やかに彩られる。
そんな、神社への階段を彩る桜の蕾が、ほころびだした頃。
日中ともなると、参拝客や桜を見に来る人達で賑わうこの季節。
とはいえ、日の出前のまだ朝焼けが綺麗なこんな早朝ともなると、誰か来ることもない。
そんな静けさと暗がりの中。御影は一人、神社の
四月より
決して広いわけではないが、それでも一人ではやや苦労する広さ。そんな
と、そんな時。
二の鳥居をくぐってすぐにある、樹齢数百年と言われる大きな桜の木の下。未だ暗がりの中にあるその場所に立つ、一人の人影に気づいた。
目を凝らして見ると。そこにいたのは、緑のパーカーにジーンズを履いたカジュアルな服装に身を包む、黒き短髪の青年だった。
彼は桜の木を見上げながら、何とも嬉しそうな笑みを浮かべている。
見慣れない……いや。今まで見かけたこともない青年。近所に住む者ではないことはすぐに分かる。そして先に話した通り、この時間に参拝に訪れる客など皆無。
──幽霊、か?
一瞬、御影がそう考えたのも仕方ない話であろう。
しかし、幽霊だとしても。
桜の花びらが僅かに舞い散る中に立つその青年は、とても神秘的に彼女の目に映り。何時しか御影は、彼に目を奪われたまま、立ち尽くしていた。
桜の姿に満足したのだろうか。青年は視線を境内に戻すと、静かにその場を離れ歩き出す。
彼もまた、誰かいるとは思いもしなかったのだろう。
通りがけに立っていた御影と目が合うと、青年は一瞬はっとすると、おずおずと頭を下げた。釣られるように、御影も彼に軽く会釈する。
「このような時間に、何用ですか?」
彼女は、普段参拝客と話す時のように、柔らかく丁寧に声を掛ける。
それが青年を少し安心させたのだろうか。
「あ、その……。脅かしてすいません」
彼女の台詞に応えるように、青年は多少苦笑を浮かべると、またも軽く頭を下げる。
そして。顔を上げた彼は、ややはにかんで見せた。
「昔ここに来たことがあって。久々に来れる機会があったんで、ちょっと見に来たんです」
「左様、ですか……」
平静を装いつつも、御影は彼からまだ目が離せずにいた。
思わず彼をまじまじと見つめてしまう行動に、悪意はない。
しかし。青年は短い返事とその行為に、戸惑いを見せる。
「そ、掃除の邪魔になりますよね。参拝したらすぐ帰りますから」
自身が不審者と思われているのでは、と感じたのか。彼は慌てて頭を下げると、彼女をその場に残し、そそくさと足早に立ち去っていく。
「あ……」
御影は小さく声を発する。が、それは彼の耳には届かない。
離れる青年の後ろ姿を見つめながら、御影はそのまま呆然と立ち尽くしていた。
視線の先の彼は、そのまま
自身と同じ年頃の青年がするにはあまりに本格的な、
その理由は、脳裏に
毎朝。稽古の前に、一緒にこの
黒髪で短髪の少年。お互い同い年にも関わらず、御影にはとても頼もしく、そして魅力的に映っていた、その少年。
そんな彼が遠い街へ引越してしまい、疎遠となって約十年弱。
既に
──いや、まさか……。
淡い期待。違うかもしれない不安。入り乱れた感情が、御影の中で少しずつ大きくなっていく。
そんな彼女を
そして静かに振り返ると、一度また御影に笑顔を見せると頭を軽く下げ、そのまま二の鳥居に向け歩き出した。
そんな彼の最後の笑みに、懐かしき思い出の中にいた少年の笑みが、重なる。
「お、お待ち下さい!」
御影は咄嗟に青年を呼び止めた。そして、慌てて側に駆け寄っていく。
呼びかけに歩みを止めた彼は、不思議そうな表情で振り返った。
彼の前で足を止めた御影は、改めて青年の目をじっと見つめる。
──何か。何か言わねば……。
そんな強い気持ちがあるのだが。胸の高鳴りが止まらないせいか。中々うまく言葉が出せない。
