第一話:戸惑いの矛先

 日の出も近づき、やや空も白み始めた頃。


 鳥のさえずり以外の音もなく、非常に静かな時間。

 御影は自宅の家の隣にある道場で、正座のまま道場の正面を向き、目を閉じたまま誰かを待っていた。


 道場の広さは六十畳ほど。木造造りの建物に、板の間に板壁。正面には『日々精進』と達筆に書かれた掛け軸。そして後方には大きな姿見と、道場としては中々立派な造りである。


 彼女は白の道着に、黒き袖の長い袴を身にまとい、その道場の掛け軸の前で目を閉じ正座していた。

 袴の裾は動きやすいように足首でたすきで止め。同じく道着の長い袖もまた、肩や背中を通した白い綾襷あやだすきによってたくし上げ。

 髪も普段どおり、頭の後ろで束ねた白い布で纏め。


 心静かに、姿勢を正し座する彼女は、凛とした巫女のような雰囲気を醸し出していた。


 そんな御影の耳に、道場に隣接する板張りの内縁うちそでを静かに歩いてくる音が届く。その足音の癖から、彼女は待ち人が来たことを知る。


 シャッと、静かに道場の後ろの引き戸が開く音。それを待っていたかのように。


「遅いぞ」


 御影はそう言い放つと、目を開け静かに立ち上がり、相手に振り返った。


「悪い悪い。久々だったから準備に手間取って」


 引き戸から姿を現したのは、彼女と全く同じ道着と袴を着込んだ黒髪の青年。写真立てに共に写っていた男、雅騎だった。


 御影にとっては見慣れた相手。

 しかし、ここ一週間ほどインフルエンザという理由で彼と朝稽古もできず、姿を見ることもできなかったせいか。久々に元気な姿を見せた彼に、どこか懐かしさを覚えた。


「全く。うちの道場で稽古しているというのにそんなやわだったとはな」

「俺だってインフルになるなんて思ってなかったんだよ。勘弁してくれって」


 呆れ顔で嫌味を口にする彼女に、雅騎は苦笑しながら頭を掻く。


「それならサンディワンで許してやってもよいぞ」

「今日は図書委員で遅くなるんだよ」


 他愛もない会話を交わしながら、御影はゆっくりと道場中央に歩きだす。

 彼女に合わせるように、雅騎もまた道場に入ると、引き戸を閉めそのまま道場中央にを進め。

 そして。手を伸ばせばお互いに触れられる程の距離で、互いに向かい合い歩みを止める。


「別に帰りに待っておいてやらん事もないぞ。今日は予定もないからな」

「……お前、本当にミントアイス好きだよなぁ」


 自信満々に欲望におぼれんとする彼女のあまりの堂々っぷりに、雅騎は思わず呆れて見せる。


「悪いけどこっちは病み上がりなんだ。手加減してくれよ」

「構わんぞ。勿論、ミントアイスは奢りでな」

「はいはい」


 渋々承諾した彼を見て、思わず笑みを浮かべる御影と、呆れながらも一週間ぶりの彼女とのやりとりを楽しみ、笑みを浮かべる雅騎。


 両者はそのままお互い、左半身を前にするように右脚を引くと、拳を握り構えを取る。

 その表情が一瞬で真剣味を帯びる。そして……。


「いくぞ!」

おう!」


 掛け合いを合図に、二人の組手が始まった。


「せいっ!」


 御影が素早く上段後ろ回し蹴りを繰り出す。雅騎はそれを屈んで避けると、そのまま流れるように地面スレスレの水面蹴りを返していく。

 それを小さくジャンプして避けた彼女は、着地した瞬間、今度は雅騎の顔に向け水平蹴りを放つ。が、それを彼は両腕を組み、しっかりと受け止めた。


 二人は小気味よく、お互いの技を出し、避け、受ける。

 掛け声。足音。技が風を切る音。それらは小気味よく。心地よく。この道場を支配していく。


 互いの動きは川が流れるように留まることを知らず。まるで舞を見ているかのように少しずつ、大きく、華やかに。その力強さを増していく。


 二人が稽古しているこの武術は、神名寺流みなでらりゅう胡舞術こぶじゅつ

 代々神名寺家みなでらけに伝わる武術だが、一節では中国唐の時代、あの楊貴妃ようきひたしなんだという踊り、胡旋舞こせんぶが元になったとも言われている。

 その動きは二人が見せているように、大胆かつ華やかな動きが特徴だ。


 門下生同士の組手は、手加減されながら進んでいく──はずだった。

 その異変を感じたのは雅騎だった。

 御影の動きが普段の稽古同様、早さと鋭さを見せはじめる。


 確かに彼は病み上がり──いや、正しくは、怪我が治った直後だった。


 綾摩あやま佳穂かほとエルフィ。

 二人と共に戦ったあの日より一週間。彼女達の助力もあり、痛みも残らない状況まで無事回復できた雅騎だったが、一時はまともに動くのもままならない日々が続いた。

 そのために生じた身体の衰えを痛感し、御影に手加減を申し入れていたのだが。


 組手が始まった当初は手加減を感じていた彼女の動き。

 しかし。今はその真逆の意思を感じるほど、表情の真剣味、そして技のキレが増し続けている。


  ──おいおい、手加減なしかよ!?


 そんな雅騎の戸惑いに気づくこともなく。御影は組手を続けながら、己の心で雑念と葛藤していた。


  ──何故、あんな夢を……。


 彼女は心の中で、今朝の夢を無意識に思い返す。


 あの光景は間違いなく、御影が光里と呼んだ少女を斬り殺した後の光景。

 現実において、御影が光里を憎むことなどもなく、自身にそういう殺人欲求などあるはずもない。


 それなのに、突然見たあの夢。


 その悪夢は、思い出すだけで心のやましさに胸を締め付けられる。それを何とか振り払おうと、彼女は無心で組手に集中しようとした。

 それが、結果として雅騎との約束を無意識に反故ほごする事にも、気づかずに。


 正面で技を繰り出していた御影が、突然雅騎の正面から消えた。

 いや。正しくは非常に早い動きで雅騎の側面に移動したのだが、力なき者が見れば、それを目に追うことすらままならなかったであろう。


  ──瓢風ひょうふう!?


 神名寺流みなでらりゅう胡舞術こぶじゅつ瓢風ひょうふう


 その身を素早く転身し、相手の側面を取る。

 雅騎はその、普段の組手では繰り出されない技に驚きを隠せない。


 自身の脇に転身した御影を捉えるように素早く振り返る。そこには流れるように移動した勢いそのままに、鋭く回転しながら彼の頭に肘打ちを繰り出そうとする彼女の姿が迫っていた。


