第38話 王都からの使者
前々から話に出ていた江莉香が使える馬をロランが用意してくれた。
ロランが管理する厩から引き出された馬は、黒の馬体に白いラインが鼻筋に走り、夏の明るい日差しの中で輝いていた。
「この馬を使うといい」
エリックが馬の首筋をなでながら江莉香を手招きする。
「近づいて大丈夫かな。噛んだりしない」
「大丈夫だ。ただし大きな音を出したり急に走ったりするなよ。馬が驚くから。馬の後ろから近づくのも駄目だ。驚いて後ろ脚を蹴り上げることもある。当たったら死ぬぞ」
「それ、噛まれるのより大変なんやけど」
江莉香は馬に近づいてエリックと同じように首筋を撫でてやると、馬は大人しく鼻を鳴らした。
「よろしくね。この子なんて名前」
「名前か、何かあるのか」
エリックはロランに声を掛ける。
「特には。ベネットの3番目の子供ですから3番と呼んでいます」
ロランは村の馬を何頭も管理しているので、一頭一頭に名前は付けていなかった。
「3番は味気ないわ。それじゃあ私が名前をつけてもいいでしょ」
「ああ。今からこいつはエリカの馬だからな好きにつけるといい」
「ありがとう。そうね。折角だから速そうな名前がいいわね。ディープインパクト。オルフェーヴル。キタサンブラック。オグリキャップも早そうでいいわね」
取りあえず聞いたことのある競走馬の名前を上げてみる。
「なんだか変わった名前だな。しかも長い」
「私の国の馬の名前は大概長いのよ。クレオンシンザンなんてふざけた名前の馬もいたわね。逆にハルウララにしよっかな。勝てないけど人気者みたいな」
江莉香は色々話しながら馬を撫で続ける。
「でも、もっと日本っぽい名前にしようかな。黒いからクロとか。クロスケ。そう言えばこの子、雄? 雌? 」
「雌だ。大人しい方がいいと思ってそうした」
「なら、クロスケは駄目ね。黒影。なんか忍者みたいでしっくりこないわ。黒子、黒見、黒江。なんか違うわね。速く走ってほしいから、そんなな名前がいいな。そう言えばユニコーンがいるらしいから、ペガサスもいるかもしれないわね。羽の生えた黒い馬で
「決ったか」
「うん。今日からこの子は羽黒よ。よろしくね。羽黒」
江莉香の言葉に興味ないとばかりに羽黒は鼻を鳴らした。
ロランの指導の下、乗馬の訓練が始まるのだが、初めの内は羽黒に跨ることすら難事であった。
理由は簡単。
「やっぱり、鐙が欲しいわ」
ロランの組んだ手を踏み台代わりにして、ようやく羽黒の背に跨ることができた江莉香はため息をつく。
乗馬クラブのサラブレッドに比べて小柄とはいえ、馬は馬。踏み台無しでは乗りにくい。
エリックは軽く飛んで腕と足の振りで軽々と跨ってしまうが、そんな芸当いきなりは無理だ。
ロランは羽黒の轡を取ると柵で囲まれた放牧地をぐるっと回りだした。
「手綱は軽く持って。足はしっかりと胴を挟み込むんだ。力は入れない」
ロランの厳しい乗馬指導が始まったのだった。
しかし、車も列車もないこの世界。歩くのは大変だし遅い。ゴムタイヤもサスペンションも無い馬車は乗り心地が悪い。乗馬を覚えれば移動は格段に楽になるだろう。ここは、しっかりと練習しないといけない。
乗馬を習い始めた江莉香ではあったが、他にもやりたいことは多い。
江莉香はエリックの家の隣に建てられた村の備蓄用倉庫の中で腕を組む。
傍らには奴隷のゼネイラが控えていた。あれから十分な食べ物と休養を与えたので、血色も良くなってきた。身体も少しづつ回復していくだろう。
倉庫には村で取れたノルトビーンが積み上げられていた。これを使っていよいよ砂糖の生産を本格的に行うのだ。ただし、砂糖になるとは言っても、これを全て砂糖にするわけにはいかない。農地の乏しいニースではこれらは貴重な食糧。考え無しに砂糖にしていては食べるものがなくなってしまう。現代日本の様に流通が発展していない以上、基本的に村は自給自足できなければ生きていけないのだ。
江莉香は始めそのことに気づかず、すべてのノルトビーンを砂糖にしようとしてエリックに止められた。
