正面の畳を振り抜いた。

「一応訊くが旦那、こっちに来ないってことで良いんだよな?」


 訊ねる敬之助に、鴨兵衛は鼻の穴広げて大きく息を吸い、吐き出した。


 それは内に煮える怒りを抑える行動だと誰の目にも明らかであった。


「リンは、お前の妹ではないのか。その妹に何故手をかけたのだ」


 それは返答ではなく質問、に見えて実際はただ怒りを抑えるために漏れ出た荒息でしかなかった。


「決まってんだろ。捕まらねぇためだ」


 これにも敬之助、わざわざ応える。


「捕まらねぇコツは見つからねぇこと、知られねぇこと、これ一つで追われもしねぇ。ましてや仕事前、モロモロ知られてたんじゃ怖くて何にもできやしねぇ。どうせ今の今まで忘れてた妹程度、だったら、なぁ?」


 語調、目くばせ、軋む音、頭上の刺さる影に臭いに熱に気配、そして殺気、そのどれかを感じて鴨兵衛、振り向くと、そこには一家の一人、鳶口振り上げ振り下ろす直前であった。


 これに鴨兵衛、咄嗟に右手で掴んだ、正面の畳を振り抜いた。


 ……圧縮し固めた稲わらを畳床たたみどことし、丈夫なイグサで編んだござを畳表たたみおもてとして縫い付けたのが畳である。


 その強度は刀の試し切りに用いられるほど、飛来する矢を防げるほどに丈夫で、その重量は小さな米俵ほど、おネギの体重よりも少しぐらいであった。


 その畳の、角を持って持ち上げたでなく、縁を持って立てかけたでもなく、面を掴んで指をめり込ませ、一気に全て引き抜き、そのまま床に平行に、滑るように真横へと、体ごとぐるりと巡らせ、勢い付けて振り抜いたのである。


 常人には夢にも思えない力業に、背後で鳶口振り上げていた男はそのガラ空きのわき腹打ち抜かれ、まるで藁クズが風に撒かれるようにその身が吹き飛んでいた。


 剛力による暴力、誰もが言葉を失う中で、ただ一度の激突でくしゃりと潰れた畳を持ちながら、鴨兵衛が静かに立ちあがった。


「……だめだ」


 鴨兵衛の一言、誰に向けてかわからぬがゆえに場が凍る。


「こいつらは俺一人でやる」


 答え合わせ、目線を落として鴨兵衛がい言う先には、横に並び立ちながら不満げに見上げるおネギがいた。


「代わりに、あいつらを頼む」


 続ける鴨兵衛が目線で指し示した先には、未だに血を流している八吉がいた。


「お任せを鴨兵衛様」


 それを前にして、静かに、だけど嬉しさを内包させた声で応えておネギ、足音も立てずに八吉の元へ、滑り込むように横へと座ると、無言で両袖より腕を引き抜き、上半身が裸となった。


 そしてその白い手で、八吉の傷を触って診る。


「落ち着いて。動かないで。傷は浅いけど、残る破片は取り除かないと。だけどここじゃだめ、倉に運んで、手伝って」


 指示とも命令ともとれるおネギの言葉に、呆然としてた三人はやっと動き出す。


 米丸が両肩を、梶朗とリンがそれぞれ足を持って吊り上げ、運び出そうとする先に立ちふさがる一家の一人、鳶口掲げて襲い掛かる。


 だがその顔にめり込む畳、鴨兵衛からの一投受けて大きく崩れた。


 その隙を逃さず横を抜けて運び出す三人と運び出される一人、そして最後に残るおネギの背に、鴨兵衛は声をかける。


「おネギ、すまないが」


「座っていた右後ろにございます」


 即答、言われたところを見れば、畳の上に刀のない鞘が横たわっていた。


 そこまで進み、かがんで掴んで拾い上げる鴨兵衛、途端その足が踏んでた畳に僅かにめり込んだ。


 それを横目に、引っ込む幼子狙って三人が追う。


「追うな!」


 しかしそれを、敬之助の一喝が止めた。


「手負い引き連れ遠くまではいけやしねぇ。倉ん中ってんなら最悪閉じ込めて蒸し焼きにしちまえばいい。どの道こっちに怪我人出ちまった段階でここの仕事はお流、このままとんずらだ。だから無事に寝外られること、こいつを仕留めるのに集中しやがれ」