「マジかよ!?」


 その動きから次の技を予測した彼は、そのに思わず声を上げる。

 が。彼女の表情は崩れず、その動きが止まることもない。


 神名寺流みなでらりゅう胡舞術こぶじゅつ竜巻たつまき


 顔面への肘打ち、胴部への膝蹴り、そして足元への後ろ回し蹴り。素早い回転でこれらを連続で繰り出す技。

 これを御影は、既に実戦さながらの勢いで繰り出していた。


 全身で回転しながら放たれる頭部への肘打ち。

 雅騎はこれを、僅かに身を反らし避ける。


 鼻先を掠める肘が過ぎ、素早い回転で次に来る腹部への膝蹴り。

 これも肘と膝を合わせ、何とか受け止める。だが、それでも御影の勢いを殺せない。


 受けた手足に感じる強き衝撃。それが踏ん張った雅騎の身体を後方に大きく崩した。

 倒れかけた彼に向かい。最後の足元を狙った後ろ回し蹴りが容赦なく繰り出される。


「ちいっ!!」


 雅騎は咄嗟に、技を受けた足を素早く戻すと勢いよく床を踏み抜き、無理矢理跳んだ。

 倒れかけた彼の身体がその勢いで、大きく後方に宙返りするように舞う。

 その機転が功を奏し、御影の回し蹴りはくうを切った。


 ……が。今度は雅騎の着地の隙を狙わんとすべく、回転を止めた御影が一気に姿勢を低くし、刹那。彼に向け勢いよく踏み込んだ。


「おいおいおい!!」


 その速さは既に実戦の域。一気に間合いを詰められた雅騎は、着地の反動を殺すので精一杯で、反撃や回避の余裕はない。

 狼狽ろうばいする彼を気にも留めず、御影はその速さのまま両掌を突き出し、その胴部に一撃を食らわせようとした。


 狼突牙ろうとつが


 狼が敵を狙い一気に駆け寄り飛びかかる。そんな動きを模した、これもまた神名寺流みなでらりゅう胡舞術こぶじゅつの突進技の一つ。


 その重い掌打しょうだが直撃──いや。それを雅騎はぎりぎり両腕を十字に重ね、何とか防ぐ。

 しかし。腕に感じる激しい痛みと共に、彼はそのまま勢いよく吹き飛ばされると。内縁うちそでとは逆、道場の板壁いたかべに勢いよく激突した。


「がっ!!」


 背中に走る強い痛み。

 咄嗟とっさに壁に対して受け身を取っていた雅騎でも、その衝撃を完全に抑えきることはできず、思わず顔をしかめる。

 しかし、それで彼が倒れた訳ではない。御影はまだ立っている相手に迷いも見せず、もう一度狼突牙ろうとつがの構えを取る。


「洒落にならねぇぞ!」


 先の一撃で感じた手加減のなさ。

 雅騎は止む無く、自身も本気で挑むべく、気持ちを切り替えた。


 再び一気に迫る彼女に合わせ、雅騎も跳ねるように壁から背を起こすと、一気に前のめりに身体を構え。瞬間低い姿勢の踏み込みから、狼突牙同じ技を繰り出す。


 お互いの掌打しょうだがぶつかる。

 力は互角。


 その反動で二人共大きく後ろに吹き飛ぶ。が、まるで動きを合わせたかのように、互いに空中で姿勢を整えると、綺麗に床に着地した。


 だが次の瞬間。

 三度みたび、御影は狼突牙ろうとつがを放とうと、雅騎に向け駆け出そうとしていた。

 対する雅騎は、やはり一週間で鈍った身体のせいか。着地は出来たが、まだ踏み込むには至れない。


「くっ!!」


 彼は一か八か。その場で両腕を体の前で上下にくの字に突き出し、受けの構えを見せた。


 神名寺流みなでらりゅう胡舞術こぶじゅつ陣風じんぷう


 それは疾風の如き早さで相手の技の力を利用し、攻撃を受け流し地面に叩きつける合気の技。

 今の自身の身体で受け流せるかは五分五分。とはいえ、これ以上本気の御影の一撃をまともに食らうわけにもいかない。

