第7話 江莉香の奮闘
朝の内はメイドとして働き、昼食が済むと神父の元でこの地域の言語を学ぶ事が、江莉香の日課となった。
毎日エリックから手渡される銅貨を、教会の賽銭箱のような器に入れる。
この十円玉の親戚のような硬貨に、どれほどの価値があるかは不明だが、少なくとも十円以上はするらしい。
メッシーナ神父は初印象を申し訳なく思うほどに親切に、そしてとても熱心に江莉香に言葉を教えてくれる。
だが授業が始まると手ぶらでは何かと不便だ。
PCとは言わないがノートとペンが欲しい。だがこの二つですら高価な品らしく見かけない。エリックの書斎に大切に保管されているのを見つけたが、使いたいとは言えなかった。
メッシーナ神父の日本語は小学生レベルの簡単なものだったが、単語の発音や意味が変質していることがあり時折頭を悩ませる。何よりも語句が少ない。
それでも江莉香は、持ち前の語学力を生かして次々に単語を覚えていった。
文法も英語よりも日本語に近い気がする。
これは、こちらでは日本語が神聖な言語として知識人たちに広まっているため、現地の言語もこれに引っ張られているのだろう。
語学力があると言っても、英語で思考するほど高いわけではないので、日本語で思考し英語に変換してから現地語を話すより、日本語からそのまま現地語にできる方が江莉香としても大助かりだ。
ただ発音はまるで違う。そしてたまに日本語がそのまま現地語になっているのを聞くとドキリとする。韓国ドラマを見ているとたまに起きる現象だ。
こうして覚えた言葉のおかげで、アリシアやエリックとも意思の疎通ができるようになってきた。相手が何を言っているのかわかるだけでも、江莉香の精神的負担は軽減されていく。
時折、自分が笑っていることに気が付き、なんだか恥ずかしくなる。
机に向かって語学の勉強をするよりも、現地で生き抜くために必死に会話する方が、習熟度は遥かに高い。
図らずも、語学留学をする羽目になってしまった。
ある日夕食が終わるとエリックから書斎に来いと言われる。
江莉香が密かに恐れていたことが起こったようだ。
エリックはこの年頃の男の子特有の、ぶっきらぼうなところがあるが親切にしてくれるし、山で遭難した江莉香を拾ってくれたこともあり感謝しているが、その、そういう関係はちょっと。いやエリックが嫌いという訳ではないのだけど。顔をはまぁ、好みと言えなくもないが、だからと言ってこれは無理。
書斎の前でビクついていたが、江莉香の勘違いだったらしく、例の日本語で書かれた本を指さして読めと言った。
「なんや、勘違いしてたわ。ていうか紛らわしいわ」
日暮れに女の子を自室に呼ぶなんてそうだと思うだろう。やはりエリックも男。デリカシーに欠ける。
江莉香はぼそりと悪態をついたが、促されるまま席に着いく。
そうは言っても、江莉香もこの本のことが気になっていた。
促されるままに本に目を通していく。
教会の聖典や神父の言葉と違い。明らかに日本人が書いたであろう現代日本語。
そして中身はガチの専門書的内容。
開かれたページには日本の魚と、この地域の魚の比較検討がなされ生物学的内容かと思いきや、後半には漁法や味についてのコメントが書かれており、隙が無い。またところどころには拙いながらもスケッチが差し込まれ、魚に詳しくない江莉香でも理解しやすかった。
詳しくないと言っても江莉香も日本人。食べるのなら話は別だ。冬はブリ夏はハモ秋はサンマと魚の味にはうるさい方だ。
問題はどうやって現地語に翻訳するかだ。
小学生に分かるように、専門書を翻訳プラス解説。ハードルが高い。それを思うとさかなクンは偉いな。
翻訳の仕事に少し憧れがあったけど、想像以上に大変だ。
四苦八苦しながらも読もうとすると、エリックは慌てなくていいみたいなことを言う。彼はたまに大人っぽいが、言葉とは裏腹にその顔つきは、早く早くと言っていた。
なんだかなぁ。
数日かけて翻訳していくと、エリックはたくさん魚が取れる漁法に興味を出した。
