第49話 蒸し風呂
眩しい日差しに照らされた深く濃い緑の尾根を越えると、眼下には海が広がっていた。
「着いた・・・・・いつ見ても綺麗ね」
江莉香は羽黒の手綱を引いて止まった。
視線の先には夏の海とニースの村が見える。
「ここからは下りがきついぞ。平気か」
エリックも隣で馬を止め、村と海を見下ろした。
「大丈夫よ。羽黒に任せて進むから。この子、急に走ったりしないし」
「下りは難しいから気を抜くなよ」
「後からゆっくり付いて行くから心配いらないわ」
江莉香は鐙にかけた足で軽く羽黒の腹をけった。
羽黒は短く嘶くと坂道を下り始めた。
オルレアーノでの予定を済ませた一行はニースの村に帰り着いたのだった。
家ではアリシアとレイナそして、コルネリアが出迎える。
「おかえりなさい。みんな。どうだった」
「無事に挨拶はすんだよ。エリカも正式に一門として認められた」
エリックはアリシアの前で馬から飛び降りた。
「よかったわね。おめでとう、エリカ」
「ありがとうございます」
江莉香も後に続いて地面に着地した。
鐙のおかげで安全に乗り降りができる。みんなも使えばいいのに。周りに勧めてもみんな笑って首を横に振る。
なんだろう。鐙を使うのは邪道だ。みたいな価値観なのかな。
「おかえり。兄さま。エリカ」
レイナが江莉香に走り寄ってきた。
「ただいま。レイナ。いい子にしてた」
「うん」
「よしよし。お土産買ってきたからね」
「なになに」
「後でね」
「えー。今がいい」
レイナはエリカの腰巻を引っ張った。
「駄々を捏ねる子にはお土産はあげないぞ」
「エリカのケチ」
レイナはエリックの方に走っていった。
「どこでそんな言葉覚えたの。もう」
「おかえりなさい。エリカ」
コルネリアがいつもの真顔で出迎えてくれた。
「ただいま戻りました。コルネリア」
「どうでしたか。何か因縁を吹きかけてくる者はいませんでしたか」
「いませんよ。皆さん親切でした」
挨拶に行っただけで因縁吹きかけてくるって、田舎のヤンキーか。
「それは、重畳。魔法使いの力を試そうと絡んでくる者が多いのだが」
「何ですかそれ。ってか。コルネリアは因縁つけられたことがあるのですか」
「ありますよ」
事も無げに答える。
「ええっ。本当に? 何と言って因縁をつけてくるのですか」
「私の場合は、単純に決闘を挑まれた」
「決闘って、一対一でやる。あれですか」
「ええ」
女の子に決闘挑む奴なんているの。恥ずかしい奴。
「なぜそんなことに」
「力を示せという通過儀礼のようなものでしょう」
「因みに、どうなったのですか。相手も魔法使い? 」
「ただの騎士です。突風を当てて8フェルメほど吹き飛ばして差し上げた」
「ただの騎士って。8フェルメってどれぐらいの距離ですか」
コルネリアは辺りを見渡すと家を指さした。
「ここから、家ぐらいでしょう」
「10メートル以上あるじゃないですか。相手、大丈夫でした」
「問題ありません。生きていました」
「あはは」
コルネリアの返答に力なく笑った。
この人怖い。
若干、コルネリアに引いているとアリシアが声を掛けてきた。
「エリカも疲れたでしょう。夕飯まで休んでいなさい」
「そうですね。そうさせてもらいます。あっそうだ。みんなで、お風呂に行きましょう。今なら砂糖の竈に火が入っているでしょ」
旅の疲れにはお風呂が一番よ。蒸し風呂だけど。
エリックは旅の荷物をかたづけると、馬の世話を始めた。飼葉と敷き藁を変えてやり、専用のブラシで毛並みを整えてやる。
「よしよし、しっかり食べろよ」
背中を撫でながら話しかける。
「エリック様。水を汲んできましたけど。いりますか」
エミールが木桶を片手に馬房を覗き込んだ。
「助かる。こっちにもくれ」
「わかりました」
エミールが羽黒とエリックの馬に水を与える。
「エリカには世話のやり方も教えないとな」
「そうですね」
エミールが羽黒の背中を撫でてやる。
エリカには、まだ餌のやり方ぐらいしか教えていないが、本来であれば自分の馬は自分で世話をした方がいい。馬との信頼関係が馬術では最も大事なことだ。
「エリック。居る? 」
馬房にエリカが顔を出した。風呂を終えたようだ。
「いるぞ」
「羽黒に餌あげた? 」
「今からやるよ」
「ああ、いいから。私がやるから。エリックとエミールはお風呂入ってきなよ」
