第40話 甘い武器
シンクレア家の台所には3つ竈があるが、ここ最近はフル稼働状態が続いている。
どの竈にも鉄鍋が据え付けられ濛々と湯気を立てていた。
「熱いわね」
江莉香は頬を伝う汗を拭う。
額から落ちる汗は頭に巻いた頭巾で何とかなるが、それでも汗が伝ってくるのがわかる。
排熱と水蒸気の熱が容赦なく江莉香の水分を奪っていた。
「エリカ様。お水です」
エリカと同じ背丈の女が水の入った器を差し出す。
「ありがとう。ちょっと代わって」
「はい」
江莉香は手にしていた木べらをゼネイラに手渡した。
目の前の3つの鍋には千切りしたビーンが煮込まれ、熱湯の中で勢いよく踊っていた。江莉香から木べらを受け取ったゼネイラは、ビーンが焦げ付かないように水を差しながら、延々とかき混ぜる。
夏にはつらい仕事だ。
江莉香は受け取った水を一気に飲み干した。
井戸から汲み上げてきたばかりなのか水は冷たくて美味しかった。
ただし海に近いため、僅かに塩気を感じるのがニースの井戸水だ。
江莉香は、ここ数日は毎日のように砂糖の精製について研究している。
日のあるうちは台所でビーンを煮詰めて糖蜜を作り、お手製の遠心分離機に入れて結晶化した砂糖を取り出す。日が暮れてからは魔導士の書を舐めまわすように読んで何かヒントはないかと探すのが、ここ最近のルーティーンだ。
今江莉香が取り組んでいるのは、糖蜜の中にいかに多くの砂糖の結晶を作るかだ。
初めに行った手法では砂糖より分離した糖蜜の方が圧倒的に多い。そして、搾りカスであるはずの糖蜜は物凄く甘く、この中にまだまだ取り出せていない砂糖が眠っているのは明らかだった。
毎日手を変え品を変え糖蜜と戦う。
ビーンを煮込む時間を変えてみたり、糖蜜を一旦冷やしてから、遠心分離器にかけて見たり、投入する有機石灰の量を調節したり、遠心分離機内部で糖蜜を濾すために取りつけた布地の目や枚数を変えてみたりと、思いつく限りの手法を試みる。
先日、炭酸ガスが不純物の分離に有効だと本に書いてあったので、竈の燃焼ガスを鍋に誘導しようとしたら熱と煙で大変な目に合った。
熱いわ、煙いわ、危険だわで、この手法はあえなく頓挫した。
安全な炭酸ガスの発生装置があればいいのだが。
「なんか、ドクターになった気分だわ。こっちで研究職に就くなんてね」
本当に手が離せない毎日で、若殿には悪いが当分王都には行けそうになかった。
しかし、努力の甲斐あってか、少しずつ取り出せる砂糖の量が増えていく。この調子なら商業ベースに乗せれそうだ。
「エリカ。焼けたわよ」
アリシアがオーブンから取り出した木製のトレーを江莉香に見せる。
「わぁ。いい感じに焼けましたね。美味しそう」
トレーにはこんがり焼けた丸い茶色の物体が並んでいる。
「いったん休憩しましょう」
アリシアがトレーを食卓の方に運んでいく。
「わかりました。ゼネイラ。一休みしましょう。火を落として、鍋に水を足しといてね」
「はい」
ゼネイラは竈の風の通り道を塞ぎ水を足した。
江莉香は頭にしていた頭巾を取ると汗で重くなっていた。
台所の隣の部屋で食卓を囲み午後のお茶会が始まる。ただしお茶はない。井戸から汲んだ水でのお茶会だ。
「レイナ。熱いから気をつけてね」
「うん」
トレーから皿に移された茶色の物体はまだ熱を帯びている。
江莉香は一つ取り上げて二つに割って片方をレイナの前に置いた。
「甘い。いい匂いね」
香りに誘われて口に放り込むと砂糖の甘みが広がった。
「うん。美味しい。完全にビスケットだわ」
江莉香は満足げに笑う。
「甘い固焼きパンになるかと思ったけど、違うものになったわね。美味しいわ」
アリシアが、感心しながら味を確かめるように噛み締める。
「エリカ。もう一個取って。もう一個」
レイナが皿に向かって手を伸ばす。
「はいはい。慌てて食べちゃ駄目よ。美味しかった? 」
「うん。甘くておいしい」
レイナは手渡されたビスケットを勢い良く頬張る。
なんだか、ハムスターみたいだ。
「不思議な味です」
ゼネイラは首をかしげながら味わう。彼女には初めて体験する味なのかもしれない。
江莉香がアリシアに作ってもらったのはライ麦のビスケットだった。
どうしても余ってしまう糖蜜をなんとか再利用するために作ってみた。ビスケットの生地に糖蜜をたっぷりと塗ってから焼いてみたのだが、思いのほかうまくいった。
「固焼きして砂糖でコーティングしているようなものだから、日持ちするでしょ」
ただし、商品になるかは微妙だ。
砂糖の精製時に出る廃棄物で作るから値段は抑えられるはずだが、嗜好品であるお菓子を買える余裕のある人がどれぐらいいるのか不明だ。
「王都向きの商品かもね」
