やれるだけのことはやったのである。

「今晩はお世話になります」


 到着早々頭を下げたのは旅のご隠居という、好々爺を絵に描いたようなご隠居であった。


 小柄ながら背はまっすぐ、黄色い着物に頭巾を乗せて、手には竹の杖、顎には白い髭を蓄えて、刻まれた皺はその全てが笑っているかのようであった。


「いえそんな、こちらこそ、こんなボロいお宿をご利用くださりありがとうございます」


 その笑顔に励まされ、なんとかリン、頭を下げながら受け答えできていた。


 鴨兵衛に教わり、何度も練習を重ねた口上、だけどもいざ本番、これからもてなす大事な客だと思えば口も強張る。


 ましてや残りの顔ぶれを見てしまっては、なおの事であった。


 連れの三人、うち一人は昼に予約を取りに来た見た顔であった。しかし残り二人は、はっきり言って人かもどうかも怪しかった。


 一人は鴨兵衛を超える巨体、天井に片が付くほどの背丈にどちらが前だか横だかわからないぶ厚い体、浮き出る血管に、盛り上がる筋肉、触れてもないのにその熱が伝わるほどにたぎっていた。


 もう一人はそれなりに高い背を猫背に畳み、ぎょろついた目は瞳孔が縦に割れ、左右に広く裂けた口は半開き、中に見えるは細長い舌と魚の骨のような歯であった。だというのに首もとを掻く指は色白ですべすべとしていた。


 一見して人とは思えない風貌の二人、まるで熊か猪か獰猛な獣を前にしたような威圧感、されどもリンはひるまなかった。


 今更逃げられない。ならば全力を尽くすだけ、リンの肝っ玉は覚悟を決めた。


「それでは早速上がらせていただきましょう。ですがどうやら桶が」


「はいそれははいささどうぞ」


 呼吸整えリン、改めて声を張る。


「お客さん方のお部屋は別に用意してありますで、お手数ですがこちらへどうぞ」


 練習通りの言葉を紡ぎ、リンは旅の客四人を連れて外へ、そして建物横を通って裏へと回った。


 そして案内したのは倉であった。


「宿の方はちょっと今改装中で、それに近頃暑いですからね。こちらの方がひんやり冷たくて過ごしやすいんですよ。ささ、中へどーぞ」


「どうぞイラッシャマセー」


 倉の中で待機していたのは梶朗であった。


 板間に至る前の空間に水を満たした桶、袖を襷で縛り上げ、手ぬぐいも何枚も用意して足を洗う万全の体勢で出迎えた。


「お願いしますよ」


 これにごく当然のように従い、足を出すご隠居に、梶朗は足を洗うのは普通の事だったのだと改めて驚きながら男同士で足洗い合い、練習した腕を披露する。


 それが上手くいっているのかどうなのか、集中しすぎて足しか見れず、これが幸に転んで緊張せずに済んでいた。


「お夕飯はいつ頃お持ちします? 今すぐにでもご用意できますが」


「今すぐ! 今すぐ! もう腹ペコで倒れそうですよ。だからね? ご隠居」


 丸顔うっかり海老泥棒がはしゃぐと、いつもの事なのかご隠居は頷き、残り二人は黙っていた。


「ではご用意しますね」


 そう言ってリンが戻り、残る梶朗が残りの足を洗って、終わったころに八吉がやってきた。


 一瞬、奥に控える異形の二人に驚きの表情を見せながらも食いしばり、やはり怯むことはなかった。


「ちょっくらこいつを置かせてもらうよ」


 ぶっきらぼうな口ぶりで持ちこみ、運び入れたのは灯りの灯った行灯二つであった。夕暮れに窓の小さな蔵の中は途端に明るくなる。


 行灯、最初から照らしておいておくかは最後までもめたことではあったが、倒れたら火事が怖いとの鴨兵衛の一言に従っての運び入れ、特に文句を言われることも無く滞品く済んだ。