「風呂? いや、俺はいい」
飼葉をピッチフォークで上に掬上げる。
「いいから入ってきなよ。汗かいてるでしょ」
「それはそうだが」
「汗臭いまま、夕飯の席につかないでよね」
エリカは手を差し出す。
「汗臭いか? 」
服の匂いを嗅いでみる。特には感じないが。
「自分では分からないわよ。いいから、行って」
「わかったよ」
エリカの手にピッチフォークを預けた。
「エミールも行くのよ」
「私もですか」
「当たり前でしょ。同じぐらい汗をかいてるでしょう」
エリカはピッチフォークの刃の部分を地面に突き刺して言った。
こうなったら、逆らわない方がいい。
「しかたない。行くぞ」
「はい」
「石鹸で身体も洗うのよ」
「わかったよ」
更に追い打ちをかけてくる。エリカの風呂好きにも困ったものだ。
砂糖工房の裏側。一段高くなった土台の上に風呂はあった。
外から見ただけではただの小屋だが、いろいろな仕掛けが施されている。
扉を開いて中に入ると、そこには棚が並んでいる。ここで衣服を脱いでまた扉を開くと、薄暗い室内に大きな浴槽が目に入る。大人が4,5人は入れる大きさだ。そこには川から引き入れた水が溜められている。そこからさらに奥のくぐり戸を抜けた先が蒸し風呂だ。
中から物音がする。
「誰かいるか」
「おりますぞ。若」
どうやら先客はロランのようだ。
腰をかがめてくぐり戸を抜けると二段ほどの段差があり、それを上がると正面には工房の煙突が目に入る。中は猛烈な湯気と熱だ。
「熱いな」
豚の皮を張りつけた窓から、ぼんやりと光が漏れている。
「こんなものではありませんぞ」
ロランが奥に積み上げられた黒い石の塊に水をかけると、水がはじける音と共に湯気が立ち上り、熱の力がさらに増した。
工房の竈の一部をくり抜いてそこに大きな鉄の板を渡し、その上に黒い石を積み上げる。鉄の板からの熱で黒い石は熱せられ、そこに水をかけると蒸し風呂の出来上がりだ。
この小屋はほぼロランの指示通りに作った。
「良い香りだ。この香りこそ蒸し風呂の醍醐味ですぞ」
ロランが嬉しそうに息を吸い込む。
確かに良い香りがする。この黒い石からの香りらしい。壁沿いに設けられた段差に腰かけていると、全身から汗が噴き出してくる。
しばらく我慢して、汗がしたたり落ちると、次は水の浴槽に飛び込むのだ。この瞬間は確かに心地よい。
体が冷えると、再び蒸し風呂へと戻る。また。汗が止まらなくなると水に入る。
ロランが言うには、この出たり入ったりを何度も繰り返すのが良いらしい。
その後、石鹸で全身を洗い流すと終了だ。
一連の流れを澱みなく行うのが入浴らしい。
この複雑怪奇な作法をエリカとロランが声高に主張するのだ。
あの二人は風呂の神でも祭っているに違いない。普段、あまり意見の合わない二人だが、風呂に関しては不思議なほどに意気投合している。村で一番の風呂好きがエリカなら二番は間違いなくロランだ。毎日でも入るつもりらしい。
エリカは毎日風呂に入れば病気にかかりにくくなるという教えを信じているらしく、村中の人間にも熱心に布教している。
毎日。毎日風呂に入るのか。
確かに、工房の火を使うので炭は必要ないが、浴槽に水を張るのは一苦労だ。ロランは斜面の上から水路を作って水を引けば楽に溜められると言うが、そこまでする必要があるのか。そのうちに、本当に作りそうだ。
だが、この蒸し風呂。夏の間はいいだろうが、冬は厳しいかもな。いくら、全身汗まみれになろうとも冬に冷水に入る気にはならないだろう。それともあの二人は無理をして入るのだろうか。あり得ないと断言できないほどに、二人の風呂への情熱は強い。
ロランが言うには、この風呂はそもそも北方民が作った風呂らしい。ともなれば、冬にも入るのか。俺は無理だな。
ただ、この調子で行けば、砂糖の力で余裕ができるだろうから、王都にあるような、お湯を張った風呂を作る腹積もりかもしれない。
まぁ。余裕が出来たらそれでもいいか。
全身を布で拭きあげて、洗濯した短着に袖を通す。
家に戻ったら、冷えた井戸水で割った葡萄酒を飲もう。これは、普通に飲むより格段に美味い。ここが風呂の一番いい点だと思う。
続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます