第146話 ラナ
ドーリア商会が用意してくれたアパルトマンで、江莉香は怪我をさせてしまった女性の世話をする。
倒れた時に物凄い衝撃音がしたが、音の割りに外傷はなく、いくつかの打身と切り傷、内出血だけで幸いな事に軽傷といえた。
ぶつかって怪我させてしまった事については、平身低頭で謝罪し、怪我が治るまでの面倒をみることを約束した。
女の人のボロボロの衣服を取り換え、お湯で身体を洗い、髪を整えると、五歳は若返ってみえた。
年の頃は二十歳前後、江莉香とほぼ同年代の女性かもしれない。
ごく一般的な茶色の髪の毛に、茶色の瞳。身長は江莉香と比べると低いが、平均よりはやや高い。右眼の下に印象的な泣き黒子が一つ。
事故を家族に連絡しようと、色々と尋ねるのだが、家族や住んでいる場所などについては言葉を濁す。遠くの街に親戚がいる事だけは教えてくれたが、肝心の街の名前を教えてくれない。
何かしら言えない事情を抱えているのだろう。たとえば今の境遇を知られたくないとか。
江莉香は彼女のプライバシーへの深入りを避けることにした。
唯一、聞き出せたのは、ラナと言う名前だけであった。
ラナは口数は少ないが、会話のキャッチボールは出来ているので、栄養さえしっかりと取っていれば、十日もすれば完治すると思われた。
江莉香はユリアにラナの看病を頼むと、クロードウィグを従えて王都を駆けまわる。
アスティー家に赴き、若殿とセシリアに挨拶をし、献上品を納めて日本人探索の助力を得た。
フリードリヒは快諾し、その豊富な人脈を生かして、王都での情報を集めてくれるという。
これはかなり期待できるのではないだろうか。
一つ懸念があるとすれば、彼らに日本人を判別できるかどうかということだ。
若殿には説明出来る限りの日本人の特徴を伝えた。
何故か、笑いをこらえながら聞いていたけど。
翌日にはドーリア商会に向かい、出迎えたジュリオと共に蒲鉾の売れ行きの現状を確かめた。
同時に、村から持ってきたラジック石の商品価値を訊ね、双方の商材の問題点の洗い出しを行う。
検討の結果。蒲鉾が王都に受け入れられるためには、時間と価格の壁があり、この壁を乗り越えるためには、更なる大量生産と消費期限の延長が求められることが見えてくる。
大量生産はともかく、消費期限の延長問題は難しい。
今の所、防腐剤として機能しているのが、葉っぱと砂糖しかない。更なる改良が必要だろう。
いっそのこと王都の近くに、蒲鉾の工房でも開いた方が楽かもしれない。
「いや、駄目よ」
江莉香は自分のアイデアを即座に否定する。
消費地に近い場所に工房を構えるのは、一見合理的で儲かるかもしれないけど、ニースやモンテューニュへの波及効果が見込めないのよね。
それでは困る。別にお金儲けだけが目的じゃないし。
ラジック石は大理石が好まれる王都では、需要が限定的であることを知った。
お金持ちは特に白色の大理石を好み、庶民は漆喰や煉瓦、白色の安い石材を好むらしい。
言われてみれば、白色の家が多いかも知れない。
王宮や教会も白の大理石が、ふんだんに使われている。
江莉香が親方衆から聞いた、ラジック石が好まれるという話は、もっと東の国の話しらしい。
漆喰や煉瓦より加工に手間がかかり、人件費、輸送費が上乗せされ値段も張るラジック石は、王都では厳しい戦いを強いられるだろう。
ジュリオさんの見立てだと、基礎材や内壁としての需要があるだろうが、今すぐに大きな商いには繋がらないとのこと。
改めて、砂糖の商品価値の高さに慄く。
軽くて、高くて、腐らなくて、競争相手がいない。
うーん。反則技の商品だ。
「はえー。疲れた」
数日に渡って、王都を文字通り駆けまわった江莉香は、すっかり自宅扱いしている屋敷の長椅子に倒れ込む。
この長椅子気に入ったわ。ニースに持って帰りたいぐらいね。
「お疲れ様です」
気の利くユリアが、飲み物を出してくれた。
くたくたになるほど動き回ったが、大した成果は得られていない。
日本人の姿は影も形もなく、蒲鉾とラジック石も、砂糖のようには儲かりそうになかった。
二匹目の鰌は、そう簡単には捕まえられない。
この二つは堅実なビジネスとして、コツコツ積み重ねていくしかないようだ。
江莉香は気持ちを切り替えるために、身体を起こし、飲み物を手に取った。
「ありがとう・・・ごめんね。ラナさんの面倒を任せっきりにして」
私は朝晩の挨拶するだけで、お世話はユリアに頼り切っていた。
「お気になさらず」
「それで、ラナさんはどんな感じ」
出された飲み物を勢いよく流し込む。煎じ茶のような苦みのある味がした。
「はい。力も少しずつですが戻っています。歩いたり座ったりすることは出来る様になりました」
「よかった・・・それで、今どこにいるの」
「中庭におられると思います。中庭が気に入られた様子で、今日は一日、そこに」
「よし。少しお話をしよう」
江莉香は長椅子から立ち上がると、中庭に足を向けた。
中庭には季節の花々が植えられており、それを眺めるための木製のベンチが備え付けられている。
ラナはそのベンチに腰かけて、黄色の花を眺めていた。
声を掛けようと近づくと、何処からか歌声が聞こえてくる。
立ち止まり耳を澄ませると、その歌声はラナが発していた。