 考えすぎだったなとそのまま立ち去ろうとする八郎に、挨拶を忘れてると叱りながらすれ違うリン、後ろの米丸共々夕食を運び入れる。


「ご馳走ってわけじゃあないですが、ささ、どうぞお召し上がりください。ご飯はいっぱいありますから遠慮なくお代わりしてくださいね」


 もう慣れたリンに初めて見た米丸、笑顔と共に並べた夕食に、ご隠居は思わず身を乗り出す。


「これは、海老ですな?」


「えぇそうなんです。こちらがこの近くで獲れた手長海老の身の醤油焼き、隣がご覧の通りキュウリの塩もみで、ご飯、そしてお味噌汁」


「ひょっとして、こちらのお味噌汁も海老ですかな」


「そうなんです。焼くのに剥いた殻でダシ? を取り出すのに、お湯で煮だして味を付けたものなんです。具は同じ海老のすり身に青菜なってまーす。ささ、どーぞ」


 説明しながらも、リンには不安があった。


 手長海老は、八吉でなくても簡単に取れる、いわば雑魚であった。


 それも味の良くないものとしてこの宿場町では有名で、それをうまく調理しているとはいえ、口の肥えてるだろう客人に出す宿は、どこにもなかった。


 それをあの鴨兵衛は出せと言った。


 旅人とはその地の名物を食べてみたいものだと、それにこの海老はそこまでいわれるほど不味くはないと、むしろこれを目当てに客が来てもおかしくないと、あの何もなしで底なしに米を食い続ける男が言っていた。


 その言葉に乗せられ、実際味見したら美味しかった手長海老料理、認められるか不安なリンの目の前でご隠居、みそ汁を啜る。


 その動作、持ち上げ、箸をつけ、口に入れて味わうまで全てがきちんと綺麗で、音もなく、その辺に縁遠いリンであっても優雅と感じる食事作法であった。


 あぁ確かに、この人はただものじゃないかもしれない、リンの脳裏に鴨兵衛が正しいかったかもとの思いがやっとよぎった。


 そしてダメだったらと悪い方へと考えは転がっていった。


「ほう、これは、実に良い香りにお味、正に絶品ですな」


 しかしそんなことはなかった。


 ご隠居のお褒めの言葉に色々吹っ飛んでリン、笑顔となる。


「「ありがとうございます」」


 まだいた米丸と声を合わせて自然と、リンは深々と頭を下げていた。


「こいつはうめぇや! こりゃあ朝飯も今から楽しみだ」


 負けずと笑顔でバクバク食べるうっかり海老泥棒の言葉にリンと米丸、固まる。


 ……戻ってからやらなければならないことが一つ、増えたのであった。


 ◇


 ずっと飯も食わず、まだ眠り続けるおネギと、何もしないまま隣で寝てしまった鴨兵衛以外の四人は眠れぬ夜を過ごした。


 米丸は朝食の用意を理由に台どころに入り浸り、八吉は提灯片手に追加の手長海老の夜釣りに出かけ、梶朗は静かに手ぬぐいと桶を洗い、横になってるリンさえも瞼を閉じながら、あぁすらばよかったこうすればよかった、朝はこれとこれをしようと考え考え、眠れるわけがなかった。


 そして朝、四人はニワトリが鳴くより先に行動を開始した。


 やるべきことは頭に入っている。躊躇無く手を動かし、時折失敗を挟みながらも、笑顔を忘れずもてなしを続けた。


 ……そしてやるべきをすべてこなし、無事、出立の時となった。


 朝日が眩しい中、すっかり身支度を終えたご隠居御一行を見送るのは、まだ寝てるおネギを除く五人、リンが表まで案内し、男四人でのお出迎え、お見送りであった。


 同じようにお見送りしている宿屋の様子をぼんやり見つめる三人はボロボロで、まるで背後の宿の建物のようであった。


 しかしその眼差しは最後までやり遂げたという、自負と自信が輝いて見えた。


 その三人の最後に並ぶ鴨兵衛は、旗から見ても居心地が悪そうであった。


 ……何もしないと決めたのは事実、破って何かすれば何か壊してただろうと誰もが解っていた。


 だから何もしてなかったのだが、それでも切っ掛けの言葉は鴨兵衛だからとの説得、さしょの仕事の最後だから一緒に来てほしいとのお願い、だが実際は寝不足と緊張から限界を迎え、真っ当な思考ができてないでの提案だと、鴨兵衛は感じていた。