王都には国中の裕福な人が集まっているから需要があるかもしれない。でも、運送費の事を考えると微妙かな。そうなると向こうで作った方がいいから糖蜜だけ運んだ方がいいわね。
江莉香は二つ目を頬張りながら考える。
「ドーリア商会にレシピごと買い取ってもらうのが一番かな」
問題は買ってくれるかどうかね。次に王都に行くときに交渉するか。蒲鉾がOKだったから、ビスケットの方が敷居は低いはず。うん。行けるかもしれへんな。
江莉香たちは一休みを終えると、また燃え盛る竈の前に立つのだった。
エリックはここ数日、普段行っていた武術の鍛錬を行わず、ひたすら鍬を振るう日々を過ごしていた。
ため池作りと土起こしまでは村人の協力を得られたので、後は森から運んだ土と魔導士の書に書かれていた貝殻を砕いた粉、そして魚の肥料を土に混ぜ込んでいく作業だ。
クロードウィグに土と肥料を運ばせ、エリックはエミールと共に鍬を振る。
「何とか秋に取れる分は間に合いそうだな」
エリックが鍬を振る手を止め一息ついた。
「そうですね。そろそろ畝を作りましょうか」
「畝作りまでは、まだ早いだろう。種はどうなっている。必要な分はあるか」
「はい。メッシーナ神父が分けてくれましたから、充分な数があります」
「神父がか。何かお礼をしなきゃならないな」
「そうですね。神父はビーンでの砂糖作りに相当興味があるみたいですよ。数が足りないなら他の教会からも分けてもらうと言っておられました」
「助かる。砂糖が出来たら教会には多めに寄進しないといけないな」
「きっと喜ばれるでしょう」
二人は日が暮れるまで土を混ぜ込むのだった。
夏の終わりに秋用の種を蒔けば冬前にはもう一度ビーンが収穫できる。それまでにはかなり広い畑が出来そうだった。
「今日。作った分はこれね」
エリカが机の上に砂糖の入った壺を置いた。
夕食が済むと書斎でエリカとその日の状況を報告し合う。
「ありがとう。最初のころに比べて量が増えてきたな」
エリックは壺の中を覗き込むと、中で砂糖の結晶が輝いて見えた。
「手馴れてきたのと、一個から取れる量が増えてきたからね。それで、そろそろ、あれが欲しいんだけど」
「あれというと、砂糖の工房か」
「うん。今から作れば工房が出来たころには、モリーニさんに頼んでおいたビーンが来るでしょうから、それを一気に砂糖にしていきたいわ」
エリカは先日訪れた行商人に、周りの村で作ったビーンを頼んでいたらしい。
「よし。畑の方も見通しがついたから、工房をもう一軒建てるか。しかし、そうなるとまた炭がいるな」
エリックは腕を組んで考え込む。
「今まで以上にお湯をたくさん使うからね。炭の数は増やせそう? 」
「前々からビット爺さんには頼んでいるし、頑張ってくれているがこれ以上となると、どうかな。人手が足りないからな」
エリックは腕を組んだ。
ビット爺さんの方でも息子のカインと共に炭を焼く数を増やしてくれてはいるが、魚の肥料とカマボコの工房のだけでもかなりの量を使用する。そこに砂糖の工房分までとなると厳しいかもしれない。
「確かにね。ビットさんが弟子を取るっていう話はどうなったの」
「やりたい奴がいないみたいだ。まだ、誰も弟子入りしてない」
「手伝いだけなら手の空いている人に頼めるけど、弟子入りは流石に簡単に頼めないわね。どうしよう」
「それで相談なんだが、奴隷の子供の男の方。名前・・・・・何だったかな」
「トレヴェリよ」
「ああ。トレヴェリ。あいつに炭焼きをさせてみるのはどうだろうか」
「うーん。まだ、子供と言いたいけど、村の子供たちも働いているからね。やってもらおうかな。炭が足りなくなるのは目に見えてるわけだし」
「よし。決まりだ。明日にでもビット爺さんの所に連れていくよ。これで、少しは数も増えるだろう」
「わかった。でも、そうなるとネルヴィアにも、何か仕事を与えないといけなくなるわね。何にしようかな」
エリカがもう一人の子供の奴隷について考えだした。
「とりあえずは母親と一緒に砂糖作りに回したらいいんじゃないか」
「そんなところかな」
「炭もどうしても足りなくなったら、他の村から分けてもらおう。銀貨にも余裕があるからある程度なら揃えられるさ」
「わかった。工房とビーンと燃料が揃ったら、いよいよ砂糖の大量生産が始められるわ。将軍の前に砂糖の山を献上したらどんな顔をするか楽しみよ」
エリックの意見にエリカは頷くと、にやりと笑った。
「前にも言ったけど、この砂糖がエリックの最大の武器になるはずよ。これで確実に将軍や若殿の見る目が変わる。覚悟はいい」
「勿論だ。俺も楽しみで仕方がない」
続く
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