第230話 出家と改名
ギルドでの幹部会。
江梨香の考案した委員会式の再編成案は、大きな反対もなくメンバーに受け入れられた。エリックの「とにかく、やってみよう」の言葉が、説得力を持っていたのかもしれない。
そもそもこの再編成案は、これまでの運営方式からも大きく逸脱しておらず、単に役割を明確に制度化しただけの再編成案であったことも大きいだろう。
懸案事項の一つを解決した江梨香。しかし、彼女の前には新たなる懸案事項が立ちふさがった。
「私が決めるの? 」
「はい。是非に」
質問に対して、マリエンヌは真剣な面持ちで答える。
「人の名前を付けるなんて、そんな責任重大な事したことない」
王都での熾烈な裁判の末。十人委員会との取引としてマリエンヌには、出家と改名が求められていた。
その出家の為の儀式と修道女としての新しい名前を、私が付けることとなった。
儀式はともかく、新しい名前なんて・・・
「楽な気持ちで構いません」
マリエンヌは優しく微笑む。
「気楽にって、そんないい加減には」
気軽にやってくださいと言われても、はいそうですかとはいかない。これから一生名乗ることになるんだからね。
「エリカ様。ここはマリエンヌ様の願いをかなえて差し上げてください」
「アルカディーナであられるエリカ様こそ、適任でございます」
メッシーナ神父とユリアもマリエンヌに味方する。
あまりの責任の重さに辞退したいけど、マリエンヌたっての望みとあれば強く拒否することも出来ない。
「どうしてもって言うのなら、考えさせてもらうけど、本当にいいのね」
「はい。私はどの様な名でも受け入れる覚悟」
マリエンヌは一転、神妙な面持ちで頷く。
「ちょっ。プレッシャーをかけないでよ」
取りあえず、二日の猶予をもらった。
二日目の早朝。
江梨香はニースの砂浜を一人歩きながら考える。
考え事をする時は砂浜が一番落ち着く。私は京都の市内住みだったから、海が見える風景に一種の憧れがある。
寄せては返す波打ち際を見ているだけで、時間が緩やかに過ぎていく。
この感じが好き。
遠浅の浜では、漁師の人たちが今日も賑やかに漁に勤しんでいた。
白い砂を踏みしめ、一人波打ち際を進む。
出家名とは言え、新たに名前を考えるなんて、本当に責任重大。ペットの名前を考える時とは違う。
「そういえばムサシ、元気にしてるかな」
波音が呼び覚ましたのか、窪塚家で飼っている犬を思い出した。
遠く離れた日本で、呑気に暮らしいてるはず。名前を考えるなんてのは、あの頃以来かな。
我が家で犬を飼ってもらえるってなった時、私と弟の省吾とで、どちらが名前を付けるかでケンカになった。
中学生の頃だったと思うけど、もう随分と昔の事に思える。
あの時は私も省吾もどちらも譲らず、結局はお母さんがムサシと名付けてしまった。と言うか、争っている間に、お母さんが勝手にムサシと呼んでいたので、それが定着してしまった。
悔しい。
確かに強そうな貌をしているからムサシでもいいんだけど、絶対に私が考えた鶴丸のほうが良かったのに。でも、鶴丸って呼んでも全く反応しないのよね。
何が気に食わないのかな。尻尾ぐらい振りなさいよ。
しばし日本に思いを馳せていた江梨香の足を波が洗った。
革製のサンダルが濡れる。
いっけない、今はムサシの話はどうでもよかった。問題はマリエンヌの新しい名前よ。
こっちの人の名前って、何を基準に名付けるのかな。よく知らない。
身近な女性の名前を、思い浮かべる。
ユリアの名前は、昔の教会の偉い人から頂いたらしい。
マリエンヌも出家するから教会の人からもらった方がいいのかな。でも私って、教会の偉い人とか知らないのよね。
いや、そこまでしなくてもいっか。私も坊主の端くれだけど、改名は要求されていない。
視線の端を、小さな蟹が走っていく。
そうよね。取引としての出家なんだから、名前ぐらいは世俗的でもいいのかもしれない。だけど、十人委員会にバレたら揉めるかな。でも、遠く離れた王都の人たちだし、こんな田舎にカマっている暇はないはず。
あの小さな蟹の様に、今更マリエンヌに興味を持ったりしないでしょう。
うん。そうに違いない。ボスケッティー神父も教会は治外法権だって言っていた。だから教会は関係ない名前にしよう。神様や聖人が由来の名前なんて付けられたら、私なら肩が凝ってしょうがない。
そこから思いつくままに、語感のよさそうな名前を口ずさむ。
「ナディア。レベッカ。アデール。ベアトリーチェ。オフィーリア・・・うん? オフィーリア」
オフィーリアって名前。なかなかいいわね。
響きも綺麗だし、貴族のマリエンヌの新しい名前にふさわしかも。でも、どっかで聞いたことがあるような気が・・・
しばし頭を悩ます。
あっ、駄目だ。