 そこまでやり切った証ではある。


 そしてそれでもしなにか最後にやらかしたなら、可能な限り助け舟を出し、最悪の場合は何か適当に壊して己一人で泥を被ろうと、鴨兵衛は己の立場を再確認していた。


「ささ、こちらですよー。あらいい天気」


 先頭、案内はリン、身だしなみは整っているがやはり目には疲れが見えた。


 そしてその後にご隠居一行が続く。


「いやー、すっかりお世話になりました。ボロいお宿なんてとんでもない」


「本当ですよ。朝ごはんも美味しかったし、お土産まで貰っちゃって」


 笑顔のご隠居の前に、うっかり海老泥棒が吊るして見せたのは竹の葉の包み、中身は徹夜で仕上げた海老の佃煮であった。


「醤油強めで煮てありますがこの暑さです。早めに食べてください」


 出迎え挨拶前に一言の八吉、疲れなのか成れなのか、角の取れた物言いであった。


「それじゃあ今日は早めに団子屋に入らなきゃ。ね? ね?」


 うっかり海老泥棒、異形の二人に話しかけるも言葉が通じてないのか無視していた。


「さて、名残惜しいが出発です。昨夜はいいお宿をありがとうございました」


 深々頭を下げるご隠居うとその御一行、返す言葉が見つからない面々はただ深々とお辞儀を返すのが精いっぱいであった。


「それではみなさんもお元気で、あぁっとその前に、肝心なことを忘れてました。これ」


 いいながら目線でご隠居が促すと異形の二人の内、歯が魚のへの脳が頷き、その白い手で懐から財布を、そしてジャラリ、反射で手を出していたリンへ、銭ではなく小判にて、宿代を支払った。


 その額、数えてはないが、それでも大金であった。


 ざっと見ただけでも、通常の宿屋が年で泊まれる金額、疎いリンでさえもこれが多すぎるとわかる額であった。


 これに「間違いでは?」と視線で問うリンに、ご隠居は「それでよいのだ」と態度で返す。


「わしは長く生きてきて、この宿ほど、そしてこの名が海老の味ほど感動したことはありませんでした。本当なら帰りも立ち寄りたいところですが、その時は別のの道をたどる予定、そして次の旅は、はっきり言ってこのおいぼれです。生きているかわかりません。なので生きている今、感謝の気持ちを伝えたいのです」


「でも、そんな」


 返そうとするリンにご隠居は首を横に振る。


「それにこの旅は、贖罪の旅でもあるのです。困っている人を助け、少しでも、あの世に行った時に地獄が温くなるようにとの旅なのですよ。その内の一環、どうかこのおいぼれの我儘を聞いて下され。そのままこの宿の修繕費に当ててもいいし、それが嫌なら神社仏閣にやっても、どぶ川に捨ててしまっても構いません。ですからどうか」


 そこまでいわれて、リンは返すのをあきらめた。


 できた御仁、今時見ない善人、まるで聖人のようだと感心する鴨兵衛の前で、そのご隠居が躓いた。


 慌てて手を差し伸べる鴨兵衛、大事になる前に捉えることができ、かつ握りつぶさなかったことに安どしていると、その刺し伸ばした手に硬いもの、ちらりと見ればこれもまた小判、年単位とは言わないまでも月単位で数えられる大金があった。


「……これを持って消えなされ」


 小さく、だけど鴨兵衛にだけははっきりと聞こえる声でご隠居、呟く。


「彼ら若者は、彼らなりに一生懸命やってくれました。そのもてなしは素晴らしく、そして美しかった。ですがあなたは違う。手つきから剣道をたしなむ様子、ですが水でがさついた様子も無し、目も十二分に寝ていて澄んでいる。彼らだけを働かせて、自分は何もせずに寝ていた証拠ですな」


 その通り、ではあるが、そうなった事情もあるのだとの鴨兵衛の反論、ご隠居の口調は優しいけれどそれを許さない圧があった。


「今更心を入れ替えろなどと説教を垂れるつもりはありません。ただ、あの若者たちのことを少しでも思うなら、これを持って黙って姿を消しなさい。彼らはあなたがいなくても十分に、いやむしろあなたがいない方がのびのびできて、この宿も繁盛することでしょう」


 辛辣な言葉に固まる鴨兵衛から、持ち直し立ち直ったご隠居は一礼して、宿を後にした。


 ……道の果て、姿が見えなくなるまで手を振り続けるうっかり海老泥棒と、それに応じて何度も頭を下げ直す四人との間で、鴨兵衛は一人、ぶつけられない感情にもだえ苦しんでいた。

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