スルリと入られていた。

 すぐに止んだ夕立ではあったが、その一降りが夏の暑さを流し冷やし、やや肌寒ささえ感じるほどになっていた。


 もう日が暮れる前、関も閉まってまた明日、今夜の宿を探す前にどこかで夕食を、と鴨兵衛とおネギ、立ち寄ったのは『づけ屋』との看板のある居酒屋であった。


 夕立逃れてついでに一杯との考えか、中の板間はすでに満杯に見えた。


「あそこ奥です奥、ほら空いてますよ」


 その中に草履を脱ぐやはいよごめんよと人掻き分けてずんずんと入っていったのは、馬面の父であった。


 その後にむすりと続く平一、二人の背を見ながら、鴨兵衛はどうしてこうなったかを思い返していた。


 ……母の仇と勘違いして頭に血が上ったこと、抜き放ったのが竹光であったこと、その竹光がボキリト折れてしまったこと、そして二人そろっての土下座姿とを合わせて、襲われた鴨兵衛は許すとかそう言った趣旨の言葉を言った覚えがあった。


 これに父が「それではいけません」と食いついてきて「せめて御夕飯だけでも奢らせてください」と続いた。


 確かに心太を被った分だけ不快な部分は残っていた鴨兵衛は、それぐらいならば、と了承した覚えがあった。


 ここまでは何ら不思議もない話である。


 しかしと思い返す鴨兵衛に、父は手を大きく振った。


「鴨兵衛さんこっちですこっち!」


 軽やかな笑顔、声の調子、手を振る速度、そのどれもが、親しげであった。


 元をたどれば土下座せねばならない相手、そうでなくても初対面に等しい他人、だというのにまるで既知の仲のような立ち位置に、スルリと入られていた。


 このようなものを『人たらし』と呼ぶのであろう。


 思い耽る鴨兵衛を、下よりおネギが覗き上げる。


 これに、行こうかと手を指し示し、先に行かせる鴨兵衛、履物脱いで後に続いた。


 人の背を蹴らぬように気を付けながらなんとかたどり着いたころには、店のものに父があらかたの注文を伝え終わった後であった。


「まずは改めて、この度は大変なご無礼、申し訳ありませんでした」


 勧められるがまま奥側、上座に座らされた鴨兵衛に、父と息子、胡坐ながらまたも頭を下げた。


「今更ながら、私は野馬で紙問屋をやっておりました平四郎と申します。そしてこちらが一人息子の平一でございます」


 再び頭を下げる平一、むっすりとした表情で鴨兵衛とは目を合わせず、ただ襲う気はもうないらしく、腰の大小は抜いて背後の壁際に押し置いてあった。


 その態度に、軽くしかるような手振りを見せた後、平四郎は続ける。


「いやぁお恥ずかしい。普段はもう少し行儀のある方なんですがね。ここまでの長旅で大分参っているようで、同か勘弁してやってください」


 またも頭を下げる平四郎へ、一瞬向けた平一の眼差しは、息子が父に向けてよい類のものではなかった。


 それにきづかないふりをして鴨兵衛、許しを吐く。


「もうよい。互いに怪我もなく、誤解も解けたことだし、この食事でこの話は終わりだ。それでいいだろう?」


「ありがとうございます。そう言っていただけると助かりますよ。いやホント、この年頃の子供はわからないもので、自分も若いころがあったはずなんですがね。これがちぃっとも話を規定暮れないんですからねぇ。おっとちょうど、お料理がきたみたいですね。はいはーい、今頂きますねー」


 やたらと喋るかと思えばすくり立ち上がり進んで店のものより皿を受け取り配膳する平四郎、テキパキとなれた手つきで鴨兵衛の前にとっくりとおちょこ、おネギの前には白湯の入った湯呑が置かれ、次いで料理が、皿の上に薄く並べられた赤黒い見慣れぬ何かと、見慣れた芋の隣に見慣れる輪が入った煮物が並べ置かれた。


