【番外編】 side ユーリ

 ほどよい肉付き。決して栄養失調には見えない。

 白く滑らかな肌。その背には鞭打ちの跡一筋も無い。

 違ったのか? やはり彼は奴隷などではなく、人質か何か――


「ユーリ、やーらしー。何モラの裸じっと見てんだよー」


 ミストのからかう声に、着替え途中のモラがきょとんと振り返る。俺は軽く首を振ると、自身の身支度を再開した。


 彼――モラがこの船に乗り込んでから随分経った。しかし彼の素性については不明瞭なままだ。


 真水を飲まず、名を持たない事から、最初は船に乗せられていた奴隷かと思った。しかし、それにしてはあまりに船に疎すぎる。最近では随分と減ったが、乗船したばかりの彼は口を開けば質問ばかりで、索具の種類も帆の名前も何一つ知らなかった。

 そこで、「これから売られる予定の」奴隷だったのかとも考えた。けれどその可能性も低そうだ。


 そうこうしているうち、彼の謎は深くなっていった。その最たるものが魚達と意思の疎通だ。一体、彼は何者なのか……。


「おりゃっ」


 妙な掛け声と同時に、眉間を人差し指で引き上げられた。


「……ミスト」

「おーいユーリ、また眉間にシワ寄ってるぞー。どーせまたぐるぐる難しい事考えてたんだろ」


 俺はミストの指をそっと払うと、シャツの襟を正した。ミストは目をくるくる輝かせながら、俺の顔を覗き込んだ。


「頭のいいヤツも大変だな。で、今度の考え事は何?」


 好奇心の塊である彼は、どんな事にも興味を示す。そして、一度気にしだすと止まらない。それを知っている俺は観念して微かにため息を洩らすと、さっと周囲に目を配った。他に誰もいないのを確認してから、おもむろに口を開く。


「モラの事です」

「モラ?」

「彼が、何者なのかについて」


 するとミストは突然ぷーっと噴き出した。それから腹を抱えてけらけらと笑い転げた。


「何、まだ気にしてたの!? アイツは俺達の仲間、それでいいじゃん!」


 仲間だからこそ気になるんだ。船乗り達は常に仲間に命を預けている。だからこそ、信頼関係が何より重要になってくる。

 しかしミストは尚も笑いながら、俺の背中をばしばしと叩いた。……痛い。


「ほんっと生真面目だよなぁ、ユーリ。けどさ、」


 と、視界の端に何かが映った。廊下をころころ転がる芋。それをわたわたと追いかけるモラ。ようやく芋に追いつくとモラは、勢い余って膝をついた。そして手の中の芋を見つめて、嬉しそうに顔をほころばせた。


「……モラはモラだと思うよ。それ以上でもそれ以下でもなくて、さ」


 ミストの言葉はあまりにも浅薄で短慮で、しかし俺の胸に不思議と心地良く沁み入った。廊下では転んだモラの手から再び芋が転げていた。



◆◆◆



 数日後、俺は驚くべき告白を聞くこととなった。


「ぼく ほんとうは マンボウなんだ。まほうの くすりで にんげんに なったの」


 消え入りそうな彼のつぶやきに、俺は言葉を失った。


 魚? 彼の正体は、人ではなく?


 詰問も、否定の言葉も、いくらでも言えた。いくらでも言いたかった。けれど。




――モラはモラだと思うよ




「わらわないの?」

「否定するより、肯定したほうが辻褄が合うので」


 海面に目を向ければ、件の鯛が水中に姿を消した。潮風が俺達の間を通り抜ける。と、俺の頭の上をリリが飛び過ぎ、モラの頭の上に収まった。


「クロイ サンゴノ シマ! クロイ サンゴノ シマ!」


 黒い珊瑚の島――黒曜島。そこへ行くにはモラの案内が要る。俺はモラに振り返ると、彼のつぶらな瞳を見つめた。


「モラ。君がただの人間じゃないことは皆薄々気がついています。ただ、今確かなことは、君の助けが必要だということ。この船にも、オーグにも」

「オーガストにも?」


 やはりと言うべきか、彼の関心はオーガストに向かった。俺は微かに頷いて言葉を続けた。


「先頭切って突っ走って、向かい傷を一番受ける人ですから。俺達は彼と一緒に戦うことは出来ても、彼を癒すことはできない」


 そう、それが出来るのはモラただ一人だ。しかしモラはわかっているのかいないのか、口をぽかんと開けて目を瞬かせている。そんな彼の表情に、思わず肩の力が抜けて、俺にも自然と笑みが洩れる。


「君が来てからオーグは変わった。きっと君が、魚から人間になった以上にね」


 何故、こんな荒唐無稽な話を信じる気になれたんだろう。ひょっとしたら俺も、俺の中でも、何かが変わっているのかもしれない。そっと眉間に指を添えてみる。皺は寄っていなかった。

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