第19話 5階へ

 さっきまでの勢いはどこへやら、僕たちは6階の廊下で立ち止まってしまった。

 ズルッ、ドスッという音は、下の方から響いてくるようだった。

「何の音だろ?」

 アキが僕をつつきながら小声で言った。僕は「わかんない」と答えるしかなかった。

 ナルが恐る恐る、階段の手すり越しに下を覗き込んだ。

「誰もいねーぞ。たぶん、もっと下で音がしてるんじゃねーかな」

 僕はナルと顔を見合わせた。ナルは太い眉をぎゅっと吊り上げ、「今のうちに下に降りよう」と言った。

「……よし」

 僕たちは急いで5階に降りた。ほんの少しの距離なのに、心臓がバクバクいっている。音を立てている何かと鉢合わせたらどうしようと思うと、いてもたってもいられないのだ。

「開いた!」

 アキがガラス戸を開き、押し殺した声を上げた。僕たちは5階のオフィスになだれ込んだ。

 一瞬、「あ、しまった」と思った。入る前に、中がどうなっているのかを確認しそびれてしまったのだ。しかし幸運なことに、5階に危険そうなものや怪しいものは何もなかった。トイレも急いで確認したが、誰もいない。

 5階の部屋にも間仕切りはなく、ほとんどのものが運び出されてガランと広かった。ただガラス戸のある壁際に、ブルーシートのかかったものが放置されていた。

 シートをめくってみると、使い古された印象の木のテーブルだった。2人がけくらいの大きさだ。

「おい、音が大きくなってないか?」

 アキが言った。「下からどんどん上がって来てるんじゃねコレ? どうする?」

「大友さん、桜ちゃんと机の下に隠れろ」

 ナルが2人をテーブルの下に、有無を言わせず押し込んだ。

「みんなは?」と、大友さんが青白い顔で言う。

「俺らもその辺に隠れるよ。でもこのテーブルは小さいから、全員は入れねー」

「ほかに隠れるとこなんかどこにあるの? トイレなんか行き止まりだし」

 大友さんは珍しく、ケンカっぽい口調になっている。「私なら大丈夫だよ」

「大友さんが大丈夫でも、俺らは桜ちゃんを守らなきゃなんねーだろ」

 ナルも怒ったように続ける。

「俺らは6年生だし、何かが来ても走って逃げられるだろ。でも桜ちゃんは1年生で小さいから、俺らについてくるのは無理だ。だったらここに隠すしかねーし、一緒に隠れるならねーちゃんの大友さんが一番いい」

 ナルは凄いな、と僕は思った。こういうときにパッと物事を決められて、しかも人に指示するのは、僕にはできないことだ。きっとあれこれ考えすぎてしまう。ナルは探検発案者としての責任を感じているのかもしれないけど、それにしても凄い奴だと思った。

「そうだよ。もしも桜ちゃんが怖くて大声出しそうになっちゃったら、俺らじゃ宥めるの無理だからさ」

 アキもそう言った。こいつだってビビリだけど、ちゃんと仲間と助け合おうとしているし、相変わらずこういう時にフォローに回るのが早くてうまい。

 大友さんは妹だけじゃなく、僕たちのことも気遣ってくれる心の強いひとだ。桜ちゃんだって泣いたり、駄々をこねたりしないでついてきてくれているじゃないか。

(僕も頑張らなくちゃ。僕にできることだって、きっとあるはずだ)

 僕は強くそう思った。後になって思えば、この気持ちが僕にあんなことをさせたのだ。

 ナルはテーブルのブルーシートを直すと、廊下から見て机の影になるように身を潜めた。アキも同じように隠れる。

 僕は床に腹這いになると、壁に寄りながらギリギリまでガラス戸に近づいた。

「タツノ、何やってんだよ!」ナルがひそひそ声で怒鳴る。

「ここなら廊下からギリギリ見えないよ。僕が何が来るか確認する」

 僕は後ろを振り返った。ナルのまだ怒っているような表情を見ながら、なるべく平気そうな顔をした。

「どんなものが来るのか、わかんないと困るだろ。僕が一番小柄だから、僕の役目だよ」

「バカ、その姿勢から立ち上がるの、時間がかかるぞ」

 ひそひそ声で言い争っている僕とナルに、アキが怖い顔で言った。

「静かに! 来るぞ!」

 ズルッ、ドスッ、ズルッ、ドスッ……。

 ガラス戸を通してさえ、微かにその音は聞こえてきた。いつの間にかこんなに近くなっていたのだ。ナルは言い合いを諦めたらしく、体格のいい体をぎゅっと縮めるようにして、クラウチングスタートみたいな姿勢になった。アキも同じような格好をしている。

 僕は床に耳を当てた。確かに音はだんだん大きくなっていく。階段を誰かが上がってくるのだ。

 そして僕の視界に、白い靴が入った。

 汚れ一つない真っ白な靴は、場違いなほどきれいだった。ひだのついたスカートも、丸くふくらんだ袖も、目に染みるくらい白い。

 うつむいて長い髪を顔の両脇に垂らし、真っ白なドレスを着た女性が、ガラス戸の向こうに姿を現した。

 ズルッ、ドスッという音が、ズル、ズルという音に変わる。女性は大きな頭陀袋を引きずっていた。重そうに運んでいる。女性のドレスとは対照的に、その袋は汚れていた。灰色がかった布地に、大きな赤黒い染みがついている。

 女性はガラス戸の方は見ずに、ゆっくりと、開かないエレベーターの前を通り過ぎた。背中がこちらに向く。そのとき、彼女の後頭部から、白い突起が髪の毛を割るようにして飛び出しているのに、僕は気づいた。

 突起にはふたつの穴が空いていた。あれは鼻だ、と気づいたとき、長い髪がスッと縦に割れた。

 目を閉じた白い顔がそこにあった。

「うっ」

 僕は右手で口をふさいだ。もう少しで叫び出しそうだったからだ。あの女の人は、後頭部にも顔がある。ふたつの顔が。そのことがわかった瞬間、理屈を超えた恐怖が僕を襲った。

 あれが「門の花嫁」なんだ。

 もし、あの目が開いてこちらを向いたらどうしよう、と考えると、手の震えが止まらなかった。僕は後悔していた。あの姿を見てしまったことも、そうしようと決断したことも、ここにやってきたことも、すべてなかったことにしたかった。

 ズルッ、ドスッ、ズルッ、ドスッ……。

 女性は階段を上り始めた。白いドレスがだんだん見えなくなる。その姿が完全に視界から消え、音が遠ざかったと確信して、僕はようやく口を覆っていた手を外した。

 手の甲が濡れている。僕は泣いていた。まばたきするのを忘れて、涙を流していたのだった。

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