「砂糖に使うのは豚の餌に使う分だけにしてくれ。飢饉に備えてある程度備蓄しないといけないからな」
「飢饉か。わかったわ」
飢饉なんて話でしか聞かないが、こちらの世界では簡単に食べるものがなくなるのかもしれない。
そのことを想像して江莉香は少し寒気を覚えた。
「お金になる商品作物もいいけれど、人の食べる物をちゃんとしてから始めるべきだったかな」
積み上げられたビーンを前に呟いた。
日本の様にお金で何でも買える世界ではない。いくら金貨や銀貨があっても買える食料が無ければ、ただの金属の塊。腹の足しにはならないのだ。
しかも、ニースは元々耕作地が少ない上、地形的にも畑を増やしにくい。今、開墾している丘だって、農地に適しているとはお世辞にも言えなかった。
まぁ。ニースは目の前が海のため、飢饉が起こっても死なない程度の食べ物なら確保できるかもしれないけど。
「よし。頑張ろう」
頬を叩いて気合を入れると、持ってきた籠にビーンを入れていく。これからゼネイラに砂糖の作り方を教えるのだ。
江莉香が乗馬と砂糖作りに動き始め数日たったある日。
ニースの村には場違いに立派な騎馬の一団が現れた。
彼らは村の広場で馬を降りると、エリックの家の門をくぐり扉を叩いた。
ニースの他の家と同様シンクレア家の扉は、日があるうちは基本開け放たれている。
「誰かいるか」
江莉香が台所でゼネイラと共にビーンを煮ていると、玄関から男の声がする。
「はい。はい。ただいま。ゼネイラは火を見ててね」
江莉香は玄関に向かって声を上げた後、エプロンで手を拭いて急いで玄関に向かうと、白地に赤色のラインが入った目にも鮮やかないでたちの青年が立っていた。
「どちら様ですか」
「ここは、シンクレア家だな。当主のエリック・シンクレアはいるか」
「はい。今は丘で畑の開墾をしていますが」
「呼んでまいれ」
ごく自然に命令された。
「はい。それはいいんですが、どちら様でしょう」
「我らはフリードリヒ・インセスト・センプローズ様の名代として参った。そう、伝えよ」
「ああ。若殿の部下の方ですか。わかりました」
「・・・・女中の分際で馴れ馴れしいが、その通りだ」
若殿からの使者は大層偉そうであった。いや、偉そうで言えばフリードリヒの方が偉そうなのだが、彼の場合は似合っているからか嫌味が無い。だが、目の前の男は嫌な感じがする。
「少々。お待ちください。呼んでまいりますので」
突然押し掛けた男を応接室に案内して、江莉香は厩に向かう。
「羽黒。お散歩の時間よ」
馬房から羽黒を引き出すと鞍を取り付け鐙に足をかけ一気に飛び乗った。
革細工の得意な村人に頼んで簡単な鐙を作ってもらったのだ。このおかげで乗り降りも大変楽になり馬上での踏ん張りも効くようになった。
これなら一人で気軽に乗れる。そして、ロランからは村の中を移動するときは必ず馬で行えと命じられていた。とにかく毎日乗って覚えるのが一番の上達らしい。
もちろん今は走らせることはできないが、距離がある場合は歩くよりかは早かった。
メイド服で馬に跨る江莉香に、偉そうな男の御付の者たちが変なものを見るように笑っていた。
スカートの恰好で乗馬はやっぱり可笑しいやんな。
この前、何かの映画で女性がやっていた馬の横乗りを試してみたら、ロランにびっくりするぐらい怒られた。危険極まりない乗り方らしい。そう言われるとそうかな。
乗馬の時はパンツ。その中でもジーンズが特に欲しいわ。
焦らず急がず、散歩の心持で開墾地に向かい、鍬を振っていたエリックに来客を告げる。
「若殿からの使者。わかった。すぐに戻る」
エリックは繋いであった自分の馬に飛び乗ると一足先に丘を下っていった。
「上手いわね。私達もあんなに速く走れるようになるのかな。ねぇ、羽黒」
江莉香は駆け下っていくエリックの後ろをトコトコ付いて行く。
エリックと彼の乗る馬はあっという間に見えなくなった。
続く
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