「緑の海辺を渡る鳥。北へ北へと翼を広げ、アルザスの峰々を越えて行け。風に流され雨に打たれようとも超えて行け。仲間と共に超えて行け。愛しい故郷があると信じて・・・」
小さい声であったが、江莉香たちの耳には明瞭に響いた。軽やかな歌声の中に一抹の寂しさを感じさせる歌だった。
「・・・メルキアの歌です」
同じように耳を澄ませていたユリアが呟く。
「メルキア? 誰それ」
「人の名前ではありません。メルキアは土地の名前です。どこかまでは存じませんが」
「よく知ってるわね」
「修道院の書庫で読みました」
流石、文学少女のユリア。この手の造詣が深い。
「と言う事は、ラナさんはメルキアの人なのかな」
これは、身元を確認するためのヒントになるかもしれない。
「そうかもしれません。ですが、メルキアの歌は人気がありますから、違うかもしれません」
そう言われると確かに。津軽海峡冬景色が好きだからと言って、青森県民とは限らないもの。
決めつけは駄目よね。
「メルキアの歌は、遠く離れた故郷を思う歌です」
「ユリアも好きなんだ」
「はい」
ユリアは深く頷いた。
「ですが、メルキアの歌は庶民の歌と言うより、貴族の方々に好まれる歌です。ラナさんはもしかしたら高位の家の方かもしれません」
「ふーん。それならどうして、あんなにボロボロだったのかな。良い所の人なら、家族も知人も多いでしょうに」
「そうですね。失礼しました」
悪気なく言った台詞にユリアが落ち込むので、慌ててフォローする。
「ああ、ごめん。別にユリアの意見を否定したい訳じゃないのよ。ただ、なんでかなって思っただけなの」
有力者の身内なら、セシリアに聞けば何か分かるかもしれない。
そんな事を考えながらラナさんに近づく。
ラナは二人の気配を察知するとベンチから立ち上がり、丁寧なお辞儀をした。その所作は言われてみると、良い所の人なのかもしれないと思える。
そんな事を考えながら暫く立ち話をすると、唐突にラナさんが暇乞いを口にした。
「お二人には、世話になりました。明日にでもここを離れます」
「えっ、でも、まだ身体も回復していないし・・・その、失礼ですけど、どこか落ち着く先はあるのですか」
「・・・ありません」
無いんかい。やっぱり、訳ありなんじゃないの。
「身体が良くなるまで、ゆっくりとしていって下さい」
「好意は嬉しい」
「なら」
「いつまでも、あなた方に迷惑をかけるわけにはいかない」
強い視線で言われてしまった。
いや、正論ちゃ正論だけど、その日の食事にあり付けず、行く当てもないのにどうやって生きていくつもりなのよ。
「私の事は御放念ください。助けてくれたことは忘れません」
頑ななラナの態度に、江莉香は説得する言葉が見つからず、内心で頭を抱えた。
ラナさんも一人の立派な人間。捨て猫じゃないんだから、恩着せがましくお世話をするのも、親切の押し売りかもしれない。
そこは、モンテューニュ騎士領での一件で身に染みた事だし。でも、ここでサヨナラしたら、気になって気になって夜も眠れないわよ。
「えーっと・・・」
どう対処していいか分からず口ごもると、ユリアが助け舟を出してくれた。
「ラナさん。お身体は本調子ではないでしょう。無理をしてはいけません。迷惑をおかけになられていると危惧されているかもしれませんが、御心配には及びません。こちらにおられるエリカ様は、教会からアルカディーナ様の称号を得ているお方です。困っているラナさんを迷惑に思ったり、まして、お見捨てになったりは致しません」
ユリアの言葉に、ラナは江莉香の顔をまじまじと見つめ返した。
いや、そんな偉い人ではないからね。買いかぶられても困りますけど、見捨てるつもりが無いのは確かかな。
「称号はともかく、落ち着き先が決まるまでは、ゆっくりとしてください」
「しかし、いらぬ迷惑が・・・」
ラナの瞳に迷いが生じだ。
「迷惑は全く掛かっていませんよ。全くです」
説得するならここだと確信した江莉香は、力一杯に断言する。
実際に何の迷惑もない。
逆に私が迷惑をかける可能性の方が、圧倒的に高いわよ。事故とはいえ、フラフラのラナさんを突き飛ばしちゃったわけだし。
「アルカディーナ様もこう仰っています。これも神々のお導きです。落ち着き先が見つかるまでは、ここで過ごしましょう。ねっ」
ユリアが駄目押しのトライを決めてくれた。
こんな状況でスっと神様を出せるのが、ユリアの強みよね。
私が口にしたら嘘くさい。
「すまぬ・・・感謝いたします」
そう言うと、ラナさんは泣き崩れてしまった。二人で背中をさすってやる。
やっぱり不安だったんだろうな。
まるで昔の自分を見てるみたい。
私も日本に帰れなくて、行く当てがなくて、毎日が不安だった。
底抜けに親切なエリックがニースに置いてくれたから今があるけど、ラナさんにもエリックみたいな存在が必要だと思う。
エリックに受けた恩をラナさんに返そう。そうしよう。
変かな?
変よね。まぁ、いいか。
情けは人の為ならずって、昔の偉い人が言っていたし、周り回ってエリックに福が訪れるかもしれない。それに、エリックには毎日感謝しているから大丈夫よ。
「さてみんな、夕食にしましょう。私、お腹減っちゃった」
立ち上がり、威勢よく宣言すると、ようやくラナの顔に僅かな笑みがこぼれた。
続く
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