砂の民 4

 やがて月は、雲の衣を脱ぎ捨てた。


 再び大地は一色の白で満たされ、その中に、大トカゲの足跡と二筋の血だけが続いていた。

 砂トカゲが力尽き、倒れた。


 ザイルは娘と共に、砂地に降りると歩き始めた。二筋の血は、一筋となって親子の後に続いた。

 息を乱しながらもザイルは歩き続けたが、やがて、砂地に膝をついた。


 彼の背には、一筋の矢が立っていた。

 砂トカゲを撃った大袈裟な矢ではない。普通の、弩用の短い矢だ。だが、人間を殺すには十分な場所と深さをとらえていた。


「父様!」


 月明かりに照らされた娘の顔を、ザイルは両手で撫でた。


「ポーラ……」


 ザイルは背負っていた荷物を下ろすと、


「ここから先はお前一人でいかねばならない……これを持って行きなさい……」


 父の言葉に、しかし、ポーラはかぶりを振る。


「父様、わたし一人じゃ進めない……」

「大丈夫だ……」


 ザイルは砂の上に崩れた。だが、優しい眼差しを娘に向けたまま、告げる。


「月が一番高くまで登った時……近くの一番高い砂丘よりも高くなった時だ……月に背を向けて、自分の影に向かって進みなさい。昼は休んで、夜に進むんだ……」


 苦しげに吐血する。


「父様!」


 涙を流す娘の頬を拭ってやりながら、ザイルは呼吸を整え、言葉を続けた。


「私の計算が正しければ、いずれ島に着くはずだ……大丈夫……お前は特別だ……必ずたどり着ける……」

「嫌です父様!ずっと、そばにいさせて!」

「それはダメだ……ダメなんだ……」


 ザイルは、苦しげにかぶりを振った。


「ここにいては、お前まで死んでしまう」

「父様が死ぬなら、私も一緒に死ぬ!」

「ダメなんだ!」


 突然、ザイルは起き上がった。ポーラの両肩をつかみ


「ペンデェラムなど、どうでもいい……ただのガラクタだ。本当の宝は、お前自身だ……。私は、お前を死なせる訳にはいかんのだ……。絶対に、お前だけは……」

「どうして……?」

「それは……」


 かすれ始めた視力の中で、ザイルは娘の顔を見据みすえた。だが、そこにあったのは、弱くはかなげな少女のものではなかった。


「それは……」。


 父の言葉を少女は続けた。


「それは……私が女王だからですか……?」


 ザイルのまなこが大きく見開かれた。その表情は驚愕きょうがくに強張っていた。


「知っていたのか……」


 少女はうなずいた。


「父様は、女王様の話をする時、他人に話す時と私に話す時では、言い方が違いましたね……。他人には女王が今も閉じ込められて生きているように話すのに、私にはいつも過去形で話していました。私には、まるで、女王様が死んだ事を隠しているように思えました……」


 今度は、少女の方から、両手で父の頬を包み込んだ。


「父様は、私に沢山の本を読んで下さいました。その中には、女王様にまつわる話も沢山ありました……。女王様は結婚しない事……決して老いない事……長命の末、自分の命と引き換えにたった一人だけ子供をお生みにな事……」


 言葉使いすら変わった少女の様子に、ザイルは唖然あぜんとしていたが、少女は優しく微笑みながら続ける。


「もし、女王様がお亡くなりになっているならば……そして、宰相に殺されていないならば……女王様は子供を召されて亡くなったのかも知れない……だから次の女王が誕生する前に宰相は動いた……。もし、そうなら、その時に生まれた子供は……私と同じ七歳のはずです」


 ザイルは震えた。しかし、それは尽きようとする命の震えではなかった。


「いつからだ……?」

「確信したのは、父様が、私に歳をいつわるように言った時からです」


 乾いた砂地に、大粒の滴がザイルの目から流れ落ちた。ザイルは、感動で震えていた。


「さすが……さすが女王の血だ……なぜ、黙っておられたのか……」

「無知で愚かな子を装い続ければ、もしかすると、父様は私を女王にするのを諦めて……ずっと、普通の親子として過ごしてくれるかも知れないと思ったからです」


 ザイルはかぶりを振った。


「それはできない」

「どうして?」

「七年前……戦火の中、私は、乳飲み子のあなた様をだかえて逃亡しました。女王……あなたの母上様から、次代の女王を守るように命じられていたからです……私の使命は、あなた様を守り、王位に付ける事……その為だけに私は生きてきたのです」

「父様……でも、皆が女王を望んでいる訳ではありません……」


 ザイルは再び激しくかぶりを振った。


「どうかお許しを……私はあなたの父にはなれぬのです……」


 両拳を祈るように重ねる。


「どうかお許しを……!」

「父様……」

「私めの名は、ドフィリー族のザイル。あなた様の最初の侍従でございます。私めの望みは、あなたが女王として、この世界を統べて下さる事……それだけが私の生きる意味なのです……どうか……」


 ザイルは、そのまま崩れ落ちた。今の言葉を譫言うわごとのように繰り返す。何度も、そして次第に小さな声で……。

 少女の涙がザイルの額を打った時、ザイルの喉からは、微かに漏れていた息吹さえ、聞こえなくなっていた……。


「父様……」


 少女は、虚空を見つめたままのザイルの目を、そっと閉じさせた。

 たった今、少女は父を失ったのだ。女王は、今、唯一の近習を失ったのだ。

 少女は父の亡骸に手を合わせた。七年間の感謝と鎮魂を祈りながら……。

 

 やがて、月が一番大きな砂丘を越えた時、少女は立ち上がった。父の荷物から食糧と水筒を取り出して背負い、父の腰から剣をはずした。だかそれは少女の身体には、余りにも大きくて重かった。

 少女は、剣を諦め、食糧と水だけを持つと、月が差す方角に歩み始めた。何度も父の亡骸を振り返りながら……。


 砂丘を登り、頂点に達した時、少女はしばし父の亡骸を見詰めた。この砂丘を降りてしまえば、もう父の姿は見えなくなってしまう。父と少女を結ぶ足跡も、いずれは、流れる風と砂と共に、かき消されてしまうだろう。そうなれば、もう二度と、少女は父の元に戻る事はできなくなってしまう。

 だが、それでも少女は進まねばならなかった。少女は最後の祈りをささげると、月光に背を向け、己の影を踏みしめながら、一歩、また一歩と歩み始めた。


 のどは渇きをおぼえても、頬を伝う滴は乾かなかった。だが、もう少女は後ろを振り返らなかった。

 あどけない少女だった過去と決別し、女王として未来の義務をはたすべく、少女は、前へ……前へ……と、進み続けた……。

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