 彼にとって、それは背水の陣ともいうべき行動だった。


 迫る御影。構える雅騎。

 互いの技が交わろうとした、その瞬間。


め!!」


 耳をつんざくほどの大きく、覇気のこもった澄んだ女性の声が、二人を制する。

 その声が、雅騎が技を受けようとするすんでの所で、御影の技を留まらせた。


「何をやっているのですか。御影」


 思わず二人が声の主に目をやる。


 何時の間に道場に入ったのか。そこには湯呑を載せた盆を持つ、藍染あいぞめの着物を着た女性が立っていた。

 御影と同じ漆黒の髪を頭の後ろで結い止めた、顔立ちも彼女に似たその人物こそ。彼女の母、神名寺みなでら銀杏いちょう


 彼女は険しい表情で、御影をじっと見つめる。


 その視線にはっとし、彼女は自分が今どんな状況なのか、改めて自身と雅騎に目を向けた。

 己が繰り出していた技。それは間違いなく、組手で繰り出す事のない狼突牙ろうとつが。それは雅騎の陣風じんぷうの構えも、また同じ。


 瞬間、御影は気づいてしまった。

 雅騎は、組手で相手を傷つけかねないような技を繰り出すことなどしない。

 つまりこの状況は間違いなく、自らが引き起こしたものだと。


「す、すまぬ!」


 御影は慌ててその場に正座し、頭を深々と下げた。


「おいおい。そこまでしなくてもいいって」


 彼女の態度の急変に、雅騎は拍子抜けしながら構えを崩すと、困ったように頬を掻く。

 しかし。彼のそんな慰めの言葉にも、彼女は己の否を譲らない。


「いや。こんなことあっては成らぬのだ。病み上がりで手加減してくれと頼まれたにも関わらず、雑念に囚われ本気を出すなど……」

「まあ、確かにそうかもしれないけどさ」


 平伏する彼女はふと、目の前に迫った雅騎の気配を感じ、顔を上げる。

 そこにはやや身を屈め、優しい笑顔で手を差し出す雅騎の姿があった。


「まずはお茶が冷める前に、休憩しよう」


 何者もゆるすかのような屈託のないその笑顔。

 そんな彼らしい表情が、御影の心に温かく、みる。


  ──すまぬ……。


 彼女は心で謝罪と感謝を込めた言葉を呟くと、ゆっくりと雅騎の手を取った。


* * * * *


「いただきます」


 道場の隅に場所を移し、三人は床に置かれた盆を囲むように正座すると、それぞれ湯呑を持ち、注がれたほうじ茶を飲み出す。

 雅騎と銀杏いちょうは静かに、ゆっくりと。対する御影は勢いよくほうじ茶を飲み干していく。

 香ばしい独特の香りと味。それが各々の心を落ち着かせていった。


「ふぅ」


 先に半分ほど口にした御影は、湯呑を両手で膝の上に持ちながら、大きく息をく。


「少しは落ち着いたか?」


 湯呑から口を離した雅騎が、彼女と同じ姿勢で問いかける。


「うむ。しかし、本当にすまぬ」

「いいって。ほんと気にするなよ」


 改めて軽く頭を下げる御影を制しながらも、彼は腑に落ちない気持ちで彼女を見ていた。

 先の動きから、体調が悪い訳ではない事は分かる。

 しかし。何処か顔色が悪く、冴えない彼女の表情は、真逆の状況に感じてしまう。

 何かあったのか。彼の疑念が強くなる。だが……。


  ──流石に、聞くのも悪いしな。


 雅騎はそう割り切ると、改めてほうじ茶を口にした。

 彼らしい気遣い。だが、折角の彼の行動も、銀杏いちょうによって無に帰す事になる。


「何を考えていたのですか?」


 同じく湯呑から口を離した彼女は、やや心配そうな表情でそう尋ねる。

