第五章 女王の行方 1

 風が吹いた。

 砂上の小さな足跡と、重い荷物の軌跡きせきが消えて行く。


 コツリ、コツリと、砂粒の打つ音が聞こえる。

 顔をおおう仮面を砂が打ち、ゴーグルに付着した砂埃が視界を奪う。

 

 少女は、頭巾の端でゴーグルを拭った。

 開けた視界の向こう側……連なる砂丘の狭間はざまの奥で、暁が生まれつつあった。

 

 その場に膝をつき、防塵用のマントで体を包みなおすと、少女はうずくまった。

 満月を背に己の影を踏み続け、夜明けと共に休み眠りにつく……。

 これを何度くり返した事だろうか。

 

 少女が引きずる荷物はまだ重く、少女の小さな胃では、しばらくは食料が枯渇こかつする心配はなかった。だが、水筒の中の水は、まもなく尽きようとしていた。

 

 白海は砂漠ではない。しかし、地表をおお遮蔽物しゃへいぶつも、地中に水をとどめる草木もない白海は、砂漠同様、日中はひどく暑かった。

 

 補給の術を持たない少女は、陽をさえぎるマントの中でただ静かにうずくまり、日が落ちるのを待ち続けるしかなかった。

 

(父様、私はどうすれば……)

 

 父は、死際に言った。

 影を踏み続ければ、やがて島に着くはずだと。しかし、島の名も、島に着いた後の事も、そして、島の誰に頼れば良いのかも……聞くことはできなかった。

 

 何度か近くを砂の民が通りかかった事もあった。その度に、ポーラは助けを求める所か、砂の中にせてやり過ごした。

 父は、砂の民に殺されたのだ。父の義兄弟ですら裏切った。ポーラに取って、砂の民は救いを求めるべき相手ではなかった。


 助けてくれる者も、信用できる者もおらず、自身を助ける為の当ても知識もない。ならば、父のたった一つの言葉だけを頼りに、ポーラは独り進み続けるしかなかった……。

 

 じっとうずくまる。日が中天ちゅうてんに立ち、またくれ落ち、代わりに満月が顔を出す。

 高い砂丘のいただきまでしらみ始めた時、己の影を踏みしめるようにして、歩き出す。


 ポーラの小さな足では、大して進む事はできやしない。時間とて、頂点に達した満月が沈むまでの間だけだった。

 日中温存しておいた体力を活用するかのように、ポーラは足を早め、時には駆け出し、転び、また歩く。

 

 月明かりの下では、月をおがみに、小さな生き物らがい出し、砂上を駆け回った。小さな蜘蛛クモがスベるように移動し、それを狙って小さなトカゲが追い回す。

 その内、一匹のトカゲが、蜘蛛よりも大きなポーラに興味を示し、ポーラの周りをうろつき始めた。やがて、夜ごとにポーラの近くに現れ、気づけばポーラの後を着いて回るようになっていた。

 

「トカゲさん……」

 

 ポーラが手を差し伸べると、トカゲは恐れげなくてのひらに飛び移った。そして、掌から腕へと登り、まるで甘えるかのように小さな肩の上で丸くなった。

 

「あなたも独りなの?」

 

 何もない白海の真っただ中で、一匹の友達ができた。ポーラは時折トカゲにささやきながら、砂地に足跡を残し続けた。

 


 何度目かの朝を迎えた時、ポーラは水筒を口にした。しかし、既にそこには、唇を湿しめらせる水すら無かった。

 

 ポーラは嘆息すると、その場にかがんだ。肩のトカゲが腕をつたい、ポーラの掌に移る。

 ポーラは、トカゲに話しかけた。

 

「トカゲさん……あなたも大きなトカゲさんと一緒で、お水は5日に1度でいいの?」

 

 トカゲになつかれて以来、ポーラはトカゲが虫を捕まえる所は見ても、水分を摂っている所は、一度も見ていなかった。


「5日経って、喉が渇いた時は、どうするの?」

 

 ポーラがもう一度話しかけた時、トカゲの瞳がうるみ出した。またたきをする度に、それは大きくなり、一雫ひとしずくかたまりへと変わった。トカゲは舌を伸ばし、それをペロリとめとった。

 

 ポーラも思わず、指先で、トカゲのもう片方のしずくをすくい取った。しかし、それは余りにも小さく少なく、口に付けると、舌先で溶けて消えてしまった。

 

「そう……あなたは、自分でお水を作れるのね?」

 

 砂漠の小さなトカゲは、大気中の湿気をまぶたふちに貯める事ができるのだ。


 

 ポーラは白海の旅は初めてだったが、砂漠を旅した事ならあった。

 ドッドリーの砂漠。正真正銘、本物の砂地で、あそこにはオアシスなんてものもあった。

 一頭のロバに乗りながら、父と一緒に横断した。

 

 ドッドリーの砂漠では防塵マスクもいらず、視界は広く、見渡す景色は天地ともにんでいた。見上げれば、父の顎髭あごひげが見え、手を伸ばして良く悪戯いたずらをした。

 

「父様……」

 

 ドッドリーの砂漠で、父との思い出を振り返った時、ポーラはある事を思い出した。

 

 水筒に口をつけて間もないのに、喉の渇きを訴えた時、父はポーラの口に何か含ませてくれた。

 硬くて丸いもの……それを舌の上に乗せるだけで、口の中は唾液だえきで溢れ、喉の渇きをいやしてくれた。

 

 小さなドッドリー砂漠を越えた後、口から吐き出してみると、それは単なる小石だった。

 

「小石……」

 