 敬之助の具体的な説明に一応の納得を示して三人、戻って鴨兵衛の囲いに加わった。


 これに鴨兵衛、多勢に無勢を前にして、だけども慌てることなく拾い上げた鞘を正面、正眼に構えていた。


 僅かにもブレない切っ先、静かな呼吸、なのに誰かが動けば応じて動く足さばき、武術など、どのような字で書くかも知らない錆鼠一家でさえ、そこに隙が無いのだを、わからせるに十分な構えであった。


 加えて、先ほど見せた畳の力業、わき腹に喰らった男はまだ立てない威力、例え手に持つ得物がただの鞘であってもただでは済まないと知らしめた後ならば、襲うに躊躇するのが普通であった。


 しかし、錆鼠一家は盗賊一家、普通の武人とは程遠い存在であった。


 ……元より、殺しはしても戦いはしないが盗賊、危なくなれば逃げるが定石、それでもどうしても排除せねばならない相手という相手が出てくる。


 どうするか。ただ卑怯卑劣に徹して殺すのが常であった。


 そこに目くばせもタメも掛け声もなく、ただ自然と、一人が動く。


 卑怯の経験、卑劣な技法、元より立ち位置は背後、そのまま死角より足音殺して忍び寄り、風の怒らぬ速度で鳶口振り上げると、声も息も無しに一足飛びに鴨兵衛へと飛び掛かった。


 これに反応できたのは、気配を読む以外にあり得なかった。


 クルリと鴨兵衛、振り向くと同時に正眼だった鞘を横へと降り薙ぐ。


 ガギン、との音、吹き飛ばされるは鳶口、手よりもぎ取られて勢いよく飛んでいった鉄の棒は畳にはねて刺さり、ぐにゃりと曲がったのは残像ではないとありありと見せつけていた。


 その強度、その重量、この鞘がただの鞘ではないと体感した不意打ちの一人、続く鴨兵衛の平手打ちに鳶口の跡を追うこととなった。


 一人撃破、その隙に次なる二人目三人目が迫る。


 鴨兵衛向き直った正面より右と左、直角を作るように両者同時に鳶振り下ろす。


 これに鴨兵衛、鞘を右手一本に、無造作に突き出した突きが、右の一人を吹き飛ばす。


 残る左、頭蓋目掛けて振り下ろすもそのカギが到達する手前で、鉄の柄と軽く曲げながら掲げられた左腕が交差に激突した。


 鈍い音、骨に響く鈍痛、されど骨折は免れた鴨兵衛はそのまま肘を伸ばして外へと鳶口受け流し、できた隙間に張り手を走らせた。


 瞬く間に三人の撃破、けれども攻撃は止まず、倒れ行く仲間を影にして四人目、下部より這いより鳶口伸ばしてそのカギを鴨兵衛の右足へと引っ掛けた。


 後は引けば引くだけで足払い、転ばせ寝かせれば後はタコ殴り、やっと見えた勝機に、だけどもでかい体はビクリとも動かなかった。


 しっかりと引っ掛かった鳶口、全力を持って引きながら、それも戦いの最中に気付かれぬ間の足攫い、だというのに、まるで根の張る巨木が如く、全くビクともしなかった。


 これは、何かの間違いだ、何かを見逃しているのだ、現実を受け止められずに呆然としながらなお引く間に、鴨兵衛の鞘が振り下ろされた。


 四人撃破、続く残りもまた似たり寄ったり、順序が前後するだけで同じような最後となった。


 唯一異なると言えば、畳を立てて盾にしたものが一人、けれども結局は畳ごと叩き潰されて終わった。


 かくて錆鼠一家は鴨兵衛に壊滅させられたのであった。


 一方的、だけども無傷ではない鴨兵衛、滴る汗にそこかしこの打撲、消耗に暑さに削られて、それでもなお眼光は鋭いままであった。


 荒い息は呼吸の乱れでなく未だ治まらぬ怒りの炙り、手応えの無さに構えながら見回すも、倒れた錆鼠たちの中に、敬之助の姿はなかった。


 逃げられた。いや、追われた?


 逡巡迷う鴨兵衛の鼻孔を、焦げた煙がいぶった。


 宿に火が放たれていた。

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