第37話 セシリアの一日
セシリア・インセスト・センプローズの朝は早い。
夜が明ける前には寝床から起き上がると、顔を洗って身だしなみを整える。
特に時間がかかるのが、その長い金髪の手入れだ。
何年も伸ばし続けたため、そろそろ腰のあたりに届きそうだ。それを丁寧に梳かしていると、扉が叩かれ彼女専属の女中たちが入ってくる。
そこからは続きは彼女たちの仕事となる。
「お嬢様。今日も大変お綺麗ですよ」
「ありがとう」
必ず彼女たちは褒めてくれる。毎日言われているとただの挨拶となり何の感情も動かない。
セシリアは基本的に身に着ける物に頓着が無い。用意されたものをただ身に着けていく。女中たちが「白がお似合いですよ」というので、白の衣装が多い。
身支度を終えると食堂で家族に挨拶をする。
「おはようございます。お母さま。兄様」
将軍である父がいない間、この館の主人は将軍の正妻のエレオノーラだ。まず彼女に挨拶をし、続いて長兄のフリードリヒ、次兄のギュンターに挨拶をしていく。上に姉が二人いたが二人とも他家に嫁いでおり、妹はまだ小さいのでオルレアーノにいる。
インセスト家は代々武門の家柄のため大貴族と言っても朝食は質素だ。白パンとチーズにミルク、そして果物が少々。
貴族にしては質素な朝食が済むと、学園に登校する時間となっている。
王族を頂点に貴族、王都の有力者、高位聖職者などの子弟が集められ教育が施されていた。
多くの、特に子女は登校に馬車を使うのだが、父の方針でセシリアは騎乗で登校するように言い渡されていた。そのため、食事がすむと乗馬服に着替えさせられる。こんなことなら初めから乗馬服姿で食事をしたいのだが、エレオノーラは決してそれを許さなかった。
護衛と供を引き連れて学園につくと今度は制服に着替えるのだった。一日の内に何度も衣装を変える意味がセシリアには未だに理解できないが、そう言うものだと納得するしかないのだろう。
「おはようございます。セシリア様」
教室に入ると淡い栗毛の青年が声を掛けてきた。
「おはようございます。アラン様」
セシリアが挨拶を返すとそのまま世間話が始まった。
学園に入るまでオルレアーノ近郊以外に出たことのないセシリアには王都での知り合いもおらず、教室でも話す相手が少なかった。
彼は同じセンプローズ一門で有力な家の子弟だ。同じ一門のよしみなのか、それとも父から頼まれているのか、何かと気にかけてくれるのでセシリアとしても助かっていた。
でも、時々エリックに王都に付いてきてほしかったと恨めしく思うこともある。エリックがいれば王都での暮らしも、もっと色鮮やかなものになったのに。しかし、彼にもお役目というものがある。邪魔をしてはいけない。
そして授業が始まる。
神学。歴史。数学。詩文。音楽と貴族としての教養を教えられるのだが、セシリアとしては遅れないようについて行くので精一杯だった。
しかし、これも貴族の家の娘の責務。
成績が悪いと自分だけではなく家名に泥を塗ることになってしまう。必死に学ぶのだが、詩文だけはどうしても苦手だ。神学と歴史は覚えればよいだけだし、数学も特に苦手ではない。そして音楽は得意と言えたのだが、詩文だけはどう努力しても上達できそうになかった。
神話、古典文学、高名な詩文を膨大に読み込み、その中の一文を引用し婉曲に伝える。青い空を青い空とは言ってはいけない詩文の世界にはどうしてもついていけなかった。
「作り直しですか」
授業の終わりに、先日提出した詩を突っ返され再提出を命じられた。
詩には赤文字で添削がなされており、駄目な部分についての言及が書かれてあるが、冒頭から終わりまで赤一色だ。良いところが一つもなかったらしい。
「お手伝いしましょうか」
一人席でため息をつくセシリアにアランが優しく声を掛ける。
「いえ。大丈夫です。ありがとうございます」
流石に赤一色の詩を見られるのは恥ずかしい。
セシリアは咄嗟に折りたたんで隠した。
「セシリア様は詩が苦手ですか」
「はい。無作法者で。わたくし王都に上がるまで詩など書いたことがございませんでした」
「インセストは武門の家柄ですからね。フリードリヒ様も詩文は嫌いだとよく仰ってましたよ」
「兄様が」
「はい。私は昔フリードリヒ様の詩を聞いて感想を言う役目を仰せつかったことがあります。私に手伝わせていただけませんか」
「何をでしょうか」
セシリアの頭の中に浮かんだのはアランを前にして上手くもない詩を朗読する兄の渋顔であった。
「セシリア様の詩を作るお手伝いですよ」
「いえ。そんな。勿体ない事です」
「詩をはじめから上手く作れるものは稀です。何度も書いては捨て書いては捨ての繰り返しです。とにかく書いてみることです」
「はい。先生にもそう言われました」