 その言葉に、御影は手に持った湯呑に視線を落とす。表情にはやはり、普段の彼女らしからぬ影が浮かぶ。


  ──あんな夢、話せるものか……。


 そう。話せるわけがなかった。

 銀杏いちょうであり、自身のである光里をあやめた夢を見たなどと。


 改めて思い返すだけで気が滅入り、一瞬身震いしそうになる。が、それを何とかこらえると、


「そ、そろそろ期末テストも近いからな。少し頑張って勉強していたのだが、そのせいかまだ眠気が残っていて、な……」


 御影は力なく、困ったように苦笑を浮かべた。


 だが、雅騎も銀杏いちょうも、それを聞き、すぐに理解してしまう。

 これは、嘘だ。


 正直者で嘘が下手な彼女らしく、言葉の歯切れが悪いのも理由にはある。だが何より、ついた言い訳が悪すぎた。

 御影がテストのために勉強を必死にするなど、二人には考えられない。それくらい、彼女は勉強が嫌いなのを二人は知っているのだから。


 あまりに見えいた嘘に、思わず銀杏いちょうはそれをとがめようとした。しかし……。


「そういうのは根詰めすぎても良くないだろ。あまり無理はするなよ」

「……うむ。すまない」


 雅騎は先に会話に割って入ると、敢えてそれをし、会話を無理矢理に終わらせた。


「雅騎。すまぬが今日の稽古はここまでにしても、良いか?」

「ああ」


 顔を上げず申し訳無さそうにする御影に、彼が短く相槌を打つ。


「すまぬ……」


 その言葉を聞くや否や。

 御影は静かに湯呑を盆に置くとすっと立ち上がり、何も言わずに引き戸を開けると、二人を振り返ることもなくそのまま内縁うちそでに出て行った。


 残された二人は、ほぼ同時に、ゆっくりとほうじ茶を口に含む。


「雅騎」


 茶を飲み一息いた後。銀杏いちょうは座したまま雅騎に向き直ると、静かに頭を下げた。


「娘への気遣い、感謝します」


 突然の彼女の行動に、彼は少し困ったような苦笑を浮かべる。


「気にしないでください。銀杏いちょうさんは知りたげでしたけど。本人が話したくないなら、それは親でも踏み込むべきじゃないと思っただけなんで」


 雅騎はそう返した後、残りのほうじ茶を飲み終えると、静かに盆に湯呑を戻す。

 そして。銀杏いちょうに座したまま向き直り、真剣な表情で彼女の目を見た。


「ちなみに。銀杏いちょうさんに心当たりはありますか?」


 真っ直ぐな彼の視線。

 銀杏いちょうはそんな雅騎としばし目を合わせていたが、ふっと僅かに目線を逸らし、首を振って否定した。


「……そうですか」


 彼はそんな無言の返事を確認すると、表情を引き締め、すっと立ち上がる。


「また明日の朝来ます。もし御影がまだ悩んでいそうなら、落ち着くまで朝稽古は休ませてあげてください」

「そうしましょう。今日は本当にごめんなさいね」

「気にしないでください。では、失礼します」


 座ったまま見上げる銀杏いちょうに、雅騎は頭を下げ一礼すると、そのまま引き戸を開け、道場を去っていった。


 一人残された銀杏いちょうは、またもため息をくと、その表情を曇らせる。


  ──この時が、来てしまったのですね。


 切なげで。悲しげで。

 その切なげな表情は、悪夢について知っていると言わんばかりのもの。


  ──ごめんなさい。御影。雅騎。


 心の中で、銀杏いちょうはただ、届かぬ謝罪を口にしていた。

 この先にあるであろう何かに、覚悟を決めるかのように。

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