 小石を口に含むだけで、喉の渇きは癒されたのだ。それを思い出したポーラは立ち上がった。

 

「小石を……日が沈む前に、小石を探さないと……」 

 

 そうつぶやくと、ポーラは炎天下の中で歩き出してしまった。

 だが、歩き回った所で、白海には白い砂以外、固形物などありはしない。時たま出会う岩くれですら、白海の白い粒子と本物の砂の塊に過ぎないのだ。

 

 歩く度に汗が流れ、それが熱で蒸発し、防塵服の中でこもりだした。

 ポーラは、半時間もしない内に耐えられなくなった。こもった熱を外に逃がそうと、防塵服をはだけた。

 天上のまぶしい陽光が、汗と蒸気を干上がらせると、ポーラは、ほっと溜息ためいきをついてその場に座り込んだ。


 気化熱によって、体表の水分と体熱をも奪われてしまう事を知りもせずに……。


 

 やがて空の主が入れ代わり、辺りが青白く照り返し始めた時、しかし、その中で横たわる少女は、いつものように歩こうとはしなかった。


 手足が震えだしたのは、防塵服をはだけて汗を乾かしてから間もなくの事だった。水分が不足した血液は重く、それを押し出す為に鼓動が大きくなった。

 唇が乾燥し、胸に異常を感じた時、少女は既に激しい脱水症状におちいっていた。

 日が暮れ落ちた頃には、もはや少女の気力と体力は風と共に霧散し、意識は混濁しつつあった。


 眼球は、じっと砂上を見据えたまま、動こうともしない。

 このまま……白海に芽吹いてしまった不運な草花と同じように、枯れ行くのだろうか。

 

(父様……)

 

 父の遺言を果たせそうには無かった。

 次第に視界はぼやけ、虚無の砂埃におおわれて行った……。




 ふと気づくと、ポーラはベットに横たわっていた。

 寝台の四方は、天蓋から下ろされた紗幕しゃまくおおわれ、自身は暖かい産着うぶぎに包まれている。

 ランタンが淡い光を幕に落とし、甘い香料が嗅覚をでた。


 これは、いつの記憶だろうか……?

 産着の中の手足は短すぎて動かせず、自分の首すら回せない。ただ、大きな目だけが、キョロキョロと辺りを見つめる事ができた。

 赤ん坊の頃……?

 

 紗幕の向こうで、男女の怒鳴り声が聞こえた。

 

「宰相は、みだりに挙兵するような方ではありません。何か事情があったのでしょう。話し合えば分かってくださるはずです」


「……、……!」


 女性の声は、誰だか分からなかったが、男性の声は父……ザイルのものだった。しかしなぜか、ザイルの言葉は聞き取れなかった。

 

「そもそも貴方あなたが差し向けた憲兵……あれは本物ではありませんね?大方おおかた浮浪傭兵ラバーフでも雇ったのでしょう。一体、彼らに何と言い含めて宰相の逮捕に向かわせたのですか!?」

 

 女性の詰問するような声だけが、ポーラの耳に届く。

 

「今回の事態は、あなたが引き起こしたようなものです!こんな事に、モルクたちを犠牲にすべきではありません!」

 

 ポーラの胸は、なぜかドキドキとした。言い知れぬ不安感が湧き上がり、まるで見えない手が、ザイルが言葉を発する度に耳をふさいでいるかのようだった。

 

 言い争う声が途切れた。

 しばしの間を起き、再び怒声が交わされたかと思うと、突然、それもまた途切れてしまった。

 

 寝台の紗幕が開かれた。そこには、返り血を浴びたザイルの姿があった。

 ザイルは、幼子に片膝をついた。

 

「モルティアラ様……」

 

 ポーラは、それが自分の本名である事を思い出した。

 

「あなた様は、このザイルが必ずやお守り致します。どうか、しばしのご不便をお許し下さい」

 

 ザイルは一礼し、幼い女王を胸に抱いた。そして、手で幼子おさなごマナコおおうと、部屋から駆け出した。

 指の隙間から、ほんの一瞬、赤い鮮血の上に横たわる女性の姿が見えた。

 

(あの女の人は誰だったのかしら……?あれは、父様が……?)

 

 残るはずのない幼子の記憶……現世うつしよから離れつつあるポーラの魂が見た幻なのか、それとも暗転した意識の中でみた夢なのか……。

 



 突然、ピリリとした信号が脳髄に走った。幾度も。

 何度も同じ信号がくり返される内に、それが痛覚である事を思い出した。

 ポーラは顔をしかめた。何かが首元に何度もみ付き、いずり回っている。

 

「……!」 

 

 今度はちゃんとした痛覚が感じられた。うごめく何かがマスクの中にまで入ってきた。

 不快さに、ポーラは手をマスクに掛ける。動かなかったはずの手が動き、防塵用の仮面を外した。

 解放されたマスクの内から現れたのは、ポーラになついていた小さなトカゲだった。

 

(トカゲさん……)

 

 小さなトカゲは、ポーラを起こすと、奇妙な動きを見せた。少し離れたかと思うと振り返り、ポーラの元に戻ってきたかと思うと、また離れ、そして振り返る。

 まるで、こっちに来いと言わんばかりに。

 

 ポーラは、フラフラと身体を起こした。しかし立ち上がる事はできず、そのままいずろうとする。

 肩から掛けていた重い荷物を外し、ポーラは小さなトカゲに誘われるまま、少しづつ、少しづつ……這いずり出した。

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幻想英雄伝 白海の女王 風都水都 @kaze_to_mizuto

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