「ここらに来たらまずはこいつらを食べないと。あ、ひょっとしてお二人はヅケは初めてで?」


「どちらもだな。そのヅケとやらはこの赤い方か?」


「さようでございます。こいつはマグロっていう、でかい魚の身を鮮度が良いうちになまのまま、醤油に漬けたもので、これがまたたまらないんですよ」


 そう語らいながら自分の分のヅケを箸で摘み上げる平四郎、口へと運び噛みしめる表情は誠に美味そうで、少なくとも毒はないなと鴨兵衛もつられて口へと運んだ。


 途端に広がる独特の甘味あまみ甘味うまみ、そして舌に絡みつくようなねっとりとした歯触り舌触りは、確かに他に例えようのない美味であった。


「そしてこちらが芋と烏賊の煮物でございます。烏賊というのはこう、三角な頭をしてましてな、体の方も骨がないみたいにぐにょぐにょしてましてな」


 言いながら平四郎、軽く膝たちになりながら両手をぐにょぐにょして見せると、おネギがくすくすと笑った。


 これに気をよくして更にぐにょぐにょ、更にくすくす、元より人見知りしないおネギとは言え、平四郎は見事にその心を掴んでいた。


「ずいぶんとここらの料理に詳しいのだな」


「そりゃあもう、ここから目と鼻の先が私の故郷ですから」


「ん? 故郷は砂馬ではないのか?」


「あぁ、いえ、私の出身がこの先なのですよ。墨虎の海側、そこで海苔を作ってた家の出なんですがね。そこから奉公に砂馬へ出されて、そこで所帯を持ってこいつが産まれたんでさ。なのでこいつにとっての故郷は砂馬ということになりますかね」


 しみじみと語る平四郎に何かを感じ取る鴨兵衛、それが何なのか見当つける前に平四郎の表情が変わる。


「これは大変失礼を、おちょこが空ではないですか」


 言うやとっくりとって酒を進めてくる平四郎、これに普段は酒をやらない鴨兵衛であったが、無下にはできずに酌を受ける。


 そうしてる間に更なる料理が届けられた。


 ちろちろと小さめの炎が灯る七輪が四人の真ん中に置かれ、その上に乗せられたのは汁の満たされた土鍋であった。


「こいつもここらの味でして。本当はもっと寒い時期のものなんですがね。夕立に濡れて冷えた体にもこれがまた染み渡るんですよ」


 そう語りながら長箸で二人に取り分けたのは灰色の身と、一口に切られた棒葱であった。


「ネギマ鍋って言いましてね。葱にマグロを足してものでして、どちらも安い食材ですが、下手な魚よりも味がいいんですよこれが。まあ耳より舌ってんだ。一口試してみてくださいよ」


 語りながら最後に匙で醤油色の汁をかけ入れて渡された皿は、確かに旨そうな香りが立ち上っていた。


 受け取る鴨兵衛、さっそく箸をつける。ほろりと崩れる灰色の身は確かに焼き魚、しかし香りはどの魚とも異なって感じられた。


「あぁ一つだけご注意を、この棒葱は横にして食べてくださいね。縦に噛んじまうと中心の芯、これが熱くなってまして、そいつが飛び出て喉を焼いちまうんでさ」


 おネギ、手遅れだった。


 渡された自分と同じ名前の食材に、好奇心押されて一口齧るや、今しがた言われた通りに中身飛び出て喉に、戻って舌に落ちて口内を焼いていた。


 余りの熱さに口を押えて下を向くおネギ、その前に「ここに出せ」と差し出された鴨兵衛の手を見ながらも、涙目で首を横に振る。


「こいつはとんだ失礼を! さぁ早くこいつ飲んで冷やして!」


 平四郎に差し出されたとっくり受け取った鴨兵衛、そのままおネギの口元までもっていくと今度は素直に口にした。


 ゴクリゴクリ、飲み干すおネギ、途端にニヘラと顔を赤らめた。


 鴨兵衛が飲ませたのはとっくりであった。


 とっくりの中身は酒であった。


 酒を、おネギに飲ませたのであった。


 ……後はもう、食事どころの話ではなかった。

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