第9話 市場
「窪塚君。レポートの件だけどね」
ゼミの教授がモニターを江莉香に向けると、画面には見覚えのある文章と、グラフが映っていた。
「えっ、何かまずかったですか」
嫌な予感はするが、心当たりがない。ないはずだ。ないに違いない。うん。ない。
「まずくはないが、この内容で書きたいなら、テーマを変えた方がいいんじゃないかな」
「テーマですか」
なんだろう、そんなにかけ離れた内容だったかな。
「テーマの方を変更すれば、手直しも少なくて済むだろう」
ちょっと待って。それって。
「もしかして再提出ですか」
「そうした方がいいね。内容を丸々書き換えるよりは短時間で出来るだろ」
「そんな、勘弁してください教授」
教授に泣きつこうとする江莉香を、後ろから肩を引っ張る者がいる。
「エリカ。エリカ。起きろ」
「ちょっと。エリック待って。今、教授と大事な話をしてるから」
振り払おうとする手が空を切った。
揺り起こされる江莉香。ぼやけた視界。
「夢か。あーよかった。あのレポート、再提出とか冗談じゃないわ。何日かかったと思ってんのよ。あり得ない」
ぶつぶつ言いながら身を起こす。周りが随分暗い。
「まだ。寝ぼけているのか。今日は朝から忙しいと昨日言ったろう」
まだ夜でしょ。もうひと眠り。
声が聞こえず、ベッドに倒れこむ江莉香。
「おい。寝るな。エリカ」
「ふぇ・・・あれ、エリック」
暗がりの至近距離にエリックの顔があった。
「起きたか。もうみんな準備している。お前も急げ」
言葉を発する前にエリックが立ち上がる。
「そうか。今日は市場に行くんだった」
ようやく意識がはっきりしてきた。
まだ夜も明けきらぬ暗いうちから、オルレアーノの街の中央広場には多くの人が動いていた。
宿から預けていた馬車を引き出し、広場の一角に向かう。
「ここが、ニースの場所だ」
エリックが指さした場所に馬車を止めると、ロランたちが馬の拘束を解きはじめる。
「エリカはこっちだ」
手伝おうと馬に近づく江莉香に、エリックが木箱を手渡す。干物が沢山入っていて重い。
「並べてくれ」
なるほど。ここに露店を作るのね。
木箱を開いて干物が見えるように並べていく。地面には等間隔に木の杭が打ち込んである。何だろう。
「その杭から向こうは、他の商人の場所だから」
エリックがそれ以上行くなと、手招きする。
「割り当てがあるのね。分かった」
エリックが下ろした木箱を並べ終えたころ、ロランたちが日よけのキャンバスを張り露店が完成した。
前後左右に同じような露店が作られ、小一時間で立派な市場が完成した。
なんだか学祭の模擬店みたいだ。そういえばサークルの模擬店で、たこ焼き屋をやったらびっくりするぐらい儲かったっけ。
江莉香はなんだか、ワクワクしてきた。
「私は何をすれば」
やっぱり売り子かな。エリックに尋ねると。
「見てろ」
と、そっけない返事。
なるほど、見て覚えろという事か。随分日本的な指導方法じゃない。
夜が明けると市場に多くの人たちが集まってきた。街の住人だけではなく、付近の農村からも人が集まるみたいだ。
ニースの村のブースは、沢山の魚の干物と村で作られた日用品が並んでいた。
村から一緒に来たおじさんが、簡単な天秤を使って魚を売っていく。
なるほど量り売りなのね。支払いは銅貨で払うみたいだ。未だに貨幣の基準が解らない。銅貨の上に銀貨、金貨とあるのだろうと想像がつくが、交換レートが解らない。仮に銀貨で支払われたら、お釣りはいくら払えばいいのだろうか。
これは売り子はまだ難しそうだ。そう考えていると、お客の一人が白い物体を差し出す。あれが銀貨ね。さてお釣りはいくらなのだろう。
注意深く見つめていると。何という事だ。おじさんは銀貨を差し出した客を断った。
「えっ、なんで」
残念そうに立ち去るお客の後ろ姿を眺める。
「どうして断るの。もしかして、お釣りの概念が無い? 」
同じ光景を見ていたエリックも、これと言ったリアクションが無いところを見ると、これが普通の様だ。
「せっかくのお客さんなのに勿体ない」
しばらく見ていると、お釣り以外にも気になることが目につきだす。
内陸に位置するオルレアーノだ。海産物の商品価値は高いはず。
