ドン! ブッ! パーン!
……一昔前に『南方遭難録』という本が流行した。
嵐に会い遭難した漁師の磯五郎が海の向こうの大陸まで流され、そこから紆余曲折へて故郷まで帰って来るという旅行記であった。
その中の一章、南方に広がる密林にて『ゴリラ』と邂逅した話は大喪人気であり、そこだけを抜き出して舞台や講談で広く演じられていた。
曰くゴリラとは、黒い短毛に覆われた大きな猿で、拳を地に着き四足で歩き、主に草木や果物、時折昆虫などを食し、外敵と出くわしたなら己の胸を叩いて威嚇するという。鋭い牙と太い腕を持つがその知能は高く、こちらから手を出さない限り襲ってはこない大人しい性格だと伝えられていた。
そのゴリラと磯五郎、最初こそ敵対していた一頭と一人であったが拳と拳を交えることで産まれた友情、そして共に仏像破壊団との戦い、その最中にゴリラより伝授された奥義『
……そこまで熱中こそしなかったが、読んだことはある鴨兵衛の目からいって、大鉄は絶対にゴリラであった。
単純な頭の高さは常人のヘソの当たりであろうか、けれどもそれは四つ足で歩いているからであって、立ち上がった背丈は鴨兵衛を抜いていた。手足も太く、胸は厚く、肩幅も広くて、体重も鴨兵衛の倍はありそうであった。
身に着けてるのは赤色の
ゴリラにして歴戦の武士、大鉄の隣に鴨兵衛、座らされる。
それぞれ一段高い台の上、頭上に灯り、目立つ位置、これより殺し合う一頭と一人、どちらに賭けるか、決める前の品定めであった。
……理不尽な話であった。
これより後、目の前の穴の中にて一頭一人、入りて殺し合い、生きたものだけが外へと出られる。
失うのは命、勝ったところで得るものはなく、けれども逆らえば、檻の中の人質に害が及ぶ。
そして負けた方の人質がその後どうなるかは、ただ下種な笑みが返ってくるのみであった。
下種な催し、施せるのは皮肉にも、これほどまでに邪悪な心を持つのは獣ではなく、人である証でもあった。
それは囲うものたちも同様、身なりこそ整って、どこぞの豪商か名だたる名家か、中には坊主も混じっていて、けれど浮かべる表情はどれも鬼畜、これよりどちらかが、あるいは両方が、苦しみ悶えて死ぬかを予想し、ならばどちらに賭ければ儲かるか、人の命でそろばん弾く人でなしの薄ら笑いであった。
その向こうには鰹の姿、台を挟んで客の相手、小金に光る小判を受け取り代わりに木の賭け札を渡して、そして受け取った小判はその背後に積み上げ輝かせている。賭けは順調に儲かっているようであった。
これら全て気に入らない鴨兵衛、けれども逆らう手立てもなく、ならばせめてもの抵抗をと正座して背筋伸ばして微動だにせず、周囲のヤジも、つついてくる指も、全てを無視して、退屈を目いっぱい演出ていた。
その一方で、隣に座する大鉄は真逆であった。
「ウホアアアアアアアアアアアア!」
ドコドコドコドコドコドコ!
本と同じく胸を叩いての威嚇の動作に周囲の邪悪は喜び手を叩く。
だがこれでは逆効果、威嚇どころか相手を喜ばせるだけ、愚かな行為、そんなこともわからぬとは所詮は獣、と周囲は思っているようであった。
しかし、と鴨兵衛は見抜いていた。
大鉄、獣んとして吠えて見せるも合間に見せる眼差しは冷めて周囲を見下し、そして嫌悪を含むもの、そして遠くをチラリ、檻を見る眼差しは、強い決意を宿していた。
そもそもただの獣なればこのような檻も鎖もない中で放置され、逃げ出したり暴れたりするもの、それをしないのは人質という仕組みを理解し、そして中の早桃を思っての我慢、少なくとも周囲と違って大鉄は、碧い瞳が惹かれるのも無理もない、立派な『漢』であった。
そのようなものと殺し合いたくはない。
思う鴨兵衛であったがしかし、だからどうするか自問して、自答は浮かばなかった。
こいつらを蹴散らすのは、強がりではなく、簡単であった。だが人質となったおネギがいる。
危害が及ぶ前に、となればほぼ不可能、ならばおネギが自力で脱出するのを待つしか、と思う矢先、振るい落とすように船が大きく揺れる。
これほどまでに巨大ながら船は船、揺れるものは揺れ、そして酔うものは酔う。
おネギ、檻の格子に凭れかかるのがやっと、それ以上何もできない痛々しい姿が鴨兵衛には見えていた。
鴨兵衛には打つ手が思いつかなかった。
元よりこのような考え事は大の苦手、これまでの旅では全てをおネギに任せてきた。それは前の門衛門の時も同じことで、つまりは楽をしてきたツケが一気に戻って突きつけられて、鴨兵衛どん詰まる思いであった。
と、その揺れの中、大鉄と目が合った。
「ウホ」
周囲は揺れに流されて踏ん張り目線が外れている、その刹那、大鉄の太い腕は素早く動いた。
ドン! ブッ! パーン!
素早い身振りと手振り、その組み合わせ、これを鴨兵衛『手話』だと毛捕った。
手話、本に出てきたゴリラの言葉、手の動きと指の形を文字とし、声の代わりに言葉を伝える独自の言語、本の中に出てきていた。
だがそれだけ、どの動作が何を意味している釜では詳しく書かれておらず、なので知っているだけで読み解くことはできなかった。
しかし、それでもこれが重要な事なのだと、大鉄の眼差しが訴えかけていた。
ならばこれも読み取れるはず。手話を知らぬが普通なのだから、ただこれだけで、さほど難しい前知識などなくともわかるもの、でなければ動作の意味がない。
ならばと鴨兵衛、瞼の裏にて焼き付け、その動作、繰り返し繰り返し思い返して、解読に努めた。
ドン! ブッ! パーン!
……いや、そうとしか思えなかった。
いやしかし、だとすると、けれどそれなら、ならばこちらで、いやそれも、グダグダ考えている間に、時は尽きたのであった。
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