しばしの沈黙。その空気を嫌ったのだろうか。
「どうか、しましたか?」
青年は少し戸惑いつつ、首を傾げている。
──このままでは……。
何も言えず、離れてしまうことになるのか。
そんな気持ちで
「もしや……雅騎、か?」
丁寧な言葉遣いも忘れ、思わず素の言葉で問いかける御影。
青年はそれを聞くや否や、まさか、と言わんばかりに驚いて見せた。
「もしかして……御影ちゃん!?」
見知らぬ顔の青年が、自身の問いを否定せず、自身の名を口にする。
それは紛れもなく、彼が雅騎である証拠。
御影は唖然としながら、小さく頷く。それを見て彼の表情が一変した。
「巫女服だったし、もしかしたらとは思ってたけど。久しぶりだね!」
昔を懐かしむかのように、微笑みながら雅騎がそう口にする。
しかし……。肝心の彼女の反応がない。ただ呆然と、微動だにせず、彼を見たまま。
「ん? 御影ちゃん?」
思わず彼が首を傾げる。が、御影は未だ動けなかった。ただひとつ。心を除いては。
──ああ……。
もう逢えないと思っていた
そう感じた瞬間。彼女の心が、懐かしき想い出で満たされていく。
色鮮やかに蘇る、十年も前の幼き日の様々な出来事。
数々の想いが心を満たし、
それは一筋の涙となって、頬を伝った。
「え?」
突然のことに、雅騎は思わず言葉を失ってしまう。
だが、そんな彼を見ても。もう、止まる事はない。
一筋……二筋……。
涙は堰を切ったように、留まることを知らず
「雅騎ぃ!!」
持っていた
「み、御影ちゃん!?」
予想だにしなかった行動に、雅騎は彼女を支えてやりながらも、戸惑いの声を掛ける。だが、そんな彼の事など気にも留めず。御影は彼の胸に顔を
「逢いたかった! ずっと逢いたかったんだぞ! ずっと……」
想いが涙と共に言葉となり、止めどなく
だが、それは仕方ないことだろう。
御影にとって雅騎は、幼き日にできた初めての友達であり、別れと共に気付かされた、初恋の相手だったのだから。
「……ったく。あの頃と変わらないな」
温かみのある言葉が。優しい行為が。
同時に彼女は気づいた。その言葉の意味に。
雅騎との別れの日。
「嫌だ!! 行くでない!!」
そう
あの時も、彼は頭を同じように優しく叩きながら、一生懸命慰めてくれた。
想い出が、自身の今と重なる。
「……うるさい。今だけだ。今だけは、
御影は、何時の間にか真っ赤になった顔を隠すように、彼の胸に
そして。再会できないと思っていた想い人の温もりを感じながら、嬉し涙と共に、幸せそうな笑みを浮かべていた。
* * * * *
「御影?」
雅騎の呼びかけに、御影がはっと我に返る。
お互い歩みは止めていない。だが、朝の件があったせいだろうか。脇を歩く彼は心配そうに彼女を見下ろしている。
「なんかぼ~っとしてたけど。大丈夫か?」
「え、あ。すまんすまん! ちょっと考え事だ、考え事」
御影は顔を真っ赤にしながら言い訳して見せる。
これが昼間だとしたら、その顔を見られ、より色々と疑われるところだったであろう。
しかし、今は丁度街灯が切れた暗がりの中。
その彼女の恥ずかしげな表情が、雅騎に感じ取られることはなかった。
だが。
想い出で蘇った彼女の気恥ずかしさは、そう簡単には消せるものではない。
「それより、このままでは寒さで風邪を引く。走るぞ!」
羞恥心を振り払うべく、御影はそう彼に言い放つと、突然脱兎の如く走り出した。
「お、おい!! ったく!」
雅騎は突然の行動に戸惑いながらも、すぐ彼女を追いかける。
結局。彼等はそのまま
まるで幼き頃。共に街を駆け抜けた日々のように。
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