エリックはこの村の村長らしく村の収入を上げたいのだろう。
この年で村長? と、首をかしげたが、どうやら父親も村長だったようで、まぁそういうものかと納得した。
いくつかの漁法の内、出来そうなものを説明した。
しかし、この本には感謝しなくては。この本を読んだおかげでこの地に自分以外の日本人がいるとを確信して少し安心した。
どこかで会えるかもしれない。
エリックの話ではこの本の作者はすでに亡くなっているようだが、この地にいるのが一人とは限らない。最後にこの本のことは秘密と言われる。特にメッシーナ神父には知られたくないようで、理由までは分からなかったが頷いておく。
エリック心配しないで、そもそも話す相手がいないから。
「エリカ」
エリックが嬉しそうに手を振る。
眼前では、村の漁師が奥さん子供の家族総出で網を編む。なかなかすごい光景だ。
江莉香がチョイスしたのは地引網漁だ。近年では漁場が荒れるとかでなかなか微妙な漁法だが、沿岸で小規模で行う分には生態系に影響はないだろう。
この村にも網はあるので、作成には問題はないはずだ。
一週間ほどの時間をかけて、全長30メートルほどの巨大な網が完成する。スケッチには錘や浮きなどの工夫が書かれていたが、初めからそれは難しいだろう。下の部分に適当に石をかませて錘にする。浮きは今回は諦めた。
完成した網を見て回り、エリックに向かって頷いた。
エリックが号令をかけると、漁師たちが一斉に海に入る。砂浜のおかげで遠浅になっているため、思ったより沖の方まで歩いて行ける。
30人の男たちが二手に分かれて勢いよく網を引く、見た目より重労働の様でなかなか岸まで来ない。
村の奥さんや子供たちが声をかけ、楽しそうだ。
猟師の男たちは声を掛けあい網を引き、岸に付くと皆が網に集まった。
エリカも一緒に、網を覗き込んだ。
「あれ。思うたより少ないかな」
大小20匹ほどの魚や貝、クラゲ、ウミウシみたいな生物が絡まっていた。
重そうに網を引いていたので、もっと沢山の獲物が掛かっていると期待したのだが。
しかし、江莉香の感想とは別に村人たちは大喜びだ。
獲れた魚を掲げて大笑い。まるでお祭り騒ぎ。エリックもスキップするように網を見て回り、大満足の様だ。
どうやらこれで十分らしい。
江莉香から見ればしょぼい漁獲に見えるが、様々な機械と、潜水艦も見つける魚群探知機で武装した現代漁師さんと比べる方がおかしい。
漁師たちはもう一度海に入ろうとするので、エリックに場所を変えろと伝えよう。同じところを攫ってもしょうがない。
「エリック。変える。場所。いない。魚。獲る」
エリックは江莉香の言葉に頷くと漁師たちに大声で指示を出した。
通じたようで、男たちは少し離れた場所まで網を引きずっていく。
前と同じように引き上げると、今回も同じぐらいの漁獲だ。そして3回目に網が破れた。
初めて作った網だから、強度が足りなかったらしい。
しかし、誰もそんなことは気にしない。また繕うだけだと大笑いで今日の漁は終了した。
とれた魚は最年長の漁師によって一家ごとに割り振られる。漁師でない者たちにも公平に分け与えられる。
なるほどこうやって村の経済が回っているのか。
まるで原始共産主義的な社会構造だ。隣の山田さんの奥さんが喜びそうな社会だな。それはそうと、共産党のポスターを窪塚家との境目に括り付けるのはやめてほしい。私たちまで共産党支持者みたいじゃないか
「エリカ」
日本のことを思い返している江莉香に、エリックが大きな魚を掲げてみせた。
これがエリックというか、シンクレア家の取り分らしい。
見た目はスズキみたいだが、味はどうなのだろうか。やっぱり塩焼きかな。
こっちに来るまで魚をおろしたことはなかったが、頑張ろう。今晩の夕食は豪華なものになりそうだった。
続く
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