現に通りがかる人は一度は干物に目をやる。しかし、多くの人がそのままスルーしてしまう。なんでだろうと、露店の正面に回ってみる。
あーはいはい。なるほどね。こやつらサービス業を舐めているな。
江莉香には売れない理由が、一目で分かった。
「エリック。ロラン。エミール」
江莉香は三人を手招きした。
「どうしたエリカ」
急に店を飛び出したエリカが、自分たちを呼んでいる。
3人が、なんだと近寄ると。
「剣。取る。服。駄目。変える」
エリックとロランの腰の剣を指さし、さらにエリックとエミールの軍服を引っ張る。
「剣を外せばいいのか。しかし、街中とはいえ護身用に必要だぞ。絡んでくる者もいるし」
「剣。いらない。取る」
エリックはロランと顔を見合わせる。
「まぁ。外せと言うなら外すが」
エリックが腰から剣を外すとロランも続いた。
エリカは満足そうに笑うと、次は服を引っ張る。
「服。怖い。変える」
「怖い。この格好がか。栄誉ある軍団兵の軍装だぞ」
「どうします。他の服などありませんが」
エミールも困り顔だ。
「では、上だけ脱ぐか。それで納得してくれ」
軍団兵の長衣を脱ぎ短衣姿になる。
エリカはしばらく二人を眺めた後、笑顔で親指を立てる。
どうやら納得したらしい。
そこから、エリック、ロラン、エミールの順番に腕を組んで眺めると、頷いてエリックの手を取って売り子をエリックに交代させた。
「エリカ。これはいったい」
「エリック」
エリカが顔を寄せてきた。
「なんだ? 」
「笑う」
「笑う? なぜ」
可笑しくもないのに、なぜ笑わなければならない。意味が解らない。
「笑う」
「だから、なぜ」
「笑う」
有無を言わせない、いい笑顔でさらに畳みかけてくる。
「わかった」
エリックは渋々、努力して笑顔を作った。
「good」
また、親指を立てる。
そして、何を思ったか手を打って大声を出す。
「魚。安い。見て」
あっけにとられる男たちをしり目に、エリカは市場を歩き回りながら、笑顔で道行く人々に声をかけ始めた。
そうすると、一人の女がエリックの前にしゃがんだ。
「エリック。笑う」
すかさずエリカからの言葉が飛んでくる。
何とか努力して笑うと、女はホッとしたように干物を買っていった。
そこからは、次々とお客が現れる。
街の女、近くの農村から来たであろう農民。お使いを頼まれた小僧。
エリックはエミールと手分けして、干物を計量し干物と引き換えに銅貨を受け取る。商品が減ると、後ろに積んであった木箱からロランと村人がどんどん補充した。
少しでも気を抜いて無表情になるとすぐさま、「エリック。笑う」とエリカの注意が飛んできた。
日が昇り切ったころには、干物は粗方売り切れてしまい、ついでと言わんばかりに、村で作った日用品も売れた。
「もう。売り切れてしまいましたね」
エミールが空になった木箱を片付ける。
「顔がおかしくなりそうだ」
エリックは引きつった顔を叩く。
「エリック。疲れた」
エリカがいい笑顔でまた親指を立てる。満足したときの合図なのだろう。
「疲れた。いつもより量が多かったのに、あっさりなくなったな」
「エリカの作戦なのでしょう」
ロランが水の入ったカップを差し出す。
「作戦? これが」
一気に喉に流し込む。水の冷たさが心地よい。
「はい。女のエリカが声をかけて安心させて、一番若い若が店番することで、街の者が警戒しなくなったのではありませんか」
「警戒か。干物を売っているだけなんだが」
「市では気を抜くと吹っ掛けられますからな。女での客引きは他でもやっています」
「なるほど。今まで考えたこともなかった」
ただ、村の産物を並べて買いに来たものに売り、市が閉まったら撤収。余ったものは持って帰るか、教会に喜捨したりしていた。
「かなりの収入です。どうします」
村人の一人が銅貨の入った器を見せる。
普段の倍の量の銅貨が詰まっていた。
「村で必要なものを買っていこう。鉄が足りなかったな」
「はい」
「では、頼む。とりあえず、休憩しよう」
エリックは大きく背伸びをした。
エリカは、商売に向いているのかもしれないな。
続く
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