オフィーリアは、ハムレットに出てくる悲劇のヒロインの名前だった。悲しい出来事が積み重なって、気がおかしくなって溺れて死んじゃった人。お芝居の中とは言え、新しく付ける名前には縁起が悪いかもしれない。同様にベアトリーチェも駄目ね、こちらも早死にした人の名前だ。マリエンヌには幸せに長生きしてほしい。
でも、もったいないなぁ。どちらも高貴なお嬢様に相応しい響きがする。
その後も、拾った枝で砂の上に思い浮かべる響きを書き連ねる。
書いては消し。
消しては書く。
何個目だっただろう。突然、天啓が走ったように一つのイメージが降りてきた。
白の背景に、翼を広げた赤と金色の鳥。
それは、マリエンヌが獄中で、私のために編んでくれた幸運を呼ぶ壁飾り。描かれたモチーフは不死の鳥。フェニックスだった。
あの鳥の名前なんだったけっ。ベニヤンクの何とか・・・
「そうそう。ベニヤンクの鳳(ファルディール)よ」
どうにか記憶の引き出しから、情報を取り出すことができた。
幸運を呼ぶ不死の鳥。新しい名前としてこれほど縁起のいいものもないでしょ。
最有力候補に急浮上。
「ファルディール。ファルディール・・・か」
何度か口に出して、発音を確かめる。
悪くはないんだけど、響きがなんか男性名詞っぽい。この感じだと "r"の音は要らないかな。ファルディー。ファルディー。
これもしっくりこない。
「あっ、そっか」
ここで一つの法則性に気が付いた。
こっちの女の人の名前は"a"の音で終わることが多い。
ユリアにコルネリアにセシリア。
私のアルガディーナの称号も"a"の音で終わる。だから違和感を覚えるんだ。
となると、ファルディーアかファルディーナが妥当。
この二つだと、ファルディーナの方が落ち着いた印象がする。マリエンヌの佇まいに似合うのは、こつちかな。
「ファルディーナ。もっと簡潔にファルディナ」
その、発音を口にした瞬間、マリエンヌの豊かな茶色の髪の毛と、ベニヤンクの鳳(ファルディール)のイメージがはっきりと重なった。
こうしてマリエンヌの新たなる名前が決まった。
翌日。
ニース教会では建設工事が一時中断され、マリエンヌの出家と改名式が執り行われた。
儀式の主催者である江梨香は、アルカディーナの正装である純白の修道服を身に纏い、聖別された水をカイサレの枝で、眼前にひざまずくマリエンヌに振りかける。
「立ちなさい」
江梨香の日本語が、静寂に包まれた聖堂に響き渡る。
そり声に促され、江梨香と同じく白い修道服を纏ったマリエンヌは立ち上がった。
「貴方はこれより世俗を離れ、神々の名を称えその無限の恩寵を、遍く人々に知らしめなければならない。その覚悟はありや」
「身命にかけて」
「その強き意志と高き志しを認め、新たなる名を授ける。これよりはファルディナと名乗りなさい」
「天空のおわします数多の神々と、我らを導く教会。そして神々の娘たるアルカディーナに感謝を」
「ようこそ神々の家へ。ファルディナ。貴方を歓迎します」
江梨香はマリエンヌ改めファルディナを優しく抱きしめた。
ファルディナもまた江梨香の背に手を回し抱擁を返すと、二人の両側から荘厳な讃美歌が沸き上がった。儀式に参加する修道士たちのものである。江梨香とファルディナも共に賛美歌を歌うのであった。
こうして儀式は終わった。
「緊張したー」
式の終了と共に江梨香の声が聖堂に木霊した。
周りに苦笑の輪が広がる。
緊張した。緊張した。
未だに震える肩をさする。
「お疲れ様でした。アルカディーナ様」
傍らで儀式を助けたメッシーナ神父が、ねぎらいの言葉をかける。
「神父様。私どこかおかしなところありませんでしたか」
「初めてとは思えない、お見事な祭礼でございました」
「本当ですか」
「保証いたしましょう」
「ああ、良かった」
全身を貫く安堵のため息が出た。
「エリカ。ありがとうございました」
ファルディナが江梨香の両手を取る。
「マッ、じゃない。ファルディナ。緊張しちゃって声が上手く出なかった。ごめんね。もっと練習しておけばよかった」
「とんでもございません。高らかな神聖語での詠唱。感銘を受けました。流石はアルカディーナ様ですね」
「様はやめて。今まで通りに呼び捨てでお願いね」
「ですが」
躊躇うファルディナの両肩に手をかける。
「お願いします」
私、様呼びされると辛くなる。見えない責任が両肩に重くのしかかってくるような気分になるの。責任は今の段階で十二分に過積載なのよ。これ以上重いのは無理。
「分かりました。では、これまで通りエリカとお呼びいたしましょう」
「ありがとう。本当に助かります」
心の底からの感謝であった。
続く
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