「フリードリヒ様がなされていたのは身近な人への挨拶を文にしてから詩に変えておられました。セシリア様も身近な方、お母上や兄君たちへの挨拶を詩に変えてみてはいかがでしょうか」
「そうなのですね。兄様がそんなことを。ありがとうございます。アラン様。早速やってみますね」
「お役に立てたのなら幸いですよ」
アランは生まれの良い子弟らしく優しい笑顔をセシリアに向けた。
学園での授業は午前中に終わり、午後からは屋敷で魔法の修練が始まる。
今度は灰色の飾りのないワンピースに着替える。
センプローズ一門に連なる老いた魔法使いが家庭教師としてセシリアの指導に当たっていた。
「呼吸を整えよ。音程は正確に」
屋敷の中に特別に作られた離れで毎日、魔力の操作と真言の詠唱の修練を繰り返す。
己の中の魔力を、どの程度どの瞬間に魔導回路に流し込むかを身体に覚えさせる。
「もう一度初めから」
「はい」
実際に魔法を発動させることはほとんどなく、ひたすらに魔力操作と詠唱を繰り返すのだ。
魔法の修練が終わると、日が傾く時刻となっている。
離れを出て自室に戻る途中、見覚えのある青年が目に入った。
「セシリア様」
少し年上のその青年は、使用人の制止を振り切ってセシリアに駆け寄ると目の前で跪いた。
「お前は、ニースの村の・・・確かエミールでしたね」
セシリアは声を掛け、青年を引き離そうとする使用人たちを手で制した。
「はい。覚えていただき光栄です」
「どうしたのです。エリックと共に村に帰ったのでは」
「はい。この度王都へはエリカ様がお作りになられた魚のハムを売りに参りました」
「エリカが作った魚のハム? 」
「はい。一箱分、お屋敷に献上いたしましたのでご賞味くださればご両人も喜びます」
まるでエリックとエリカを連れ合いのような言い方に苛立ちを覚えたが、それは飲み込んでおくことにした。
「そうですか。楽しみにしております」
「それで、こちらを」
エミールは懐から小箱を取り出した。
「これは」
「エリック様からセシリア様への贈り物でございます」
「えっ」
先ほどの苛立ちはどこへやら、セシリアの顔に歓喜の色が浮かんだ。
捧げ持つエミールの手からひったくるように小箱を受け取った。
「ありがとう。確かに受け取りました」
この場で開けたい衝動をこらえて、エミールを労った。
「はい。直接お渡し出来てよかったです。では私共はこれで」
跪いたまま後ろに下がっていく。
「お待ちなさい。お前はいつまで王都にいるのですか」
「はい。取引も滞りなく終わりましたので、明日にはニースに戻ります」
「そうですか・・・・・・」
セシリアは少し考えてから決めた。
「明日の朝。また屋敷に来なさい。届けてほしいものがあります」
「畏まりました」
使用人たちを下がらせ、セシリアは足早に自室に戻るとエリックからの贈り物を開いた。
中からは動物の革で編みこまれた髪留めが出てきた。
「綺麗だわ」
セシリアは光に髪留めをかざしてみる。どうやったのか革は深い赤色に染め上げられ淡く輝いて見えた。
喜びのあまり髪留めを胸の前で握りしめた。
そして。箱の中をもう一度確認するが他には何もなかった。
本当に髪留め一つだけを送って来たらしい。
「書き置きの一つでも入れてくれればいいのに」
元気かとか、変わりはないかとか、こちらは元気だとか、寂しいとか、会いたいとか、好きだとか、愛しているとか、何でもいいのに。不器用なエリックは気が利かない。
「そうね。お礼をしなければいけないわね。フフッ」
セシリア机に向かうとペンと紙を取り出しつらつらと文を書き始めた。
鼻歌を歌いながら楽し気にペンを進めていく。
そう、いい機会だからエリックに自作の詩を送ろう。挨拶から始まって、近況を書き、寂しさを伝え、最後に変わらない愛を綴った。
「これでいいでしょう。エリックはきっと戸惑うでしょうね。何を書いているか分からないかもしれないわ。わたくしも半分判らないのだから。フフフッ」
書き上げてみると会心の出来のような気がする。
授業で書く引用と古典にまみれた詩は楽しくないけれど、好きな人に書く自由な詩は楽しいのかもしれない。
セシリアは少しだけ詩が好きになれたような気がした。
翌日の朝に受け取りに来たエミールに書簡を直接渡す。実直そうな彼なら間違いなくエリックに届けてくれるだろう。
そして今日もいつものように登校する。
教室の席に腰かけると一人の女生徒が話しかけてきた。
「セシリア様。髪留めを変えられたのですね。とてもお似合いですよ」
「ありがとう。わたくしのお気に入りなんです」
例えそれが挨拶でも、お世辞でも嬉しい一言だった。
続く
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